68 一つの終わりと一つの始まりー2


 西の空は、朝から薄曇りだった。


 その空の下、鬱蒼と乱立する檜の巨木の幹から幹へ、一つの影が跳んだ。


 それは、基本的にはムササビだった。

 ただし、通常のムササビの十倍はある。さらに、四肢の先には鉤爪があり、背中は鈍色の逆鱗で覆われていた。


「――姫!」


 普通の人には不可能な速度で、下生えの雑草や灌木の茂みをかき分けながら地を走り、樹上を逃げる影を追い込んでいた長身の人影が、声を上げた。


「わかってるわよ!」


 同時に、一際太く高い樹上の枝葉の影から、翼を持つ白鹿が躍り出た。

 ちょうどその真正面に飛び出す形になったムササビもどきを、枝角の一振りで弾き飛ばす。体勢が崩れたところを目掛けて、その背に乗っていた市女笠いちめがさの少女が『楔』を撃ち込んだ。


 ギビイ、と声を上げて、ムササビが落下する。

 そこへ走り寄った男が、『霊刀』を一閃させる。


 それで、終わりだった。


「――滅してしまってから言うのもなんですが」


 塵となって消えていく妖種を後目に、九条ゆかりが白鹿の『驟雪しゅうせつ』と共に地に降り立つと、『霊刀』を収めた三室みむろ柾木まさきが歩み寄って来た。


「捕えなくて良かったのですか?」

「本当に今更ね。でも、あんな小物じゃ『半裂はんさき』や『泥炭でいたん』の代わりにはならないわよ。どうせ狩るなら、もっと役に立つものじゃないと」


 少しばかり呆れたように言ってから、少女はちらりと随身を見やった。


「でもまあ、あなたの床払い記念の足慣らしには、ちょうど良かったわね」

「はい。この通り。姫様と、毘山びざんの薬師たちのおかげでございます」


 にこりと笑って、柾木は、ぽんと胸を叩いてみせる。

 それから、少し眉をひそめるような表情になって、周囲の森を見回した。


「しかし、例え小物とはいえ、毘山に妖種が出たなど、これまで聞いたことはございませんでしたね」

「普通は隠すからでしょ。九条青明せいめい羅睺らごう門での失態を隠したのと同じよ。仮にも高台宗こうだいしゅうの総本山に妖種の出現を許したなんて、浄界じょうかいの名が泣くじゃない」

「それを隠し切れなくなってきた、ということは、やはり妖種の出現は、誤魔化しようもなく増えているのですな」


 柾木が、軽く息を吐いた。


「あの斗和田の長兄が言っていたことが、身につまされますな」

「面白い話だったわねえ。神狩一族のご先祖様たちが、世の為人の為と必死になって頑張ってきたことは、実はこの世を毀してしまうことだったなんて。九条青明が聞いたら、なんて言うかしら」


 紫がくすりと笑った時だった。


「こっちも片付いたかのう?」


 どこか呑気な響きの声が聞こえて、近くの藪ががさがさと揺れた。

 その向こうから現れたのは、じじむさい喋り方とは裏腹の、二十歳をいくらか過ぎた年頃の青年だった。


 秋津洲あきつしまでは、貴族や武士は勿論、庶民ですら、成人の儀を終えた男性は、髪を頭の上に結い上げて、布で包むか髷に結うかする。


 だが、この青年の髪は全体的に短く刈り上げてあった。

 肩幅のあるがっちりとした体躯にまとっているのは、黒の裳付衣に白のくくり袴、白の脛巾を巻いて高下駄を履き、腰には太刀、手には長刀を持っている。

 高台宗の戦法師いくさほうしと呼ばれる者の、典型的な装いである。


 しかし、厳めしい装いとは裏腹に、男の顔には人好きのする愛嬌というものがあった。


「妖種の一体や二体、宿代と薬代の代わりに片付けろと言われれば片付けるけどね、英照えいしょう殿」


 ひょいと地面に飛び降り、『使』を身の裡に戻しながら、紫は肩を竦めた。


「けど、毘山の戦法師なら、あの程度の小物、自分たちで始末できるでしょうに」

「そりゃあ勿論。しかし、このところ、毘山の周辺やら寺院領やらでも妖種の出現が相次いでおってなあ、大半の者はそっちへ出払っとるんじゃ。わしを含め、残っとる者だけじゃ、東岳とうがく西岳せいがく美琶谷びわだにまでは到底手が回らんからのう」

「で、怪我人を連れて転がり込んできた挙げ句、二月も居候を決め込んでいた『九条の小娘』のことを思い出した、という訳かしら?」

慈恵じけい僧正様がな」


 けろりと応じてから、青年は、ぱちんと両手を合わせた。


「いやあ、しかし、本当に助かった。参拝に訪れた貴人の列のど真ん中で、小物とはいえ妖種が、それも複数が生じるなぞ、前代未聞じゃったからなあ。お前さん方が一方を引き受けてくれて有り難かった。この通りじゃ」

「調子がいいんだから」


 小さな肩を竦めて見せてから、紫は悪戯っぽく笑った。

 柾木に対するものほどではないが、実兄に対するものよりはよほど気安い表情であり、口調だった。


「いつもは、妖種を下僕にして妖種を狩るなぞ下賤の技だと莫迦にしているくせにね」

「わしは言うたことはないぞ! 高台宗には高台宗のやり方があり、お前さんらにはお前さんら神狩のやり方がある、それだけのことじゃと思うておる」

「高台宗の法師が、皆、あなたや慈恵様や子雲しうん様のようだったら、常盤台ときわだいとももう少し仲良く出来るでしょうにねえ」

「まあ、真言しんごんが全ての真理、他のやり方、考え方なぞは全て邪宗、と決めつけてはばからん堅物は多いからのう」

「そういうのが困るのよねえ。まあ、こっちも人のことは言えないけど。――それはそうと、出現した妖種は、さっきのムササビもどきで最後でしょ。終わったなら、早く戻りましょうよ。雨が降りそう」


 頭上の曇天を見上げて、紫が言った時だった。


「――英照師兄しけい


 声が響いて、木立の影から、小柄な人影が現れた。


「子雲様がお探しです。急いで、賀雀院がじゃくいんにお戻りください」

「師兄が? 何ぞあったか?」

「英照師兄が草庵の床下に隠されていた酒壺が見つかったみたいです」

「何じゃ、そんなことか」

「そんなことかって、子雲様、カンカンですよ。酒、女、賭博、いつになったらあいつは高台の三戒さんかいを遵守するようになるのか、って」

「ああ、そりゃ、一生無理じゃな」

「だから、出世できないんですよ、師兄は。慈恵様の最後の直弟子、大講堂始まって以来の秀才とまで言われていたってお方が」


 そう呆れたように言ったのは、紫と同世代の少年だった。

 英照と同じように髪は短く刈り、小柄ながらも引き締まった体躯に、毘山の法師たちが、掃除や薪割り、畑仕事などの日々の雑務を行う時に着る、筒袖で前合わせの上衣と膝丈の脚衣を纏っている。


「女性の素晴らしさも般若湯の良さもわからん唐変木なぞ放っておけ」


 振り返った英照が肩を竦め、それから首を傾げた。


「それはともかく、わしがここにいると、よくわかったな」


 どの堂宇や庵からも少し離れた、そま道すら無い山中である。


「霊気を追ってきただけです」

「相変わらず、大した霊感じゃ。ああ、そうだ、紹介しよう」


 破顔した青年が、紫と柾木を振り返った。


「この子は、三年ほど前、わしと子雲師兄が僧正様のご用で奥東方おくとうほうの寺を回っていた時に、通りすがりの村で拾った子じゃ。戦災に遭って親兄弟を失くし、行く当ても無いと言うので、連れて来たんじゃが」


 毘山には、そういう子供が何人も居た。

 大抵は下働きで一生を過ごすが、中には才能を見込まれて、本来なら貴族や武家の子弟に限られる毘山直弟子の列に加えられ、学問や霊能の術を授けられて、法師として大成する者もいる。

 英照が正にそれだった、と紫は聞いた覚えがあった。


「お前さんらならもうわかっとろうが、これこの通り、大層強い霊珠を持っておるじゃろ? やる気さえあれば、きっとわしなぞより立派な法師になれるぞ、と焚きつけてみたら、本人も、他にやることもないからと了承したのでな、先年、門弟に加えたんじゃ」


「――初めまして」


 英照の言葉に応じて、その少年が真正面から紫を見た。


 その顔を、紫はまじまじと見つめた。

 透明感のある、白皙の顔立ち。

 それは、初対面ながら、知らない顔ではなかった。正確に言えば、別の他者の記憶の中で既に邂逅していた。

 ただ、その時の少年の髪は長く、色もごく普通の黒色だったが、今目の前にいる少年の短く刈られた髪は、生きながら地獄をくぐった事実を知らしめるように、真っ白になっていた。


朝来あさぎ透哉とうやと申します」


 特に何の感慨もなくそう言って、その少年は、作法としては完璧だが、どこか機械的な印象を受ける所作で、頭を下げた。


 曇天の彼方で雷光が閃いた。

 ぽつ、と小さな雨粒が頬を叩いて、風も吹き始めた。



【第一部 風の十字架 完】



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