67 一つの終わりと一つの始まりー1


 そうして、更に数日後、七尾凛子と子供たちは本当に水守家にやって来た。


 念の為と伊織が同行した為か、凛子が水守家の門前に立って訪いを入れるところを見た御館の門番たちも、所用で御館に出入りする里の者たちも、口に出して何かを言う者はいなかった。


 一方、素直な笑顔で客人たちを迎え入れた二緒子は、凛子に改めて真垣での礼を言われ、魚籠の中でまだぴんぴんと跳ねている小魚や、干した鹿肉、籠に山盛りにした野菜などを差し出されて恐縮してしまい、反射的に謝絶していたが。


『魚は、今朝、僕たちが里の川で釣ってきたんだよ。とっても美味しいから、お姉ちゃんたちに食べてもらおうと思って』

『鹿肉はね、冬に父上が獲ったのを干しておいたものなの。野菜も全部、僕たちの家の庭で採れたものだから』


 変なものじゃないから――と、母親の左右に居た双子に涙目で力説されて慌ててしまい、結局は有り難く受け取っていた。


 その後、凛子は夫からの見舞いの言葉を言付かってきたからと、伊織と一緒に一也の病間を訪ね、その間、三朗と二緒子は、四輝も呼んで、『約束だからね』と歌留多かるた独楽こまを携えていた双子と、縁側や庭で一緒に遊んで過ごすことにした。


 これが、思いのほか楽しい時間となった。


 それは一にも二にも、創と新という双子が、終始明るく、友好的だったからだ。

 水守家に対して、一切の悪意も敵意も無い。そういうものを植え付けられていない。むしろ、最初から親愛感全開で、二緒子はもとより、初対面の三朗や四輝にも屈託なく話しかけてくる。

 最初はいつも通り二緒子や三朗の後ろに隠れていた四輝が、その明るい雰囲気に釣り込まれるようにして、自分から少しずつ遊びの輪に加わってきたほどだった。


 創と新の方も楽しかったのか、戻って来た母親が帰宅を促しても中々頷かず、次に遊ぶ日の約束を交わすことを許されて、やっと帰っていった程だった。


 以来、創と新は、既に二回、水守家を訪ねて来てくれていた。

 そうして、もはや付き添いの凛子はおろか、二緒子や三朗が中に入らなくても、四輝と三人、庭で独楽を回したり鬼ごっこをしたり、部屋で歌留多をしたり絵を描いたりと、いつまでも仲良く遊んでいる。

 つい最近の訪問の帰り際など、普段は邸の門から一歩でも外に出ることを怖がる四輝が往来まで見送りに出て、帰っていく双子にいつまでも手を振っていたほどだった。


 その光景が二緒子と三朗に与えた感慨は些か複雑で、そして、言葉にならないほど大きかった。

 まさかこの八手の里で四輝に同世代の友達らしい存在ができるなど、少し前までは想像したことさえなかったからだ。


 だが、喜んでばかりはいられなかった。


 四輝はまだ斗和田での具体的なことは知らないし、どうもそれは七尾家の双子も同じ様子だった。

 清十郎と凛子は、八手一族の多くの大人たちのように、水守家は家族、同胞の仇だと子供たちの前で罵って、怒りや憎しみといった感情を子供たちに伝えることをしなかったのだ。


 だからこそ、問題はこれからだった。


 七尾家の兄弟と四輝の間に交流が発生したことは、すぐ里中に知れる。

 その時、創と新に向かって、両親が言わなかった言葉を吹き込む者は、必ず現れるだろうから。


 その結果、互いの兄や父親がかつては生死を賭けて戦い、家族、同胞が殺し殺されていることを知った時、幼子同士の親愛感はどうなるだろう。

 何も知らぬまま下手に親しくなっては、後で余計な傷を負うことにならないだろうか。


 目の中に入れても痛くない末弟のことだけに、三朗と二緒子の不安や心配は尽きなかった。


 だが。


『確かに、斗和田のことを知れば、四輝は傷つくだろう』


 四輝と七尾家の双子の間に交流が発生した日、喜びと同比重で不安や心配を口にした三朗と二緒子を前に、一也は言った。


『だが、だからと言って、四輝を閉じ込めて、一生誰とも何とも関わらせない訳にはいかない。だから、無責任な他者から誹謗や中傷として知らされるぐらいなら、我々の口からきちんと事実を伝えよう』


 過去をなかったことにすることはできないし、現在がその延長にあることも動かしようのないことだから。


『ただし、教えるのは事実だけだ。それを知ってどう思うかは、四輝の心に委ねよう。お前たちの中に無い訳ではない怒りや憎しみの感情まで、伝える必要はない』


 怒りは視界を曇らせる。

 憎しみはたましいを翳らせる。

 そんな実例なら、もう、嫌というほど目の当たりにしている。


『四輝が事実を知った上で自らそういった感情を抱くならともかく、我々が吹き込んだりすれば、あの子の人生の選択肢を狭めるだけで、何の益もない』


 確かに、例え全ての元凶は鬼堂家にあり、八手一族に鬼堂興国の命令に逆らう自由はなかったと知った今も、目の当たりにした暴虐の光景を赦すことなど、三郎にも二緒子にもできはしなかった。


 これは、伊織や清十郎に対する個人的な親愛感や信頼感とは別のものである。


 それでも、四輝が七尾家の子供たちとの交誼を望むなら、それを邪魔することはしてはならないだろうと、一也は言った。


『この三年、我々以外の他者は恐ろしいものでしかなかった四輝の世界が、ほんの少しでも広がるなら。情愛や信頼の基となるのは神珠や血のつながりだけではないと、あの子が知ることができるなら』


 人間であれ真那世であれ、言葉を尽くしても理解し合えず、共感も交わせず、傷ついて苦しむことは多々ある。

 間に流血の大河を挟んでいる者同士であれば、尚更だ。


 それでも、その大河を挟んだ反対側に、憎しみの石を投げる者ばかりではなく、それを抑えて橋を掛けようという意志を持つ者が居るなら。


 その橋の真ん中で握手を交わせる可能性は、零ではない。


『我々が母上から頂いた霊珠は、血だけではなく、心で他者のそれと触れ合い、通じ合うことができる。それを学ぶ機会を、四輝から取り上げる訳にはいかない』


 水守家と八手一族の出会いは、およそ最悪としか言いようのない形だった。


 だが、だからこそ、別の形での出会いが叶うなら、それはきっと四輝にとって、未来を照らす希望の一つになるだろうから、と。


 ***


「姉上、もう一つ、もらってもいい?」

「勿論。たくさん食べてね」


 あっという間に一つ目の豆大福を食べてしまった四輝が、嬉しそうに二つ目に手を伸ばしている。

 二緒子は、そんな四輝のあんこだらけになった口の回りを拭いてやりながら、湯呑みに水差しから白湯を注いでいる。


「二緒子、私もいいかな?」

「はいはい。兄様は、本当に豆大福に目がないですね」

「人生で初めて口にした甘味だったからな。もうたましいに染みついてしまっているんだろう」


 四輝に負けず劣らず幸せそうな顔をしている一也に、二緒子の苦笑が深くなる。


 その様子を、三朗は、庭先にたたずんだまま見つめていた。


 瞳孔の奥で、小さな光が揺れる。

 斗和田での最後の家族の団欒の光景が、目の前の光景に重なった。


 喪ったものと残ったもの。

 それが数珠玉のように連なって、視界の中をくるくると回り始める。

 従妹たちの歓声。母が居て祖父が居て叔父が居て、透哉も当たり前のように笑っていた。春の日差しの中、揃いの花簪が揺れる……。


「――三朗」


 その時、一也が視線を巡らせた。


「そういえば、二緒子から聞いたが、七尾殿に剣の指南をお願いしたそうだな」

「あ、はい」


 ふっと意識を現在へ戻して、三朗は慌てて頷いた。


「強くなりたくて。――早く。もっと」


 それは、もはや願いというより、脅迫観念のようなものだった。


 だが、流石に病み上がりの一也には、まだ稽古の相手は頼めない。

 かと言って、一人で型稽古をしているだけでは中々進歩しないし、二緒子では自分を叩きのめしてはくれない。


 そこで、駄目で元々と、前回、創と新がここへ来た時、付き添いの凛子に頼んで帰りに家まで連れて行ってもらい、清十郎に願ってみた。

 すると、八手一族最強の戎士は、しばらく三朗の顔を眺めた後、俺で良ければ、と快諾してくれたのだった。


「そうか」


 二緒子が少しだけ心配そうな顔をしている。

 しかし、一也は透明な微笑だけを広げて、頷いた。


「ならば、失礼のないように、しっかり頑張れ」

「はいっ」


 この世は地獄。

 誰かがそう言った。


 確かに、その通りだと思う。

 過去の痛みは厳然とそこにわだかまり、荊棘けいきょくの檻に在る現在は変わらず、未来ははるか彼方で、絶望の数に比べて、新たに生じたものを含めてすら、希望の数はあまりにも少ない。


 それでも、今一度、その場所を往くと決めた。


 だから、やれると思うことは全てやる。

 技を磨き、知識を蓄える。

 そして、大切なものを護り通す。

 今、目の前にある光景を、今度こそ。


 いつか、全ての責務を果たし終えて、背負った罪科と共に消え去ることが赦される、その日まで――。


「三朗兄上も、はい」


 そこへ、四輝が皿の上の大福を一つ取り上げて、まだ一人だけ手を出していなかった三朗に差し出してきた。


「美味しいよ!」

「うん。ありがとう」


 にこりと笑って受け取って、それから、ふと空を見上げた。


 東の空は、よく晴れていた。

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