64 道しるべ

 伊織を呼びに行った三朗が、そのまま連れ立って歩き出す。

 それを見送って、二緒子におこは兄に視線を向けた。


「兄様、聞いてもいいですか?」

「ん?」

「あの約束って、本気ではないですよね?」


 妹の小声に、一也いちやが視線を持ち上げる。

 そこはかとない不安と怯えを滲ませている白い顔を見やり、『どの約束だ?』と聞き返すようなことはせず、ゆっくりと息を吐いた。


「本気だよ」

「! そんな……」

「本気でなければ、三朗の無意識の底にまで届きはしなかった。たましいが、上辺だけの嘘や誤魔化しになど呼応しないことは、お前も知っているだろう?」

「でも、でもっ、じゃあ……」


 一気に顔から血の気を引かせて、二緒子は三朗の後ろ姿を見やった。


四輝しきが一人前になった時、三朗が本気で望んだら、兄様が三朗を、こ、ころ……」


 仮定の話ですら、到底最後まで言葉にすることはできなかった。

 恐ろしいなどというものではない。

 そんな未来は、二緒子にとってこの世の終わりに等しい。想像の中ですら、決してあってはならないことだった。


「どうして、ですか」


 確かに、祖父が危惧していた通り、三朗は、忘れさせていた分だけ衝撃が強く反動して、従兄妹たちへの罪悪感と自分自身への嫌悪感から、死を以て償うこと以外、何も考えられなくなっていた。


 だから、一也は外から生きる理由を与えて、三郎の意識を現実へ呼び戻そうとした。

 そこまでは、二緒子にもわかる。

 そして、それが『成功』したことは、さっきの三朗の言葉からも明らかだ。


『俺は、兄上と姉上を四輝のところへ帰す為に戻ってきたんだから!』


 三朗はそう言った。自分が現実に戻って生きていく為ではなく、あくまで四輝の為、そして兄姉の為に戻ってきたのだ、と。


「それで――それだけで、いいではありませんか。どうして、あんな……」

「それだけでは足りないと思ったからだ」


 一也が、ゆるりと首を振った。


「確かに斗和田では、真那世であることを理由に、人の為に戦うことや尽くすことを強要されることはなかった。この神力ちからを何の為にどう使って生きていくのかも、我々の自由意志に委ねられていた」


 だが――だからこそ。


「みだりに真那世の力を振りかざすことや、それで人を傷つけることは、厳に戒められてきた」

「それは――はい」


 生き物としての差異を理由とした制限や抑圧を掛けられることがなかった。

 だからこそ、人と共に生きていく為には、自分たち自身の自制と自律が必要不可欠だった。


「だから、あの時、それが出来なかったことは――あの状況で、九歳の子供にそれを求めるのは酷すぎると重々承知しているが――三朗が『加害者』として、生涯、背負っていかなければならない業だ」


「加害者……」


 重い言葉が、胸を抉る。

 同時に、記憶の中から従弟の悲鳴が聞こえた。

『化け物!』と叫んだ声が。


 二緒子や三朗が、鬼堂興国おきくにに向ける眼差しと同じように。

 八手の里の多くの者たちが、一也に向けている眼差しと同じように。


 あの瞬間、透哉とうやの眸からは、九年間共に暮らした日々も、その中で育まれていた家族としての想いも、全てが淡雪のように消えていた。

 そこに在ったのは、人が異形に対して抱く心底からの恐怖と嫌悪、それだけだった。


(透哉君……)


 あの日あの時、二緒子は一也と共に祖父を看取り、瑠璃るり玻璃はりと共に、あの野原の片隅に埋葬した。

 その後、二人で意識を失ったままの三朗を背負って透哉を追ったが、透哉は集落の方ではなく周囲の森の方へ逃げてしまったらしく、見つけることはできなかった。


 それきり、透哉の消息は不明だった。


「お前が三朗を庇いたい気持ちはわかる。私だって、庇えるものなら庇ってやりたい」


 ぺたりと腰を落とした二緒子に、一也は、同じ痛みを内包する眼差しを向けた。


「だが、他ならぬ三朗自身が、それを拒否している。だからあの子は、瑠璃と玻璃の命を、そして透哉の怒りと哀しみを受け止めて、手放さなかった。その計り知れない重みで自我が無意識の底に沈むようなことになってさえ、逃げようとしなかった」


 ハッとして、二緒子は顔を上げた。

 鬼堂興国は、自我を喪失した三朗を、現実を直視できない弱者だと嗤った。

 だが、一也は、逆だと言うのか。現実を直視し、その重みから逃げなかったからこそだ、と。


(そう――だ)


 知っている。

 三朗は、いつも、何があっても、決して逃げない。

 斗和田が崩壊した時も、その後も、一昨日の初めての『役』でも、そうだった。

 不安に震えることがあっても、恐怖に怯えることがあっても、最後には必ずそれらを乗り越えて、立ち向かっていこうとするのだ。


「だから、私は否定したくなかった。瑠璃や玻璃や透哉に対する、あの子の想いを」

「……」

「だが、原因となったのが突発的な異常事態だったことと、あの時の三朗の幼さ、未熟さは、考慮されるべきだ。だから、あの時、おじい様は断罪するのではなく、記憶を封じることで、三朗に可能性を残して下さった」


 だが、無意識の底の底まで罪の意識に染め上げられている今の三朗では、一也や二緒子が何をどう言おうと受け付けないだろう。ただ、兄弟の情で庇っていると思うだけだ。


「それでは何も解決しない。だから、今の三朗に必要なのは、まず時間だと思った」

「時間……」

「そうだ。生きてさえいれば、霊珠を持つ心は否応なく『想い』、『考える』」


 過去だけではなく、現在を、そして未来を。


「その中で、死以外の贖罪の道を見出すことができれば、三朗はもう一度、己れで生きる意味を掴み直すことができるだろう」

「だったら……!」

「だが、それは三朗にとって、素足で熾火の上を歩くような、地獄の道行になる」


 記憶の蓋が開き、自我も取り戻した以上、三朗はこれから呼吸をしている限り、あの血の雨の光景を繰り返し突き付けられ、罪の所在を問われ続けることになる。

 その度に、一度は自我を消失させたほどの痛みに、苦しみ続けることになる。


「だから私は、せめて少しでいいから、三朗を安心させてやりたかった」

「あ、安心? どうして命を絶つなんて約束が、安心させることになるのですか?」

「それは、私のやったことは、結局のところ、抑圧に過ぎないからだ」

「抑圧……?」

「本人の願いとは真逆の行動を強制している訳だからな。それを受け入れたのが三朗の意志だとしても、終わりの見えない抑圧ほど心を疲弊させるものはない。逆に、どんな形であっても終わりが明示されていれば、それは一つに支えになるものだ」


 いつまで頑張ればいいのかわからないまま、ただ地獄の道を歩かせ続けるだけでは、既にもう色々とぼろぼろの心身は、早々に限界に達してしまうかもしれない。


 だが、終わりさえ約束されていれば、『そこまでなら頑張ろう』と思えるのではないだろうか。

 少しでも前向きに。少しでも長く。


「それは――兄様も、そう思っておいでだからですか?」


 終わりの見えない抑圧。

 それは、まさに一也自身が置かれている、『質』という境遇そのもののことではないのか。

 三朗が死を取り上げられたというなら、兄は生を取り上げられている。

 ならば、兄もまた、終わりを欲しているのだろうか。

 もしかしたら、三朗が本当に死を望んだら、自分も……。


「それは違う」


 震え声で問いかけた二緒子に、一也は小さく瞬き、それから、質問の意図を悟ったのか、苦笑めいた表情を登らせた。


「確かに、『質』なぞにされているのは不自由だし、心底不愉快だ。だが、それを理由に死を望んだことは、一度もない」

「でも、兄様は私たちのことになると、すぐ無理をして、無茶をして、平気でご自分を投げ出そうとなさるから……」

「だとしても、それは、自分が死ぬ為ではない。九条の姫といいあの随身といい、やたらと私を憐れんでは、勝手に『死んだ方が幸せだろう』などと決めつけてくれたが、お門違いもいいところだ。私にとっての幸せは、私自身が決める。だから――」


 二緒子から視線を外し、一也は空の高みを仰いだ。


「時が果てて尚、三朗が己れ自身の消滅にしか救いを見いだせないままであれば――終わることこそが自分の幸せだとたましいの底から言い切るなら、それはもう仕方がない。その時は、よく頑張ったと言って、送り出す」


 遠くを見つめる眼差しに、一瞬、冷たく見えるほど厳粛な光が満ちた。


 その光が、二緒子にはっきりと突き付けた。

 一也はもう、完全にその覚悟を決めているのだ。三朗の痛みと苦しみを知ればこそ、その時はその手で全てを断つ――自らの意志で『血殺し』の罪を背負うつもりなのだ、と。


 ぞく、と全身を震わせた時だった。


 一也が、ふと片手を持ち上げた。

 その手は、微かに、本当に微かにではあったが、震えていた。

 斗和田で二緒子たちを庇い通してくれた時も、鬼堂興国に向かって神剣を抜いた時も、真神の『使』に対峙した時さえ小動もしていなかった、兄の手が。


「兄さ……」


 絶句した二緒子の前で、一也が苦笑未満の表情を滲ませて、その手を小さく握り込んだ。


 見えない槌で、頭を撲られたような気がした。

 瞬間的に、二緒子は、心の底から鬼堂興国を憎悪した。昨日の昼間のように、いや、あの時よりももっと強く、激しく、何もかもあなたの所為だと叫びたかった。


「どうして、兄様と三朗が、こんな……。どうして……っ」

「そうだな。どうしてこんなことになる――と、私も思うよ」


 短い溜息を吐き出して、一也が首を巡らせる。

 無事な方の手が伸びて、二緒子の頬を包み、目尻に溜まっている涙の粒を拭ってくれた。


「すまない、二緒子。私が本気ではないと言ってやれば、お前は安心できただろう。だが、嘘や誤魔化しは、所詮気休めに過ぎない。嘘だとわかった瞬間に瓦解するものが、本当の意味で力となることは無いから」


 それに――と言葉を続ける。


「この目で確かめたからな。お前の強さを。だからもう、嘘をついてまで庇う必要は無いと、判断した」

「は? え? 強さ? そんな、三朗はともかく、私なんて、全然」

「そんなことはない」


 慌てて手を振った二緒子に、一也は微笑した。


「三年前の変転から今日まで、一度も、何からも逃げなかったのは、お前も同じだ。妖種との戦いからも、八手一族の憎しみや怨みからも」


 何より、今日の戦いだ。


「私も三朗も居なかった間、どんなに恐ろしかったかしれないのに、踏みとどまって、一人でも私たちを護ってくれていた。目を瞑りそうになっても、瞑らなかった。最後には、あの主公に言い返してもいただろう? あれは、正直驚いた」

「あ、あれは、その、腹が立ち過ぎて、半分くらいは自棄だったかと……」

「だが、七尾様の御子たちを助けたのは、自棄ではないだろう?」


 小さく瞬いて、顔を上げる。

 見上げた先に、先ほどの厳粛な光はなかった。いつも通りの、優しく包み込むような表情があるだけだった。


「怒り、哀しみ、憎しみ――多くの者が囚われているそんなものに、お前は引きずられなかった。私は、そんなお前を心から誇りに想う」

「……」

「三朗もだ。自我を失う羽目になってさえ、瑠璃と玻璃の命を、透哉の想いを受け止めて手放そうとしない優しさと、四輝の為という理由一つでこの地獄へ戻ってくる勁さを、心底から誇る」


 だからこそ。


「信じている。おじい様が願ったように、三朗なら、地獄の道行にも敗けず、きっとあの血の雨の光景を乗り越えてくれる。生きて、その業を薄めていく道を見出してくれる、と」


 東の空に、真白の光が弾けた。

 曙光だった。

 頭上に広がる天蓋が、濃い群青から淡い紫へと、色を変えていく。


 その光の中、鼓膜を震わせた言葉が、頭に、心に、落ちていく。

 それと共に、曙光よりもっと鮮烈な光が、二緒子の身の裡に音もなく広がっていった。


 二緒子は、三朗が瑠璃と玻璃を殺してしまったという事実を否定したかった。

 そうすることによって、三朗の痛みと苦しみを取り除いてやりたかった。


 だが、それでは、桧山を始めとする八手一族の多くと同じなのだ。

 言い訳を与えてやっても、誰も何も護れず、救いにもなり得ない。


 だから、一也は、否定するのではなく、寄り添おうとした。

 終焉を望んだ気持ちをも否定せず、行動だけを止めて、四輝が一人前になるまでという限定された時間を用意し、三朗が自分自身の生を掴み直すことに賭けた。


 二緒子を心底怯えさせた、あの恐ろしい約束は、未来に対する絶望ではなく、希望。

 願い、祈り、恐れながらも信じたからこその、道しるべ。


 ――ならば。


「わ、私も、兄様と三朗と一緒に行きます」


 両手で目元を拭って、二緒子は、顔を上げた。

 言い訳を探すでなく、繰り言で過去を嘆くのではなく、その全てを否定して、前を向いた。


「三朗が他の道を見つけられるように、支えます。地獄でもどこでも、一緒に歩きます」


 痛みや苦しみを消してやることはできない。


 ――だが、分かち合うことはできる。


 地獄の道を代わりに歩いてやることはできない。


 ――だが、共に往き、倒れそうになれば肩を貸してやることはできる。


 重荷を背負う兄を援け、まだ何も知らない末弟を護り、運命の変転を乗り越えて、四人で共に生きていく為に。


「本当に強くなったな、二緒子」


 広がっていく朝陽の下、一也がふわりと笑う。


 それは、ほんの少し前までの、大人が子供を現実の過酷さから庇う為の笑顔ではなかった。それを越えた、同じ地平に立って同じ未来を見つめようとする者に対する、確かな信頼の笑顔だった。


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