63 五百と四十年の闇ー2

「長十郎兄上、何故、鷹村のご隠居やその尻馬に乗った者たちを注意されないのですか」


 舘林たてばやし竜之介が目撃した状況を後日になって聞いた伊織は、その足で兄のもとを訪れた。


「以前、琳太郎りんたろう君が中心になって、三朗殿を川に突き落とす騒ぎを起こした時も、兄上は何もおっしゃいませんでした。その結果、学堂がくどうでの、三朗殿や二緒子殿に対する八手の子らの嫌がらせはどんどん酷くなっているようです。このままでは、取り返しのつかないことになりかねません」


「琳太郎には、多生たき殿を通して注意はしてある」


 御館みたちの一角にある族長の執務室で文机の前に腰を下ろし、手にした巻紙に視線を落としたまま、十歳違いの兄は事も無げに言った。


「やりすぎて、万が一にも殺してしまっては、我々が主公しゅこうから罰されることになるのだから程々にな、と。『役』での使い道を含め、日常の水守家の扱いは我々に任せるが、死なせることだけはまかりならん、というのは御諚ごじょうであるから」

「っ、そういう意味ではありません」


 伊織は思わず腰を浮かせた。


「そんなことをして何になるのかという話です。自分たちが辛いからと言って、より辛い想いをしている他者を苦しめて良い理由はなく、家族を手に掛けた者が憎いからと言って、幼い子供に向かって石を投げても良い道理はない――そういう話をすべきだと申し上げているのです」

「そんな正論が何になる」


 弟を見ようとはしないまま、兄は口元を引き歪めた。


「そのような綺麗事で、多くの同胞たちの哀しみが、怒りが、癒せるか」

「暴力で得られる癒しなど、本当の癒しではありません! そんなものは、麻薬による快楽と同じです! 使い続ければ、より強い刺激を求めるようになり、どんどん激化していく。兄上は、一族の皆が暴力の中毒患者になっても良いとおっしゃるのですか」

「――その向かう先が鬼堂家や黒衆ではなく、水守の者たちであれば、問題はなかろう」


 顔を背けるようにして、長十郎は言い捨てた。


「お前は昔からそうだった。正義というか理想というか、あやふやな夢物語ばかりを追いかけて。だから、同胞たちの気持ちがわからないのだ」

「皆の気持ちなら、嫌というほどわかっています。だからこそ、これ以上、囚われて欲しくないのです。見当違いの逆恨みなど、ただ心を灼くだけ。皆のたましいを損なうだけだからです!」

「逆恨みだと?」

「そうではありませんか?」


 視線を背けたままの兄の横顔を食い入るように見据えて、声を振り絞った。


「宗次郎兄上の最期の言葉を、長十郎兄上も聞いておられた筈。宗次郎兄上を本当の意味で『殺した』のは――」

「黙れ!」


 不意の怒声と共に、長十郎の両手が、手にしていた巻紙を引き破った。


「宗次郎が死んだのは、斗和田の化け物の所為だ!」


 千切れた巻紙が放り出される。


「奴が悪いのだ。結局は『質』に降されるなら、さっさと諦めてしまえば良かったものを。じたばたと見苦しく足掻くから、あんなことになったのだ!」

「長十郎兄上……」

「宗次郎は二十七だったのだぞ。生まれたばかりの息子も居た。なのに……っ!」


 長十郎の両手が、自らの頭部を鷲掴みにした。

 爪先が髪に、そして皮膚に食い込むほど、強く。


「お前は、宗次郎が哀れだとは思わないのか。兄の死に、哀しみも憤りも感じないというのか!」

「そんな――そんな訳が無いではありませんか!」


 不意の激発に息を呑んでいた伊織だったが、その言葉には、思わずのように声が激した。


「それでも、宗次郎兄上を本当の意味で『殺した』のは、水守殿ではありません。兄上とて、本当はおわかりなのでしょう? ならば、どうか、怒りの矛先を向ける相手を間違えないで下さい!」

薫子かおるこを見棄てて、主公に弓引けとでも言うのか! そして、一族の皆が死に絶えるまで、術者どもと戦えと⁉」

「どうしてそうなるのですか⁉ 水守家を一族の鬱憤を晴らす為の贄にするのは間違っている、と申し上げているだけです! そのような横暴は、八手一族の名を穢すだけだ、と」

「殺された家族を想うが故のことを、横暴だと言うか!」


 頭を掴んでいた両手で、ばんっ、と文机の表を叩くと、長十郎は荒々しい動きで立ち上がった。


「琳太郎たちは少しばかり悪ふざけが過ぎただけ。鷹村殿らも同様だ。その程度のことに、一々目くじらを立てる必要はない」

「兄上……!」

「黙れ! これ以上、余計な差し出口は叩くな! お前はただ医薬師として、己れの務めだけを果たしておれば良いのだ!」


 ***


 ――『役』の筈だった。


 だが、違った。

 あれは『戦』だった。


 いや――そうとすら言えない。

 自分たちの都合だけで、敵対してきた訳でもない他族の村に一方的に踏み込み、彼らの神を狩ろうとし、人々を殺し、結果的に集落を一つ滅ぼした。言い訳のしようもない蛮行だった。


 だが。


『――仕方なかった』

『そうだ。家族の、一族の、為には』

『俺たちは悪くない。そうだろう? 俺たちの所為じゃない』


 降りしきる豪雨の中、共に斗和田の崩壊を目の当たりにした同胞たちは、ぱらぱらとそんな声を上げていた。どの声も震えていて、今にも襲い掛かって来ようとしている何かから逃げるような必死さに満ちていた。


 神狩一族は、異形を滅し、人の世の安寧を護ることを責務とする。

 霊力も霊能の技も、その為のものである、と。


 故に、先代の鬼堂式部しきぶは、本来なら滅するべき真那世まなせを生かしておくのは、あくまで人の世を護らせる為であって、自分たち鬼堂家が覇を唱える為ではない、と繰り返し主張していた。

 他国、他族に対する抑圧、支配の為に真那世の神力を使った古の真那世の大国たちとは違う、と。


 それは、鬼堂式部の神狩一族としての矜持だったのだろうし、九条天彦あめひこが言っていたように、霊力や霊能の技を見せつけたり、人を傷つける為に用いたりして、一般の人々に恐れられ、排斥されることを避ける為という現実的な理由もあっただろう。


 だから、鬼堂式部は、妖種を滅する為の『役』には黒衆の術者と戎士、新しい土地を手に入れる為の『戦』――人を相手にした殺し合いには、味方についた地元の豪族や武士団という風に、麾下を使い分けていた。

 諜報や暗殺といった裏の手段にこっそり術者を使うことはあっても、公の戦場に表立って『使』や戎士を投入することはしなかった。


 後を継いだ興国も、そのやり方を踏襲していた。

 よって、五十代以上の八手一族ならば、四十年前に鬼堂式部に降された時の『戦』を実感として覚えている者も居るが、現在の戎士組の主力である二十代、三十代の戎士たちにはそれが無かった。

 故に、斗和田の『戦』は、大半の戎士にとって本当に初めての、人を相手にした殺し合いだったのである。


 清十郎は、その『人殺し』の意味と重みを受け止め、自分が『加害者』であることを自覚したからこそ、一時は気を病むほどに苦しんだ。


 だが、戎士の多くは、それを受け止めることができなかった。

 里で待っていただけの者たちは、そもそも、その意味と重みを理解することさえなかった。


 話を聞いただけで、その光景を現実として認識できる者は稀だ。

 凛子りんこなどはその稀な一人だった訳だが、多くの一族にとって、見たこともない異郷の村の滅びは、お伽噺と大差ないものでしかなかった。


 彼ら彼女らが現実として捉えられたのは、望みもしない戦に駆り出された家族が殺された、という事実だけだ。


 だから、斗和田の光景を知る者も知らぬ者も総出で、一族が行った『加害』のことは『仕方ない』と正当化し、一方で、一也いちやに家族や同胞たちを討たれた『被害』のことは『赦せない』と憎み、怨んで、自己正当化と自己憐憫に逃げ込んだ。


「そうでなければ、きっと皆、正気を保てなかったんだ」


 清十郎が言った。


「俺たちは、四十年前に突き落とされた奈落の底に、未だうずくまり続けている」


 支配と抑圧に膿みながらも、解放の夢はとうに棄て去られ、ただ神力を振るう凶器として消費されるだけの毎日に疲弊して、ただその日その日を無事にやり過ごすことだけを考えている。


「せめてその中で、愛する者の死をこの目に映さずに済めばそれでいい――と」


 だから、斗和田で生じた、かつてない規模の戦死者は、そんな一族の絶望にとどめを刺したようなものだったのだろう。

 故に、誰もが、喪失の痛みと哀しみに加えて、その家族や自分たち自身が非道な『加害者』だと自覚することには、耐えられなかった。


「長十郎殿も同じだ。まして――」

「わかって、います」


 伊織は小さく呟いた。


 わかってはいる。

 目の前で宗次郎を――まして、薫子を護る為に喪った、長十郎の気持ちなら。

 全てを水守家の所為にして、憎しみの中に逃げ込まなければ、正気を保っていられない――そんな辛く苦しい想いなら。


 それでも、認められないのだ。


「水守殿は、暴力に暴力を返すことはせず、言葉での抗議に留めている。数馬様の命令の所為もあるでしょうが、それでも、理性で忍耐を選択し続けている。ならば、こちらも、誰かが理性で応じなければなりません。なのに、それを為すべき長十郎兄上が、誰よりも感情に振り回されておられる」


 両手を握り込む。爪先が白く染まるほど、強く。


「あなたは、先ほど自分を『卑怯者』だと言いましたが、本当にそう言って水守家に詫びるべきは、長十郎兄上であり、針生本家です。だから、一族の理非を正す為に憎まれ役が必要だというなら、私がなります」


「落ち着け、伊織。お前らしくない」


 つかの間の沈黙の後、清十郎の手が、伊織の肩に乗せられた。


「理性で話をすべきだと言うお前が感情に流されてどうする。加害者の内部の事情など、水守家には関係ない。違うか?」


 敢えてのように強い口調で言われて、小さく肩が跳ねた。


「それは……」

「理屈で言えば俺の方が適任だと、お前も思うんだろう? なら、そうすべきだ。お前が俺や俺の家族を気遣ってくれるのは嬉しいし、ありがたいとも思っているが、今一番肝心なことはそれじゃない」


 清十郎が、肩越しに背後を振り返る。


「俺たちは罪を犯した」


 釣られて、伊織も振り返った。瓦礫の中で寄り添い合っている、水守家の兄弟を見やった。


「だからこそ、これ以上、一族の者たちが、彼らの忍耐と努力に敬意を払うどころか、逆に足元を見て敗者と嬲り、仇と罵って虐げるようなことは、あってはならない筈だ」


 それに――と、清十郎が伊織に視線を戻す。


「このまま奈落の底にうずくまり、自分たちばかりを憐れみ、全てを他の誰かの所為にして憎しみと怨みの炎を燃やし続けるなら、一族は皆、桧山のようになっていく。その先に待つのは、自滅だけだろう」


 桧山辰蔵の憎しみと怨みが、結局は何も護らず、救わず、彼を灼くだけだったように。


「ならば、それは一族の『敵』だ。俺が率先して戦うべきものだ」

「相手は、実体のない感情や価値観といったものです。『先祖返り』の神力も大剣も、通用しませんよ」

「それでも、俺は戦う者だ。だが、お前は本来、治す者だろう?」


 物理的に刃を交える実際の戦場であれ、精神的な価値観をぶつけ合う審理の場であれ、本気で戦えば、お互い無傷では済まないものだ。


「そんな時、一番に頼りになるのはお前だ。特に、長十郎殿の傷に寄り添ってやれるのは、お前しか居ない筈だぞ」


 小さく瞬いて、伊織は顔を上げた。


「私は――寄り添っていなかったでしょうか」

「正しいことを正しく言うだけでは、逆に相手を追い詰めることもあるからな」

「私が間違っていた――と?」

「違う。そうじゃない」


 ふと凍った表情に、労わるような眼差しが向けられた。


「皆が奈落の底にうずくまり続けていた中、お前だけは怒りにも哀しみにも敗けず、正義や倫理という光を掲げ続けた。そんなお前を、俺は心底尊敬している」


 ただ、一つだけ。

 失念していたことがあるとすれば。


「俺が毀れかけていた時、お前は一度も、『先祖返り』ならこうあるべき、なんて話はしなかった。自害しかけた時だけは力の限り張り倒してくれたが、後は、ただひたすら俺の話を聞いてくれただろう? だが、長十郎殿に対しては、族長ならこうあるべき、という話しか、していなかったんじゃないか?」

「……」

「先代が亡くなったのは、お前が七つかそこらの頃だったから、十歳も年上の長十郎殿も、八歳違いの宗次郎も、お前にとっては、水守家の子供らにとっての一也と同じような存在だったよな」


 兄として、庇護者として、信頼し、尊敬もしている相手だった。

 だからこそ、次兄の死をきっかけに、その長兄との間に齟齬が生じてしまった時。


「誰よりも長十郎殿を信じていたからこそ、失望の方が先に立ってしまって、何故そうなったのか――理由や気持ちを深く慮ることを失念していたんじゃないか?」


 そうかもしれない――と、伊織は思った。

 共に宗次郎の最期に立ち会っているのに。

 その最期の言葉を聞いているのに。

 どうしてわかってくれないのかと、自分の憤りばかりを正論に乗せて、ぶつけていたような気がする。


「言っておくが、それは長十郎殿の方も同じだからな。あっちはあっちで、どうして、兄弟なのに一緒になって一也を憎まないのかと、お前の考えも気持ちも知ろうとはしていなかったんだから」


 斗和田の戦は、水守家ばかりではなく、八手一族からも多くを奪った。

 その所為で、誰もがかつてないほど傷つき、余裕を失っていた。

 伊織とて、例外ではなかったのだ。


「桧山を告発すれば、上役、特に西家の御方と多生殿は、間違いなく桧山を擁護するだろう。訴人が俺でも長十郎殿は板挟みだろうが、お前となれば尚更だ」


 今のこの状況で、針生本家に残った兄弟の間が決定的に裂けたら、二人にとっても、一族にとっても、ありがたくない話になるだけだ。

 だから。


「お前は今のまま、治す者として、俺の友人で、長十郎殿の弟の位置に居てくれ。その方が、俺も長十郎殿も安心できる」

「そう――でしょうか」

「そうさ。何せお前は、目の前に傷ついた者が居れば、敵も味方もなく救い上げようとしてくれる、最高の医薬師だからな」

「――おだてても、何も出ませんよ」


 片手で額を覆えば、泣き笑いのような声がこぼれた。


「でも――そうですね。私が正論だけで表に立っては、これまでと同じだ。余計な感情が入り込み過ぎて、長十郎兄上をますます頑なにするだけかもしれません。それでは、何にもなりませんね」

「そういうことだ」


 清十郎の手が、ぽんぽん、と肩の上で跳ねた。


 ***


「――伊織様!」


 清十郎が軽く手を振って、瓦礫の片付けに奔走している一番組の戎士たちに加わるべく離れて行ったのと入れ違いに、背後で声が響いた。


 振り返れば、白帷子姿のままの水守三朗の、敵意とも反感とも無縁の眼差しとぶつかる。


葉武はたけ平九郎へいくろう様が呼んでます。薬庫を開けてやるから、必要なものを取りに来いって」

「――それはありがたい」


 いつもの穏やかさを戻して、伊織は三朗に向き合った。


「では、せっかくですから、頂けるものは頂きましょうか」

「じゃあ、俺、お手伝いします」

「水守殿についていなくていいのですか?」

「兄上には姉上がついていてくれますから。伊織様だって怪我をしているんだし、無理しない方がいいでしょう? 一番組の方々は忙しそうだし、荷物運びなら俺でもできますから」


 ごく当たり前のこととして示される気遣いに、先ほど一也と二緒子が清十郎に向けた礼節と笑顔が重なった。


 同じように鬼堂家によって奈落の底に突き落とされ、きっと内心には怒りも哀しみも、憎しみも怨みも、絶望すらも、時には逆巻くに違いないのに。

 それでも、彼らはごく当然のように八手一族にも思いやりを示し、礼節も忘れない。十二、三の子供たちまでが、懸命に理性で感情を抑えて、自分たちを護ることを第一にしながらも、他者の立場や気持ちを慮ることを怠らない。


『斗和田の化け物』などではない。


 同じ姿と体温を持ち、個の名前を持ち、人格を持っている。

 言葉の意味にも感情の動きにも理解が及ぶ、祖神は違えど、真那世という意味では同じ存在。


『君たちとは、こんな形じゃなく、逢いたかったよ』


 次兄が最期に遺した言葉が脳裏をよぎる。

 ああ、そうだ。全くだ。あんな最悪の形ではなく、もっとまともな形での邂逅であれば、どんなに良かっただろうと思う。

 だが。


(――嘆いても、始まらない)


 我々の出会いは、現実にああいうものだった。

 八手一族が犯した罪は、もはや取り返しようも償いようもない。

 だからこそ。


『果たすべきと信じる責任を果たす』


 奈落の底で腐り落ちていくのではなく。

 五百と四十年の闇を越えて、その先へと向かう為に――。


 改めて三朗を見やって、伊織はにこりと笑った。


「では、お願いできますか?」

「はい!」

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