62 五百と四十年の闇ー1

 伊織にも、の姿を視界に映す度に、思い出す光景があった。


 頭上には漆黒の天。

 鳴り響く地鳴り。


 爆ぜた蒼銀の雷光が、戎士たちの包囲網を崩す。

 上の弟が、下の弟を抱いた姉の手を引き、庇いながら走り出す。

 それを見届けるなり、斗和田とわだの長兄は、身体とたましいに残る力の全てを振り絞るようにして、地を蹴った。

『神縛り』の術道に捕らわれたまま、その根源を握る男へ向かって、真っすぐに。

 

「莫迦な⁉」


 左眼から鮮血を溢れさせたままの鬼堂興国おきくにの顔が、驚愕に彩られる。


 真那世が、『神縛り』の術道に捕らえられて尚、動く。

 真正面から、立ち向かってくる。

 攻撃の意志を棄てず、その為の刃を顕現させる。

 そんな光景は、彼には、いや、黒衆の誰にとっても、想像の埒外だったのだろう。


 それは、その場に生き残っていた八手一族たちにとっても同じだった。

 ここまで追い込まれて尚、斗和田の若者の双眸に絶望はなかった。

 そこにはただ、怒りだけが燃えていた。

 家族を殺し故郷を踏みにじった元凶を斃し、幼い弟妹たちだけでも護るという、相討ち覚悟の勁烈な意志だけが漲っていた。


「やめろ‼」


 すぐ傍に倒れていた長兄の長十郎が、もがきながら蒼褪めた絶叫を上げた。


「主公が死んだら、薫子かおるこも死ぬ! あの子は、まだ十二なんだ!」


 それは、長十郎としては当然の叫びだったが、斗和田の青年は一顧だにしなかった。


 当たり前だ、と、呆然と思った。

 彼が八手一族の事情を知る筈はない。

 それに、もし知っていたとしても、何故手控える必要があるだろう。

 最初に、自分たちの家族、同胞さえ無事ならそれでいいと、彼の家族や同胞の命を踏みにじったのは、こちらの方なのだから。


 もともと頑強な方ではない身体は、蓄積された疲労と心労で、もう動かなかった。

 先ほどの雷光に巻き込まれて傷を負った様子の清十郎や、他の戎士たちも同様だった。


 一瞬にも満たない刹那。

 誰もが、絶対君主である鬼堂興国の命が、その裡に捕らえられている一族の少女の命ごと散らされる様を幻視した。


 だが、その寸前、伊織の傍らを、血の匂いを纏った風が吹き抜けた。

 一瞬の躊躇もなく、蒼銀の刃の前に、一つの人影が飛び込んだ。

 限界まで見開いた視界に、虚空に跳ねた鮮血が映る。

 肉が裂け、骨が砕ける嫌な音が、鼓膜を叩いた。


「宗次郎‼」


 長十郎の叫びが、やけに遠くから聞こえた。


「すまない……」


 その叫びを、幽かな声が打ち消した。


「本当に、すまない……」


 斗和田の青年が目を見開く。

 その眼前で、ただ盾となっただけで、剣も『繰糸』も向けることなく、無防備に自らの胸奥を貫かせた伊織のもう一人の兄が、顔を上げた。


「自分たちの都合で、君の父神を害し、家族を殺し、最後の希望まで、潰した……。本当に、酷い話だ……」


 語尾に咳き込みの音が重なる。

 血の塊が吐き出され、急速に、神気も霊気も衰えていく。


 それでも。


 己れを殺す相手を、真っすぐに見つめて。

 その眸から、一筋の涙をこぼして。


「君たちとは、こんな形じゃなく、逢いたかったよ……」


 最後に幽かに笑って、針生宗次郎は、そう言った。


 ***


「清十郎」


 言うだけ言って、清十郎が後片付けの手伝いに加わる為に腰を上げ、水守家の兄弟の傍を離れたので、伊織はそれを追いかけた。


桧山ひやま殿のことですが」

「まさか、反対とは言うまいな?」


 呼び止めると、そんな返答が返る。

 咎める口調ではなく、あくまで冗談口だった。伊織であれば反対する筈はないと、信じてくれているからだろう。


「告発そのものに異存はありません」


 あれほどの裏切りを、御館がいつもの調子で有耶無耶にしては、もはや八手一族には正義も倫理も存在しなくなる。

 何より、水守家になら凶器を向けても罰されないなどという前例を作ってしまったら、彼らに対する嫌がらせを更に悪質化、凶悪化させてしまうだろう。


「しかし、その任をあなたが担う必要はありません」

「だから、それは」

「理屈で言えば、確かにあなたの方が適任でしょう」


 言いかけた語尾を、強い口調で引き攫う。


「長十郎兄上や上役たちに話を聞かせるという意味では、です。しかし、その結果、何が起こるか、起こりかねないかを考えたら」


 日頃温厚な伊織の顔が、青白く強張った。


「桧山殿に限らず、水守家が里に来てからの一族の者たちの態度は、私には異常としか見えないものでした。しかし、私が何をどう言っても、殆どの者たちは、何がおかしいのかわからない、という顔をするのです」

「ああ。それなら、凛子りんこ竜之介りゅうのすけからも聞いている」


 顔を顰めて、清十郎も頷いた。


 ***


 水守家が里に移住してすぐの頃の話だ。


 その日、七尾凛子は、知り合いの女たちと共に、里内を流れる川沿いの土手で菜花を摘んでいた。


 そこへ、数人の八手一族の子供たちが水守三朗を追い回しながらやって来て、彼を川へ突き落とすのを見た。しかも、その子供たちは手に手に棒を持ち、岸辺から寄ってたかって三朗を打ち、水中に押さえつけようとしていた。


『ちょっと、あんたたち、何をしているんだい』


 凛子は、喧嘩にしては度が過ぎると、子供たちを止めようとした。

 ところが。


『放っておおきよ、凛子』


 他の女たちは、その凛子をこそ制止してきた。


『そりゃ、一族の子供同士ならあたしたちだって止めるけど、あれは斗和田の化け物の弟だろう?』

『あの子たちは、斗和田の化け物に父親を殺されている子たちなんだから。少しぐらい懲らしめてやりたいと思うのも当然さ。それを止めたりしたら、可哀想じゃないか』

『――けど、それを言うなら、水守家の子供たちだって、うちの人やあんたたちの旦那や息子たちに、家族を殺されているんだよ』

『何を言うんだよ』


 凛子は思わず言ったが、女たちは一斉に顔を顰めた。


『あんた、自分の旦那が生きて帰ってきたからって、敵の肩を持つのかい』

『そんなのは、家族を亡くした仲間への裏切りってものじゃないか』


 その語気と言葉に息を呑んだ時、川の向こうから一也いちや二緒子におこが駆けつけてきた。

 その姿を見るなり、子供たちはそれこそ蜘蛛の子を散らすようにして逃げ、三朗は無事救出されて、凛子はこっそりと胸を撫でおろした。


 しかし、周囲の女たちは。


『残念だね』

『もっと水を飲ませてやればよかったのに』


 ずぶ濡れになって咳き込んでいる十歳そこそこの少年と、それを懸命に介抱している兄姉をちらちらと睨みながら、小声でそんなことを囁き合っていた。


 凛子はその時、よく知っている筈の仲間の女たちの顔が、全く知らない別の誰かの顔のように見えた――と、沈鬱な声で夫に語った。


 舘林たてばやし竜之介の方は、非番の日に用があって御館みたちへ行った折、一人の老人が、首を切り落としたカラスの死骸を十羽近くもぶら下げて来たところに行き会った。


『鷹村のじいさん? そんなもの、一体何をするんだ?』

『見りゃあわかるだろう。わしの息子だけじゃなく孫たちまで殺しおった化け物を、呪ってやるんじゃ』


 思わず声をかけると、老人はおどろおどろしい声で言い放ち、御館の斜向かいにある水守家の邸の門扉に、それらの死骸を釘で打ち付け始めた。


『はは、呪いか。それはいい。俺にもやらせてくれ』

『おじいさん、あたしも手伝うよ』


 竜之介は反射的に止めようとしたが、周囲にいた老若男女は、ばらばらとそんな声を上げた。

 そうして、近くの林や草むらで蛇やら百足やらを捕まえては、やはり同じように表戸に打ち付けたり、塀越しに庭へ投げ込んだりし始めた。


 竜之介はその光景に唖然とし、塀の向こう側から幼児の怯えた泣き声が聞こえ始めるに至っては気分が悪くなってきたのだが、集まった者たちは面白そうに笑ったり、囃し立てたりするばかりだった、という。


 ***


「凛子も竜之介も、その光景をおかしいと思った自分たちの方がおかしいのかと思ったそうだ」


 清十郎が、低く言った。


「だから、何も言えなかった。下手に制止などしたら、この異様な敵意や憎悪が今度は自分に向かって来るのではないかと思えて怖かった、と」

「そうです。その空気感こそが我らの五百と四十年に及ぶ闇――全ての元凶です」


 八手一族の一代の誕生は、鳳紀の始まりに重なる。


 つまり、真神や、先に存在していた真那世の一族たちが人間たちに駆逐され始めた頃に、この世に生じたということだ。

 だから、彼らは、人間からの弾圧を避けるため、一族だけで固まって逼塞しながら生きて来るしかなかった。


 だから、八手一族は、客観的な事実に基づく正義や倫理といったものより、主観的な価値観や感情に基づく同胞への共感や同調の方を大事にする。

 その結果、『皆で同じものを大切にし、同じものを憎み、常に同じ方向を向いていることを正義とする』価値観を育み、醸成した。


「しかし今、その価値観は、醸成が過ぎて腐り始めています」


 伊織は、低く吐き捨てた。


「誰かが『身内の仇』に向かって石を投げ始めたら、自分自身が家族を喪った訳ではなくても、ましてその相手が幼い子供であっても、一緒に石を投げなければならないのですから」


 それを否定することは、本来、正義や倫理の話である筈なのに、敵味方の話にすり替えられ、『敵』の肩を持つのかと反発され、『裏切り者』呼ばわりまでされるのだから。


「まして、それがあなたであれば、まず間違いなく、一族の反発はより大きくなります」

「そうだな」


 皮肉とも自嘲ともつかない笑みが、精悍な顔立ちの線を彩った。


「『先祖返り』として、一族の誰よりも強く生まれついた以上、俺は、誰よりも一族に貢献しなければならない。弱き者たちの期待と希望を背負って、誰よりも前に立ち、『敵』を斃し、『味方』を護らなければならないのだからな」

「だから、三年前、あなたは誰よりも多くの『人殺しの罪科』を背負って、私たちを護ってくれました」


 伊織は、ふと俯いた。


「しかし、その所為で、あなたは誰よりも苦しむことになった……」


 それは、八手一族の中でも、一部の者しか知らないことだった。


 一族最強の戎士、一番組の組長たる七尾清十郎が、斗和田から戻って以来、ろくに眠ることも食事をとることもできず、幼い息子たちを抱き上げるどころか、触れることさえできなくなったこと。

 夜通し悪夢にうなされては、看護する凛子や伊織に襲いかかったり、挙げ句、自分で自分の首を斬り落そうとしたりしたことさえあったこと。


 斗和田で彼に救われた者たちは、当たり前のように家族とのささやかな日常に帰っていくことができたのに。

 当の本人だけが、一年近くも病床に拘束されて過ごすことになった。


「そんなあなたに、一部の者たちが何と言ったか……」


 声が震え、堪えきれない激情の響きが漂った。


「ああ」


 だが、当の清十郎は苦笑しただけで、後ろ首にかかる短い毛先を、片手で押さえた。


「『敵』を斃したことを誇るどころか気を病むとは情けないとか、失望したとか、そんなことでこの先一番組の組長が務まるのかとか、まあ、色々言われていたそうだな」

「あの折ですら、そうだったのです。であれば、あなたが、未だ里内で『敵』扱いの水守殿への加害を理由に、『味方』の桧山殿を告発などしたら」

「確かに、大騒ぎになるだろうな」


 頷いて、清十郎が伊織を見返す。


「だが、それを言うなら、お前とて同じだ。今でさえ、お前が水守家を擁護したり、一也に一族秘伝の輪廻香りんねこうを融通してやったりしていることをとやかく言ってくる者は、西家せいけの御方や多生たき殿を筆頭に、一定数いるのだろう?」

「私の場合は、何を言われたところで私一人が引き受ければ済むことです。しかし、あなたには、凛子殿と子供たちがいる」


 伊織の声が、更に震えた。


「多生殿も西家の義姉上も、水守殿への怨みつらみを、二緒子殿や三朗殿はおろか、幼い四輝しき君にまでぶつけて憚らないのです。であれば、あなたへの勝手な失望や不快の念が、凛子殿や創君たちにも向かいかねないことは、十分考えられます」


 真那世は、同じ祖神そじん神珠しんじゅを分け合う同胞の血を流すことを『血殺し』と言って忌避する。

 だから、仮に里中から悪感情を集めようと、物理的に殺傷されることはない。

 だが、だから良いという話にはならなかった。

 代わりに起こるのは、共同絶交、すなわち『村八分』だからだ。

 往来で会っても、挨拶もしなければ目も合わさない。近所付き合いからも里の公の場からも締め出し、存在しないものとして扱う。

 その孤立の重圧は、肉体が受ける損傷にも匹敵する。


 正しくそれが、凛子や竜之介が水守家への加害の現場で声を上げられなかった理由、清十郎が、一族の横暴と伊織の孤軍奮闘を知りながら、公には口を噤んでいた理由だった。


 真那世というだけで排斥される世界で、更に一族からも排斥されては、生きていけない。

 八手一族ならば、そう考える。

 その可能性に最初から一切怯まなかった伊織が、一族の中では特殊なのである。


「そもそも、水守家が里で共存することになったからには、率先して公正に接し、一族に理を説いて、真っ当な関係を構築するよう導くのは、族長にして里長でもある長十郎兄上の役目です」


 伊織が顔を上げる。

 その瞳孔の奥で、温厚な気質と柔らかな物腰に包み隠されていた重い悲嘆が、渦を巻いた。


「しかし、兄上は、その役目を放棄した。その後始末を、あなたに押し付ける訳には参りません」

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