第十一章 一つの終わりと一つの始まり

65 幸せの味

 秋の空には、雲一つなかった。


 彼方には平地に広がる町屋の屋根が並び、手前には、丸いお椀を伏せたような山々が重なっている。


 その空に、生真面目な気合いが響いた。草履が土を蹴る音に、カンッ、カンッ、カンッと打ち合う木剣の音が重なる。


「右、左、右――次で、返す。よーし、いいぞ」


 黒の上衣に足首を絞った脚衣という恰好で木剣を正眼に構えていた三朗は、笑顔で頷いた。


「じゃあ、次は逆からな」

「はいっ」


 元気さと真面目さが同居する声で返事をしたのは、三朗の対面に立っている幼い少年だった。


 白麻の貫頭型の上衣に、裾を絞った膝丈の脚衣。髪は後頭部で一つに束ねて、毛先を背に垂らしている。

 線の細い愛らしい顔立ちは姉の二緒子にそっくりだが、真面目さの中に強い意志を垣間見せる目つきは三朗と同じだと、最近になって言われるようになった。そうかなと思いつつも、悪い気はしない。


 四輝しきが、木剣を頭上に振りかぶる。気合い声と共に、これまた一生懸命という様子で、三朗が構えた木剣に、今度は左、右、左、と打ち当てていく。


 穏やかな昼下がり。

 真垣まがきの町の北、奥葉山おくはやまと呼ばれる山中にある八手一族の里に与えられた居宅の庭先で、三朗は四輝の剣の稽古の相手をしていた。

 と言っても、やっと四歳になったところの四輝ではまだまだ本格的な稽古とはいかない。

 それでも、木剣を握る四輝の顔つきは、いつも真剣だった。


 この邸は、もともとは針生本家の別邸で、先々代の族長の隠居所だったそうである。その隠居が亡くなった後、他に使う当てもなく放置されていたのだが、御館の斜向かいという立地から監視と管理にちょうど良いという話になって、水守家の居宅として宛がわれたものだった。


 その際、周囲には高い塀が巡らされることになったが、もともとは族長家の別邸だったというだけあって、内部の造りは決して悪くなかった。


 建物は南北に長い構造で、北に厨と湯殿と厠があり、厨の勝手口を出た先には井戸がある。

 居室は、囲炉裏のある十畳の広間を中心に、西側に一室、東側に三室が南北に並んでいる。その東側の三室の前は真っすぐな広縁になっていて、その先は庭に面していた。


 真垣の城もそうだったように、人の富豪は、邸の庭に築山を盛り、池を造って鯉などを放ち、その中に島を造ったり橋を掛けたりして、理想の景色を造形する。


 だが、八手一族に、そういう趣味はない。あるのは自然の姿に近い草花や樹木で、多分に洩れず、この庭もそういうものだった。

 表の往来に面している冠木門の傍らには桜の古木、玄関の両脇にはサツキの植え込み、庭へ通じる枝折戸の横にはドウダンツツジ。敷地を囲む石壁沿いにはシャリンバイやイヌツゲが並び、東南の角には紅葉の大木と槙の木があって、根元には早咲きの竜胆が揺れている。


 その庭を臨む広縁には、先日、ようやく床払いができた一也いちやが、白絣の着流し姿で腰をかけていた。時折、傍に置いてある湯呑みを口元に運びながら、目の前で木剣を打ち合っている弟たちの様子を穏やかな表情で見守っている。


「よーし、終わり」


 四輝が二度目の型をきちんと振り抜いたところで、三朗は上げていた木剣を下ろした。


「上手に出来ていたぞ、四輝。この間より、ずっと切り返しが速くなった」

「本当?」

「勿論。ねえ、兄上?」

「ああ。足運びも正確になっていた」


 同意を求めると、一也は笑顔で頷く。

 長兄からもお世辞ではない褒め言葉をもらって、幼い顔に純粋な笑みが弾けた。

 そこへ。


「はーい、お待たせ」


 広縁の先から、二緒子が現れた。

 結い上げた髪を白の三角巾で包んで、藤色の小袖に同じく白の前掛けを付け、両手で長手盆を持っている。


「――おや」


 視線を巡らせた一也が、少し驚いた顔をする。


「二緒子、これは」

「はい」


 嬉しそうな顔で頷いた二緒子が、兄の傍に膝を揃え、広縁の上に長手盆を置いた。


「四輝、おいで。三朗も」

「はあい」


 姉に呼ばれて、四輝が嬉しそうに飛んでいく。

 一也から渡された手巾で丁寧に両手の汚れや額の汗などを拭いてから、広縁に両手をついて身を乗り出し、ふと小首を傾げた。


「これ、なあに?」


 長手盆の上には、素焼きの大皿と水差しと人数分の湯呑みが乗せられている。

 その大皿には、つやつやした小粒の豆を練り込んだ白くて丸いものが、二十個近く並べられていた。


(そうか、知らない、というか、覚えていないんだよな)


 四輝の後に続きながら、三朗は思った。


(あの時は、まだ食べられなかったし)


 同じことを考えたのか、一也と二緒子の表情が深くなる。


「豆大福だよ、四輝」

「まめ、だいふく?」

「そう。食べてごらん」


 一也に促されて、長兄と姉の間に腰を下ろした四輝が、ふくふくとした大福を手に取った。表と裏をひっくり返し、矯めつ眇めつしてから、そうっと一口かじる。

 途端に、幼い眸が真ん丸になった。声もなく、手の中の丸いものを見つめてから、今度はぱくりと頬張る。


「美味しい?」

「お、お、お」


 二緒子の問いかけに、目を見開いたまま、もぐもぐもぐと一生懸命咀嚼して。


「美味しい!」


 弾けるような歓声を上げた。


「そうだろう?」

「良かったわ」


 笑った一也の横で、二緒子がホッとしたように片手を胸に当てた。


「慌てて食べないのよ。よく噛んでね。兄様もどうぞ」

「ありがとう。しかし、この小豆や餅粉はどうしたんだ?」


 素直に手を伸ばしながら、一也が問いかけた。


「通常の配給には無いだろう?」

「兄様が寝込んでいらっしゃる時に伊織様がいらして、先の真垣の件で数馬様が私たちに褒賞を下さるって仰っているけど何がいいですか、って聞かれたんです。だから、三朗と相談して、これの材料を頂くことにしました」

「でも、伊織様、豆大福をご存じなくて。これこれこういうもので、兄上の大好物なんです、って言ったら、驚かれていました」

「それは、驚くだろう」


 ***


 鳳紀ほうき五〇七年、鬼堂式部によって征服され、戎士として麾下に組み込まれた時、八手一族は故郷の山から引き離され、真垣の近郊にあるこの奥葉山へ強制移住させられた。


 ただ、当時の族長、すなわち、針生はりう長十郎、伊織兄弟の祖父に当たる人物は、かなり現実的な感覚の持ち主であったらしく、『こうなったからには仕方がない』とある意味で開き直り、一族の皆がこの先少しでも安楽に暮らせるよう、新たな居住地――八手の里の建設と体制作りに全力を注いだ。


 鬼堂式部に対して交渉を行い、主食となる米、生き物が生きる上で必要不可欠の塩、武器を製造する為の鉄鉱石、衣料用の麻や綿、傷や病を癒す為の薬種など、里内での自給自足が難しいものは、戎士による従属と戦力提供の見返りに、里全体に供与されるよう求めた。


 一方、集落の周囲の山を切り開いて畑を作り、雑穀や野菜、豆などを栽培できるようにした。

 その豆から味噌や醤油を作る為の醸造場、鉄を加工する為の鍛冶場、麻や綿から糸を紡ぎ、布を織る織物小屋、木や土を加工して椀や皿などを作る為の工房なども整備した。


 また、鬼堂式部に、近隣に住む一般の人々に対して奥葉山一帯への禁足令を出させ、人との余計な接触や軋轢を心配することなく、鹿や猪、兎などを狩ったり、川で魚や貝を採ったり、木の実や山菜を集めたりすることもできるようにした。


 これらの生産活動には、家を守る女たち、そして、四十年前の時点で既に八手一族の中に一定数現れていた、生まれつき神珠しんじゅの弱化が著しく、神力ちからを顕せない男たちが当てられた。


 なお、彼らは、七尾清十郎のような『先祖返り』の逆で、『末代』と呼ばれている。


 そうして得られた収穫は、一度全て御館へ集められ、鬼堂家から供与される米や塩と共に、里長と四人の上役によって一族全ての家に、家人の年齢や数に応じて平等に分配される。

 これが、配給である。


 だが、既にこの時代、人は食べる為だけに生きるものではなくなっている。

 その豊かな精神性が、娯楽というものを求めるようになっているからだ。

 それは、人と同じ霊珠を持つ真那世も、例外ではなかった。


 ただ、その娯楽に類するもの――酒や香り草、菓子、女の化粧品や装飾品、書籍や絵草紙、楽器の類といった嗜好品、高級品などは、通常の配給では手に入らない。


 鬼堂興国は、水守家だけではなく八手一族に対しても、『化け物の分際で生かして貰っているだけ有り難いと思え』という態度だが、父親の式部は少々違っていた。

 幼子を『質』に取るという、言わば『鞭』だけでは、無理やり隷属させられた真那世たちの怒りや憎しみがいつかは爆発することを弁え、それを逸らす為には『飴』も必要である、と配慮することが出来た。


 よって、鬼堂式部は、『質』を差し出している族長家とそれを支える上役たちに対しては、懐柔策としてこれらの嗜好品、高級品を定期的に融通し、また、『役』で手柄を立てた戎士とその家族には望みのままの褒賞を与えるという、露骨に即物的ではあるが、短絡的に心の飢えを満たすには効果的な策を施行した。


 飴と鞭、信賞必罰――呼び方は何でもいいが、とにかくこの方針は、父親ほどは真那世に配慮しない興国も踏襲し、その実質的な采配は、中司なかつかさである数馬の意を受けて御館が行っている。


 だが、どのような贅沢品でも望みのままの褒賞に対して、単なる菓子、それも、完成品ではなくその為の材料が欲しいという申し出は、きっと前代未聞だったに違いない。


 ***


「頑張ったのはお前たちなのだし、お前たちが欲しいものや必要なものを頼めば良かったのに」

「あ、いや、伊織様が驚かれたのはそこではなくて、兄上は甘党だったんですか、って」


 その時のやりとりを思い出して、三朗もくすりと笑った。


「意外だったみたいですよ。中身は山椒粒なのに、って」

「山椒粒?」

「一粒でぴりっと辛いってことだと思います」


 首を傾げた一也の横と前で、二緒子と三朗は同時に笑った。


「別に遠慮した訳じゃないです。俺は酒も香り草も興味ないし、姉上も、別に紅やこうがいなんて要らないと仰るし、それならこれだ、と思っただけですから」

「私たちが頑張れるのは、兄様が導いて下さるおかげですから。何より、四輝に一度、食べさせてあげたかったんです。だって――」


 二緒子が、末弟に視線を向けた。


「四輝、これはね、お母様の味なのよ」

「――母上?」


 ふと手と口の動きを止めて、幼子が顔を上げる。

 姉を見上げ、兄たちを見上げ、それから花が綻ぶようにふうわりと笑った。


「母上の味って、優しいんだね」

「――ええ。そうよ」


 一也が痛みを内包する微笑を滲ませ、二緒子の双眸がじわりと潤む。

 三朗も改めて、兄姉に挟まれて、幸せそうに初めての『母の味』を噛みしめている弟を見つめた。

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