54 狂乱ー2
「っ!」
押し殺した苦鳴が、三朗の聴覚を強打する。
限界まで見開いた視界を、噴き上がった深紅の雨が染め上げた。
「水守殿‼」
「莫迦野郎‼」
伊織が、左の脇腹に鉄剣を突き立てられた
同時に、爆ぜるように飛び掛かった清十郎が、桧山辰蔵を背後から羽交い絞めにし、力任せに一也から引き剥がした。
「兄様‼」
入れ違いに、二緒子が一也に飛びついた。
「嫌、嫌ぁっ! なんで、どうして、兄様、兄様!」
「二緒子殿、落ち着いて!」
崩れ落ちる一也に、二緒子が半狂乱でしがみつく。
それを必死になだめながら、伊織は急速に脱力していく一也を抱え、仰向けにして地面に横たわらせた。
二緒子が、反射的に、突き刺さったままの鉄剣の柄を掴み、抜こうとする。
「――駄目です!」
その手を、伊織が間髪入れずに押さえた。
「無理に引き抜いたら、逆に傷を広げてしまう。私が止血しながら抜いていきますから、あなたは『癒し』で痛みを抑えてあげて下さい」
「っ、は、はいっ」
信を置いている相手からの冷静かつ端的な指示に、恐慌に陥りかけていた二緒子の表情が、僅かながらも理性を取り戻す。
「は、はは、やった、とうとう、やってやった……」
その横で、桧山辰蔵が、清十郎に引きずられながら、完全に常軌を逸している声を上げた。
「どうせ消し炭になるなら……。見たか、
「この、阿呆が!」
歯ぎしりと共に、清十郎が吼えた。
「三朗、すまん、詫びる言葉も無い。だが、頼む、落ち着いてくれ!」
懇願するようなその叫びが再度聴覚を強打して、三朗は、いつの間にか、自分が神剣の切っ先を桧山辰蔵に向けていたことに気付いた。
だが、気付いても、神剣を引くことはできなかった。一也の身体に広がっていく真紅が、二緒子の悲鳴が、それを許さない。頭では、こんなことをしている場合ではないと、わかっているのに。
「――ちょっと、何あれ。あはははは、土壇場で仲間割れ? かっこ悪い」
めちゃくちゃな状況を更に煽り立てる笑い声が、頭上から降って来た。
「――へえ、息子の仇だったの? でも、そういうことをするなら、もうちょっと早くやって欲しかったなあ。そしたら、こっちの手間も省けたのに」
「――まあ、どれほどの怨みを抱えていようと、それを殺害という手段に移すには、かなり深くて暗い谷を飛び越えないといけませんから。逆に言えば、この状況でそういう行動に出てしまうということが、鬼堂家の支配体制の限界を表しているのでしょうね」
「
流石に呆気に取られていた様子の九条
「力と恐怖で縛ったところで、それを上回る力と恐怖にさらされれば、一瞬で瓦解する。鬼堂家がそれ以外に何もない、空っぽの主だからよ。九条青明にも見せてあげたいわねえ」
「黙れ……」
戎士たちの修羅場を前に、鬼堂
「桧山、愚か者め。このわしに恥をかかせおって。ええい、数馬、桧山を処分せよ! 役立たずは殺せ!」
「父上……」
立ち尽くしていた数馬の無表情に、一筋、二筋の綻びが生じだ。
「恥をさらしているのは、どちらですか……」
「何か言ったか⁉ 七尾、それに斗和田の小童どもも、何をしている。さっさと九条の小娘を討て! わかっているのだろうな! 一也が死んでも、末弟の傍に
「ふーん。この期に及んでも、自分では何もしようとしないのね」
紫の双眸に、小さな光が閃いた。
「もしかして、と思っていたけど――ねえ、鬼堂興国、あなたって、自分では戦わない主義なんじゃなくて、そもそも戦えなくなっているのじゃない?」
「何だと……」
「あなたの
鬼堂興国の顔が、赤黒く膨らんだ。
「黙れ。このわしが、長虫の小倅ごときの神珠に手一杯など、あり得ると思うか」
「なら、『楔』の一つでも撃ってごらんなさいよ」
「貴様のような小娘に、わしが直接手を下す価値などないわ!」
「口で何と言おうと、使ってみせない限り、肯定しているのと同じよ」
紫が肩をすくめる。
「ねえ、本当に、どうしてあのお兄さんを縛ったりしたの? あなたなんかの手に負える真那世じゃないでしょ? 『質』にできそうな年少者なら、他に居たのに」
「――紫さん、逆じゃないですか?」
知的な声が、囁くように言った。
「手に負えないからこそ、縛らざるを得なかったのでは? だって、どう考えても、損得勘定が合いませんものね。ということは、損得でやった訳ではないのですよ」
「んー、つまり、『神縛り』を使ったのではなく、使わされた? そうでもして抑え込まないと、自分がやられるところだったとか、そういうこと?」
刹那、鬼堂興国の厳つい顔が、一瞬確かに強張るのを、三朗は見た。その手が、反射的のように左眼を覆う眼帯を押さえた様も、だ。
「あら、図星?」
「だ、黙れっ! 九条の化け物! 時任の遺産を掠め取っただけの盗人が!」
鬼堂興国の声が、一音階ほど高くなった。
「お前の存在そのものが、九条家が外道に堕ちた証。相応しからぬ者の手に渡った『使』も、もはや異形と同じだ。九条家共々この世から滅し、神狩の一族を正しき道へと戻すべし。それが父の遺言だ。わしはただその意に従い、その意を為すのみ!」
「ふーん。そんなこと言ってたんだ。じゃあ、やっぱり鬼堂式部は、九条青明が時任の血を繋ぐことに成功したことを、どこかで聞き知っていたのね。だから、阿の国へ移ってしばらくは無為無力だったのに、突然やる気になって、東方に一大勢力を築き上げるまでになった、と」
どんどん激昂していく男に対して、少女の方はどんどん冷めていくようだった。
「けど、真那世の神珠で手一杯になっちゃうなら、真神なんて籠めておける筈は無かったじゃない。つまりは、最初から見果てぬ夢。そんなものの為に片目を失って、霊能の技も使えなくなるなんて、骨折り損のくたびれ儲けだったわねえ」
けらけらと笑い――そして、その嘲笑が、ぴたりと止まる。
「私たちは、どうやら鬼堂興国という術者を買い被っていたみたいね」
「――だな」
「――ですね」
「――あははは」
「あなたが分不相応な欲を抱かず、阿の国で大人しくしてさえいれば、私たちがこんなところまで出張ってくる必要はなかった。奈子を喪うことも無かった」
少女の双眸の奥に、漆黒の穴が空いた。
「この世から消えるべきは、あなたの方よ」
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