第九章 死闘

52 炎の咆哮

 キイイン――という甲高い軋み音が、鼓膜を貫いた。


 頭上で凝った神力ちからが渦を巻く。

 瞬く間に大きく膨れ上がったのは、巨大な炎の球だった。


「――皆、下がれ!」


 憑かれたような眼差しで頭上の巨大な影を凝視している鬼堂興国おきくにの横で、数馬が叫んだ。


 その声に背中を突き飛ばされて、三朗は一也いちやの左腕を掴み、自分の肩に回して担ぎ上げた。反対側から支えた二緒子と共に、呼吸を合わせて跳躍する。


 同じように、三つ目の狼が鬼堂興国と気絶したままの嶽川たけかわ朧月ろうげつの襟首をまとめて咥え上げ、清十郎と伊織も、桧山辰蔵の腕を掴んだまま、地を蹴った。


 朱色の大鳳が、炎の球を撃ち放つ。それが、半瞬前まで三朗たちが居た場所に落下し、大爆発を起こした。


「うわっ」

「きゃあっ」


 弾けた爆風が土砂を巻き上げる。それに足を取られた刹那、衝撃波に追いつかれ、思い切り跳ね飛ばされた。そのまま、受け身を取る暇もなく、三人そろって地面に叩きつけられる。


 全身を打ち付けた衝撃に、一瞬、確かに息が止まった。目の奥で火花が散り、天地の軸が反転する。


 だが、自分自身の痛みになど構ってはいられない。ぐらぐらする頭を片手で抑えながら、もう片方の手を地面に着き、上体を起こした。

 視線を巡らせると、同じように顔を上げた二緒子が、近くに倒れている一也に這い寄っていく様子が映った。

 だが、一也の方は動かない。打ち所が悪かったのか、動けずにいる。


「兄上、姉上」


 舞い上がる爆煙の中、三朗も必死に手足を動かして、そちらへ近づいた。

 そこへ、今度は白鹿の『使』の雪礫が襲ってくる。

 殺到する気配に、ハッと振り返った時だった。


 粉塵を突き破って、数馬がその場に飛び込んできた。

 三朗たち三人をまとめて背に庇い、その手に巡らせた『盾』で雪礫を受け止め、弾き返す。


「しっかりしろ!」


 叱咤の声と共に、今度は清十郎が駆け寄って来た。右手が一也を引きずり上げて背に負い、左腕が二緒子と三朗の胴を引きさらって、二人まとめて小脇に抱え上げる。


「――清十郎!」


 半壊状態の正殿の影で、伊織が手を上げる。数馬の『盾』の隙間を突いて、清十郎たちの背後に迫っていた雪礫を、放った『繰糸』で跳ね返した。


「痛っ」

「伊織、無理をするな!」


 途端に、顔を顰めた伊織に、清十郎が怒鳴った。


「お前の怪我だって軽くはないんだ! 医薬師の不養生なんざ、洒落にならんぞ!」


 説教の口調で言いながら、水守家の三人を抱えて、その傍らに飛び込む。

 後から、鬼堂興国と嶽川朧月をまとめて咥えた三つ目の狼が、そして桧山辰蔵が、相次いで転がり込んでくる。

 最後に、数馬が『盾』を構えたまま後退し、その全員を庇う位置に立った時だった。


「――う、射て」


 庭の反対側で固まっていた黒衆や武士たちの間から、声が上がった。


「主公と若をお救いしろ!」

「あの化け物を射て! 射殺せ‼」


「‼ 駄目だ、止めろ‼」


 ハッと視線を巡らせた数馬が叫んだ時は、遅かった。


 恐怖にかられた様子の黒衆が『楔』を、武士たちが矢を、あちこちから一斉に放つ。


 だが、その全ては、朱鳥の『使』の輪郭にすら届くことなく、焚火に投じられた淡雪のごとく蒸発した。

 同時に、『楔』や矢を放った者たちに視線を向けた朱鳥が、再度、炎の球を撃ち放った。


 ドオンッ、と腹に響く衝撃音と共に、白砂利の庭の一角で火柱が上がる。


 二緒子が、刃物で刺されたような声を上げて、両手で耳を押さえた。


「姉上! 聴いちゃ駄目だ! 遮断して!」


 ハッとして、三朗は姉に飛びつき、腕の中に抱え込んだ。震えている耳元に言い聞かせながら、燃えるような眼差しを上げる。


 三朗の耳には、悲鳴すら聞こえなかった。

 だが、爆音と共に地面が抉れ、塀が吹き飛び、庭木がなぎ倒されたことはわかった。その中で、火球に呑まれた十数名の人間たちが、肉体はおろか、骨の一本も、甲冑すら残さず、消し炭になったことはわかった。


 そこに居た黒衆の術者で逃げ延びたのは、大吾だいごと呼ばれていた若者だけだった。泡を食った様子で一転し、命からがらといった様子で、数馬の脇に転がり込んでくる。


「あはは。凄い。人がまるで紙人形みたい」


 九条紫が乾いた声で笑った。


「実際に使うのは初めてだけど、確かに凄まじい神力ね。九条青明が執着する筈だわ」


「――逃げろ!」


 その語尾に、数馬の叫びが重なった。


「異形の存在に人の太刀や弓矢は通用しない! 術者と戎士以外の者は退避しろ!」

「し、しかし、主公と若を残して……」

「我ら黒衆はその為に居るのだ! 構わないから行け! 城に居る他の者たちもだ。全員逃がせ!」


 明確な退却の指示に、生き残っていた武士たちの顔に、生気と理性が回復する。

 夜闇の中に松明が揺れ、化け物だ、逃げろ、という声が方々で上がり、拡散し始めた。


「――ああ、やっちゃった」


 髪をかきむしっているような声が聞こえてきた。


「勘弁してよ、ゆかりちゃん。君が好き勝手やっている間、僕ら宮仕えの術者たちが、何の為に毎日主上しゅじょうや貴族連中のご機嫌を取って、ただの二日酔いを呪詛だと騒ぎ立てるような莫迦にも『ハイハイ』って笑顔で対応してやってると思っているんだい⁉」

「神狩の技を警戒されて、排斥されないように、って言うんでしょ」

「そうだよ! 妖種の『使』ですら怖がられるのに、朱鳥の大神なんて最悪だよ! 何度も言ったじゃないか。僕らが、人々にとって頼りになる術者様で居られるか、化け物使いとして石を投げられるかは、いつだって紙一重だって!」

「あー、もう、煩い。なら、鬼堂家の連中もろとも、朱鳥の大神を見たこの邸や真垣の町の連中を全員始末すれば、問題ないのね」

「待って⁉ なに莫迦なことを言ってるの⁉」

「私たちは時々とんでもなく莫迦になるって、あなたが言ったのよ」


 飛び上がった鏡に冷ややかな一瞥を投げつけてから、紫はくるりと身を翻した。

 そのまま、膝を深く曲げて、大きく跳躍する。真那世顔負けの動きで空に身を躍らせると、旋回した朱鳥の『使』の背に飛び乗った。

 白鹿の『使』も、ふわりと翼を羽ばたかせて、それについていく。


「そう……、そうよ、最初からこうしていれば良かったんだわ。どうせ私たちは化け物なんだから、人の社会の規範だの約束事だのに合わせてやる必要なんか無かったのよ。端から真っすぐ真垣へ来て、城ごと全部吹っ飛ばしてしまえば良かった。そうしていれば、奈子なこを喪うことはなかったのに」


 怒声とも泣き声ともつかない小さな呟きが、地上に残された柾木まさきの耳に届く。


「ちょっと、紫‼ ねえ、柾木、どうにかしてよ!」


 掌中で、鏡がぎゃんぎゃんと喚き立てた。


「主上も内裏も、術者同士の揉め事は基本的に『我関せず』だから、鬼堂のご当主にご退場願っただけならどうとでも言い抜けられるけど、一般の衆が居る城や町を吹っ飛ばしちゃうのは本当にまずいよ! わかってるよね⁉」

「――秋月あきづきのお方様を案じられたが故の姫の独断専行を、東方の様子を探るのにちょうどいいからと放置なさったのは、若ではございませんか」


 朱鳥の『使』と共に舞い上がった少女を見上げながら、柾木は呟くように応じた。


「なればこそ、若が、一言でも奈子様の死を悼み、姫のお気持ちを思いやって下さったなら……」

「なに? 僕の所為なの⁉ でも、奈子があんなことになる前に退かなかったのは、紫の責任でしょ⁉」

「姫はこれまで、対等の力を持った相手との『戦』など、経験したことがございません。『術試合』はもとより、神祇頭じんぎのかみ様が『お願い』なさった妖種退治や怨霊の調伏も全て、央城神狩最強の力をただ頭上から振り下ろして終わりでした。そんな姫が初めての劣勢や敗北に遭遇して、冷静に撤退の機を見極めることなど、考えてみれば不可能でした……」


 男の眼差しが、ふと遠くを見る。


「神祇頭や若が、あの斗和田の長兄の半分でいい――姫がその力を行使する場に同行し、年長者として傍で支えてやりながら、教え導いて下さっていたら」

「それ、僕が悪いの?」


 鏡の中の青年が、ふくれっ面になった。


「僕だって、生まれてすぐおじい様に『駄作』の烙印を押されて、父上まで殺されて、色々大変だったんだよ? ああ、そういえば、父上を殺してくれた千旬ちひらは、君の義妹だっけねえ」

「――左様でございます」

「おかげで、僕は九条本家の広壮なお邸の離れ屋で、独りぽつんと居ることになっちゃった。紫に初めて逢ったのだって、あの子が朱鳥の大神を継承した披露目の席だったし。それで兄の責任なんて言われても、知らないよ。そんなこと言うなら、それは柾木が教えてあげたら良かったじゃない。ずっと傍に居たんだから」

「そうですね。立場に遠慮などせず、そうするべきだったと、今は思っております」


 海よりも深い溜息を吐いて、柾木は、右手の人差し指と中指を揃えて、自分の額に当てた。


「私も、神祇頭や若と変わらない。力の強さに目が眩んで、姫が――いえ、姫様たちが、まだまだ経験の浅い、やっと十一歳の少女であることを忘れておりました」


 どれほど強大な力を持っていても。

 複数の霊珠を有するが故に、蓄積される知識や思考力が常人をはるかに超えていても。

 それらを統制する精神そのものは、未だ成熟には程遠い。


「待って、柾木、何を考えてる?」

「私は姫の随身。なれば、最後までお供仕るだけでございます」

「待ってったら待って! 君は随身と言っても――!」


 終いまで言わせることなく、銅鏡が再び顔の中にしまい込まれる。

 最後に、指先でとんと額を叩いてから、三室柾木は真っすぐ顔を上げた。

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