46 今一度、あの場所へー2

『こ、の……』


 青いうちぎの少女が、左手で、自らの右手に噛みついてきた三朗の頭髪を掴む。


『離してよ……』


 胸奥で握った神珠しんじゅに爪を突き立てながら、同時に、毛根が抜けそうな勢いで髪を引っ張る。

 凄まじい力だった。

 冗談事ではなく、首が千切れてしまいかねない勢いだ。


 だが、三朗はもう、自分が感じている痛みなど、どうでも良くなっていた。

 首が千切れても、神珠が握りつぶされても、もう構わない。

 家族は奪わせないのだ。

 もう二度と、誰にも。


『そんなの、私たちだって同じ……』


 必死に三朗を引き剝がそうとしながら、少女がふと呟いた。


『大切な家族――その為に、私たちだって、敗ける訳にはいかないの……!』


 ずっと冷静に、ひっそりと喋り続けていた少女の声が、初めて激した。


 その時だった。


 三朗の脳裏に、ぼんやりと浮かび上がってきた光景があった。

 畳敷きの床。

 巡らされている几帳。

 隅に置かれている漆塗りの衣装箪笥や文机。

 天井には青銅製の灯篭が幾つも吊るされ、柔らかな光を放っている。


 一見、身分の高い人の居室だと思われる、上品で豪奢な調度品の数々。

 だが、少し視界の角度が変わると、その部屋は、三方を窓もない土の壁に塞がれていた。そして、唯一開いている開口部には、木材と鉄棒を組み合わせた頑丈な格子がはめ込まれている。


 つまり、調度品が如何に豪華でも、そこは牢獄なのだった。


 中に居るのは、三十歳そこそこの女性だった。金糸銀糸で刺繍が施された豪奢な紅色の唐衣からぎぬを纏い、大垂髪おすべらかしにした髪を長く垂らして、格子の方に背を向けて座っている。


 その頭上には、五つのお手玉が浮いている。

 女性の両手はきちんと膝の上に揃えられているが、それでも色鮮やかな五つのお手玉は、くるくると空中で回り続けている。


『ほら、ゆかりちゃんたちもやってごらん』


 銀の鈴を転がすような優しい声が促す。


『ひとーつ、ふたーつ、みっつ……、そうそう、上手上手』


 ころころと明るく笑い、手を叩く。

 だが、彼女の視線の先には、誰も居なかった。

 ただ、空白の空間と土の壁があるだけだ。


『――姫様』


 呼びかける声が聞こえて、視界が水平方向に動いた。


 次に映ったのは、両側と天井から土が迫っている狭く短い通路と、その先にある上方へ続く階段。


 その下に、やはり三十歳前後の女性が、腰をかがめるようにして立っていた。牢の中の女性と同じような唐衣姿だが、こちらの方が模様や色合いが些か地味だ。


『おじい様がお呼びでございます。本日の修練の刻限と――』

芳野よしの


 言いかけた女性に、まだ五、六歳の子供だとわかる声が応じた。

 だが、それは幼さの中に、ぞっとするほど冷ややかなものを内包した声だった。


『私たちの前で、あの男を『おじい様』なんて呼ばないでと言ったでしょ』


 同時に、ひゅっ、と何かが空を切る。

 一条の金の光が視界を走り、その女性の顔のすぐ横の土壁に突き立った。

 ひっ、と声を上げた女性が、その場に尻餅をつく。


『その程度の注意も忘れるなら、耳なんて要らないわね?』

『――も、申し訳ありません!』


 恐怖に顔を引き攣らせて、その女性が平伏した。

 その語尾に、再度、金の光が空を切る音が重なった。

 

『姫』


 女に向かって走った『楔』を、その背後に現れた人影が、目にも止まらぬ速さで突き出した手の中に掴み取った。

 折り烏帽子に褐衣。がっしりとしたその長身には、見覚えがあった。ただ、今朝の糸百合で見た顔より、五、六年分は若い。


『八つ当たりは、この柾木だけにしておかれませ。芳野殿は九条家に連なる御身と言えど、術者には非ず。姫の『力比べ』のお相手にはなり得ませぬゆえ』

『――ふん』


 男に一瞥を投げると、少女は再び視線を巡らせる。牢の中でお手玉を続けながら、優しく、それでいてどこか虚ろな声で歌を歌い始めた女性の後ろ姿を見つめてから、振り切るように踵を返し、歩き出す。


 ――早く、何もかも出来るようにならなくちゃ。


 同時に、三朗の心に伝わってきた想いがあった。


 強くならなければならない。

 一人で戦えるようにならなければならない。


 そうして、早く、あの人が背負っている重荷を交代しなければならない。

 あの人が、これ以上毀れる前に。

 その重荷に、潰される前に。


(これは……)


 激しく、強く、悲壮とすら呼べる硬度で凝る、決意。

 かつて自分が二緒子と共に抱いたものとよく似たその想いに、目を瞬いた時だった。


奈子なこ‼』


 焦慮を込めた声が、遠くから聞こえてきた。


『戻って‼』


 ***


 陥没穴の縁を蹴って、数馬が三朗のもとへと走り出す。

 反対側から、清十郎も同じように、穴の斜面へと飛び出した。


「――詩子うたこ柾木まさき、あいつらを止めて!」


 市女笠の少女が叫んだ。

 その眼前に、蒼銀の雷光が爆ぜる。

 陥没穴の反対側で、一也いちやが傷ついた右手に無理やりのように握った神剣の切っ先を、少女たちに向けている。

 強靭な意志そのままに、神剣を形作っている神力ちからを稲妻のかたちに換えて、飛び出しかけた黒衣の人形と褐衣の随身の両方目掛けて撃った。


「――何だと?」


 三つ目の狼の横で、鬼堂興国が呻いた。

 数馬も清十郎も、伊織すらも、流石に驚いた様子で、一瞬、視線を上げていた。

 驚いていないのは、既に糸百合でそれを見ていた襲撃者たちと、桧山辰蔵だけだった。


辰広たつひろ……」


 蒼銀の雷光を眸に映して、桧山辰蔵が再び低くその名を呟く。

 無意識のように。


「ちょっとお、邪魔しないでよ!」


 その雷撃を、随身は横っ飛びに飛んで躱し、黒衣の人形は槌矛をかざして防御した。


「あんた、弟が殺されてもいいっていうの⁉」

「そんな訳がないだろう」


 鎚矛を振り回しながら喚いた人形に、一也は肩を大きく上下させながら応じた。


「三朗は返してもらう。あなた方こそ、邪魔をしないでもらいたい」


 呼吸は先ほどより浅さと速さを増し、額には嫌な汗の滴が滲んでいる。

 それでも、その眸からは、冷静な理性も強い意志も、失われてはいなかった。


 再度の雷撃が奔る。

 全身を引き絞るようにして撃ち放ったそれに、黒衣の人形も随身も否応なく足を止められる。


 そのわずかの間に、清十郎は、真っすぐ三朗に走り寄っていた。

 うずくまっている身体の傍らで、土を蹴り上げる勢いで急停止すると、片膝をつく。

 背に負った大剣を抜くのではなく、三朗が自分の右手を押さえている左手に片手を添え、握り込みながら引き起こし、もう片方の腕を、三朗の左の脇から前を通して左肩へと回した。

『繰糸』で危険な妖種や野獣を捕獲するように縛り上げるのではなく、自らの腕で、救うべき病人や怪我人を治療の為に支えるような雰囲気で、拘束したのである。


 そこへ、数馬が駆け寄った。

 三度目の正直と言わんばかりに放たれた霊符が、金の光で清十郎ごと三朗を包み込む。


「解!」


 その手に再度小柄が閃く。

 刃身にまといついた金の光が、一瞬の躊躇もなく、三朗の胸部へと叩き込まれた。


 ***


 突然、視界が金色に染まった。

 闇の一角に弾けた光。

 それが、互いに互いの抵抗を排除しようと押し合い、もみ合っていた三朗と青い袿の少女を、照らし出した。


 お互いしか見ていなかった二つの視線が、ハッと頭上を仰ぐ。

 そこへ一直線に飛来した金の光が、三朗の眼前で、少女の白い額を撃ち抜いた。


『え……?』


 切れ長の双眸が、丸く見開かれる。

 その紅の唇から零れたのは、吐息にも似た微かな声。


『――奈子!』


 呆然となった三朗の耳に、遠くから複数の叫びが伝わってきた。

 それに乗って押し寄せてきたのは、驚愕、衝撃、悲嘆、そして、絶望。

 祖父や母、朝来あさぎ村そのものの最期を目の当たりにした時に三朗自身も覚えた感情の全てが、伝わって来た。


『――あ……』


 つかの間、動きを止めていた青い袿の少女が、ふっと、崩れるように微笑った。


『やられちゃった……』


 砕かれてはならないものが砕かれたことを悟った顔で。

 自分という存在が決定的に害われたことを理解した顔で。


『仕方ない、ね……。自分の大切なものの為に、他の誰かの大切なものを傷つけて、奪おうとさえしたんだから……』


 力を振りかざして、誰かの願いを踏み潰してでも、自分の願いを押し通そうとした。

 ならば、振りかざしたその力が、相手が防御と反撃の為に振り上げた力に競り負けたなら、こういう結末が訪れるだけ。

 わかっていた――と。


『でも……』


 途端に、凄まじい力で、ぐい、と右腕が引かれた。


『ただじゃ、死なない……』


 事態の急転に呆然としていた三朗は、抵抗が遅れた。


 自分の右手が、急角度に翻ったことを自覚する。

 顕現したままの神剣の切っ先が向きを変え、自分自身の胸に向かって奔り出したことを知覚する。


「三朗!」


 視界の中で、一也がハッと双眸を凍らせた。


『あなたを鬼堂家に返す訳にはいかないもの……。紫の為に使えないなら、一緒に死んでもらうわね……』


 なるほど、当然だ――と、意識の隅で納得した。

 一度は掌中に収めた、敵の最強戦力の一つ。

 自分の消滅が確定して、もはや利用できないとなれば、残る仲間の為、せめて敵の手に戻らぬよう道連れに、と考えるのは理にかなっている。


 だが。


 次の瞬間、背後にいる男の腕が跳ねて、三朗の胸部を庇った。

 ざくり、という手応えと共に、漆黒の神剣の切っ先がそれに食い込む。同時に、空を躍った数本の『繰糸』が三朗の右手ごと神剣の柄に巻き付き、抑え込んだ。


 ハッと巡らせた視界に、これまで話したことは無いが、八手一族最強の存在として知ってはいる男の、がっしりとした長身が映る。


『何で、邪魔するのよ……』


 青いうちぎの少女が呻いた。


「――約束したからな」


 現実にもそう発声していたのか、七尾清十郎の精悍な顔が僅かに歪んだ。


「助ける為に行く、と」


 同じ組長でも、その顔に、桧山辰蔵が事あるごとに向けてきた憎悪や反感は微塵もなかった。

 そこにあるのは、ただ重く沈んだ、やるせないような悲哀だけだった。


『糸百合に居た蜘蛛たちなら、見棄ててくれたのに……』


 薄らいでいく青い袿の少女の顔に、怒りと、それを上回る絶望が滲んだ。


『ごめん、紫……。ごめん、希与子きよこ如子ゆきこ詩子うたこ……』


 敗北した。失敗した。何も為せなかった、と。

 その目尻から、ほろりと涙が零れ落ちた。


『ごめんなさい、お母様……』


 最期に、細い声でそう呟いて。


 青い袿の少女は、ゆっくりと崩れていった。

 闇の中、そこに振り続ける血の雨の中、長い髪が、小さな顔が、細い手足が、その先端から青い光の粒子となって、消えていった。


 少女の消滅と共に、四肢を拘束していた金の鎖も溶けて消えた。

 全ての抑圧と苦痛が掻き消えた静寂の中、三朗は、ぺたりとその場に座り込んだ。


 喜びや解放感はなかった。

 勝利感などは、尚更なかった。

 青い少女が零した一滴の涙が、脳裏から消えない。

 お母様、と呼んだ声も。


 事情など知らない。知りたくもない。

 だが、三朗に譲れない想いがあったように、彼女にもそれがあった。

 それだけは、確かなことだった。


 ――三朗。


 その時、誰かの掌が頭の上に乗せられるのを感じた。


 ――よう頑張ったな、三朗。


(じい様……?)


 相次ぐ衝撃に時を止めていた眸が、僅かに動いた。


 視線を上げると、淡い朱色を帯びた幽かな霊気が確かに一度、ゆらりと瞬いた。

 励ますように。愛しむように。

 目に見えない掌が一度だけ、そっと頭を撫でて、そして、消えた。


 じわ、と視界が潤んだ。


(じい様、居てくれたんだ、ずっと……)


 肉体を喪って尚この世に留まるのは、他者に対する怨みや憎しみの念だけではない。遺された者を案じ、慈しむ想いもまた、人がことわりを越えるに足る理由となる。


 今にも吹きこぼれそうな瞼の熱さに耐えながら、顔を上げた。

 周囲の闇は変わらない。降り続ける赤い雨も変わらない。

 この光景は、きっと生涯消えることなく、この精神の奥底に横たわり続けるのだろう。

 それでも、改めて思い出した、護るべき光の為に。

 今一度、あの場所へ。


 ***


 三朗の眸の中で、青い光だけが、すうっと窄まった。

 代わりに、星明りを内包する漆黒が広がり、瞳孔と虹彩が元の彩を取り戻した。

 右手の中から神剣が消える。

 それを確かめて、清十郎が拘束を解くと、三朗は、すとん、とその場に座り込んだ。


「三朗‼」


 爆ぜるような声が響いて、二緒子が陥没穴の縁に現れた。支えていた伊織の手を振り解き、転がるように背後の斜面を駆け下りて来る。


「伊織、怪我人を連れて来るなよ」

「そんな訳にはいかないでしょう。誰が一番頑張ったと思っているんです?」


 嘆息した清十郎に、伊織が肩を竦めながら答えている。


「姉上……」


 ぎこちなく持ち上げた視界に、その姿が映る。

 改めて現実の自分の目で見てみれば、想像以上に酷い有り様だった。

 常は首の後ろで一つに束ねている長い髪がおどろに解け、見覚えのない朱鷺色の小袖はぼろぼろになっている。その上、全身が血まみれの泥まみれ、白い顔にも細い手足にも、多くの傷が刻まれている。


 それでも、二緒子は、こけつまろびつしながら駆けてくると、座り込んだままの三朗に飛びつき、両手でがしっと弟の肩を掴んだ。

 そこに居るのは三朗本人か、本当に戻ってきたのか、確かめるように。

 食い入るような眼差しが、眸の奥の奥まで覗き込んでくる。


 つかの間、その眼差しを受け止めてから、三朗は目を伏せた。


「た、ただいま……」


 途端に、二緒子の表情が揺れた。


「お帰りっ、三朗!」


 叫ぶように応じて、ぎゅう、と三朗の肩を抱きしめ、そのまま、声を上げて泣き出す。


「ごめん、姉上。ごめんなさい……」


 目を伏せたまま、三朗は、まだ殆ど同じ位置にある肩をそっと抱きしめ返した。


 そのまま視線を持ち上げると、陥没穴の縁に片膝をついたまま、こちらを見つめている一也と目が合った。


 兄もまた、全身血まみれの泥まみれな上に、顔色は更に酷くなっているし、負傷と疲労の蓄積の所為か、霊気も神気も衰えきっている。

 それでも、目が合った瞬間に滲んだ、安堵を含んだ透徹な表情に、胸奥を占める幾つもの言葉にならない感情が大きくなった。


 だが、その時だった。


「――おやおや、勿体ない」


 聞き覚えのない声が、どこからともなく響き渡った。


「せっかく手に入れた玩具を取り返されちゃったなんて。しかも、貴重な霊珠を一つ失くしちゃうなんて、これはもう大失態だね。こうなったら、早く皆さんに『ごめんなさい』して。僕も一緒に謝ってあげるから。ね、紫ちゃん?」

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