45 今一度、あの場所へー1

(やめろ!)


 声にならない絶叫が、血の雨に煙る闇に響き渡った。


『諦めなさい……』


 青い袿の少女が、三朗の神珠しんじゅを掴んでいる手に力を込める。


(ガッ‼︎)


 畳みかけられた衝撃に、身体の動きが勝手に止まった。

 神珠に力づくで他者の術道が通され、神力ちからが引きずり出される。それが、無理やり神経に流し込まれ、神剣を通して放出されようとしている。


『己れのたましいで他のたましいを捕える神狩一族の秘儀、『神縛り』、これは、その応用よ』


(『神縛り』、これが)


『流石に、『傀儡』の術とのこんな合わせ技は、私も初めてだけどね……』


 言葉の方はともかく、少女の表情にも声にも、もはや余裕はなかった。三朗の意識を抑え込みつつ、強大なその神力を制御するのに、彼女もまた必死なのだ。


 だが。


 荒れ狂う激痛の中、三朗の意識を捉えていたのは、加害者のことではなかった。


 自分という存在の命と心の核に、爪を立てられる感覚。

 本来、決して分かたれてはならないものが、引き剥がされていく感覚。

 全身の生皮を剥がされても、生きたまま四肢を裂かれても、まだこれよりはましなのではないかとすら思える。


(これが、『神縛り』、なら)


 三年前、一也がかれたのも、この苦痛なのか。

 いや、解術されていない以上、今もこの状態で、灼かれ続けているのか。


(それでも、兄上は)


 鬼堂興国が、『質』を換えると言い出した時、あれほど敢然と拒否したのか。

 自分がこの苦痛から逃れることより、二緒子にこれを味わわせないことを優先したのか。

 そうして、こんなものに耐えながら、自分たちの盾になり続けてくれているのか。

 戦って、護って、導いて、そして、笑ってくれているのか。


 ――お前が望むなら、その時は、私がその業苦を終わらせる。


 庇う言葉でも、癒す言葉でもなく。

 諭す言葉でも、責める言葉でもなく。


 三朗を打ち続ける血の雨を、珠に穿たれた深い亀裂を、真っすぐ受け止めて、ただ静かにそう宣誓した声が、鼓膜の奥に鮮やかに蘇った。


「兄、上」


 潰れたと思っていた喉から、声が出た。

 破れたと思っていた肺が、息を吸った。

 爆ぜたと思っていた心臓が、鼓動を響かせた。


「姉上、四輝」


 ずっと憧れ、追いかけていた、凛冽たる蒼銀の光。

 ずっと隣で肩を並べていた、優しい白金の光。

 そして、まだ何者でもなく、何者になるとも決まっていない、無垢の光。


 三つの光が、血の雨にまみれた闇を照らす。

 一筋の道を作る。


「離、せ」


 両眼が充血する。

 奥歯が鳴る。

 両の手首を捻って、巻き付いている金の鎖を手繰り寄せた。掴み、握り込んで、骨が砕けても構わないとばかりに引っ張った。


『ま、まだ抵抗するの……?』

「当たり前だ‼」


 そうだ。当たり前だ。


『真那世は人の道具ではない。家畜でもない』


 隷属と搾取を受け入れたのは、諦めたからではない。

 それでも、兄弟四人で生きていく――その為だ。

 であれば、その大前提を脅かす理不尽にまで、唯々諾々と頭を下げはしないのだ。


 両腕や両足の血管が浮き上がり、随所で切れて鮮血が噴く。構わず力の限り身をよじり、腕を引き、足で闇を蹴った。


 脳裏に、家族の笑顔に満ちていた春の縁側が蘇る。

 それを、家族の死をちりばめて、赤く染まった春の野原が塗りつぶす。


 取り戻せるならと祈らずにはいられない事実と、無かったことにできるならと願わずにはいられない事実。

 ただ、たった一つ、共通している真実がある。

 それは、どちらも、もう決まってしまった結果、とうに過ぎ去ってしまった景色だということだった。


 だが、今、目に映っている現実は違う。

 まだ変えられる。

 まだ護れる。

 まだ、何も決まってはいない。


(瑠璃、玻璃、透哉とうや、ごめん……)


 犯した罪を忘れはしない。三人に対する永遠の負債は、いつか必ず償う。

 けれど、今少しだけ――。


 現実を取り戻した意識の――たましいの咆哮が、轟き渡った。

 ばきんっ、と音を立てて、三朗を拘束していた金の鎖の一本が千切れた。

 ほんの僅か、取り戻した自由。

 三朗は全身をばねにして闇を蹴ると、自らの胸部を貫いている右手の先、少女の二の腕の辺りに噛みついた。


 ***


はじめあらた凛子りんこ!」


 一瞬、視覚と聴覚を支配した爆音が止んだところで、清十郎と伊織は、もうもうと舞い上がり立ち込める埃や砂利や木くず、砕けた庭石のかけらなどの中に飛び出した。


 周囲の状況は一変していた。


 真垣城の正殿せいでんは、正面半分が台風の直撃を食らったような有り様で、柱が折れ、壁が崩れ、屋根も床も吹き飛び、拉げた根太がむき出しになっている。

 その前の庭には、巨大な円形の陥没穴が開いていた。敷き詰められていた白砂利は殆どどこかへ吹き飛んでしまい、地面が剝き出しになっている。


 そのあちこちに、血まみれになった黒衆や武士たちが転がって呻いている。

 鼻孔を刺す血の臭気と、気道を塞ぐ粉塵。

 その中を、爆発の前に確かに聞こえた声を探して数歩を走り――そして、二人の八手一族は同時に足を止めた。


「――お姉ちゃん!」


 崩れた正殿の脇、積み上がった瓦礫の間に、朱鷺色の小袖を纏った少女が倒れている。

 清十郎の息子たちは、その腕の中に居た。

 幼い眸をいっぱいに見開いて自分たちを抱え込んでいた少女を見つめ、状況を把握するや否や悲鳴を上げて這い出し、地に伏している細い肩に取りすがる。


「ご、ごめんなさい! 長屋から出たら駄目って、伊織様にも母上にも言われてたのに!」

「ち、父上の気配がしたから、それで……!」


 戎士長屋が結界の内側にあった以上、そこに居た者たちも、外へ逃げることはできなかった。

 閉鎖された空間の中、始まった戦いの気配は激しくなるばかりで、幼い子供たちの不安や恐怖は募るばかりだっただろう。そこに父親が戻って来た気配を感じたものだから、とうとう居ても立ってもいられなくて、飛び出してきてしまったものらしい。


「ごめん、ごめんよ、二緒子におこさん」


 そこへ、七尾凛子りんこが、ざんばらに解けた髪を振り乱しながら這い寄り、少女を抱き起した。


「でも、あんた、何でこんなこと、どうして……」


 その眸からは、大粒の涙が溢れている。


「あんたにとって、八手やつで一族なんて――まして、七尾清十郎の家族なんて、どれほど憎んでも飽き足らない仇だろう? なのに、どうして……」


 少年二人は、頬や手をすりむいている程度で、ほぼ無傷だった。凛子も、走り抜けた風の刃で頬や腕を切られてはいたが、全てかすり傷だ。


 だが、二緒子は、背に大きな裂傷を負っている。あの瞬間、深手を負っていた伊織と、褐衣かちえ随身ずいしんに対峙していて咄嗟には動けなかった清十郎より早く飛び出し、無防備に戦場に出てきてしまった幼子たちを、その母親ごと庇った所為だ。


「どこの誰でも、小さい子が死ぬのは、もう、嫌だから……」


 うつぶせの状態で凛子に抱き上げられた二緒子が、小さく呟く。


「斗和田で何があったとしても、この子たちには、関係ない……」


 透明な眸を巡らせて、二緒子は、目の前でぼろぼろ泣きながら謝っている双子を見つめた。


「心配だったのよね、お父さんのことが……。子供が走り出す理由なんて、それで十分だものね……」


 幼い心は、状況の意味を理解するより、待ち受けているかもしれない危険を予測するより、まず、大切なものを気遣った。傷つけられた家族のもとに、ただ一直線に駆け寄っていこうとした。

 瑠璃と玻璃と同じだ。

 本物の暴力に遭えば容易く吹き飛んでしまう、あまりにも儚い思いやり。

 だが、だからと言って、愚かと謗ることが誰にできるだろう。


 悪いのは子供たちではない。

 この状況の方だ。

 自分たちの都合で争い合い、破壊し合い、幼い心の親愛や思いやりを巻き込んでその命ごと摘み取ってしまう、醜悪で度し難い、この泥濘のような現実の方だ。


「だからこそ、あなたたちは生きなくちゃいけないの……。だから、今は、お母さんと一緒に、戻って、隠れていて……」

「う、うん」

「お姉ちゃんも、一緒に!」

「私は、私の家族のところへ、行くから……」


 少女が、不安と恐怖と罪悪感でぐちゃぐちゃになっている幼子たちに、手を差し伸べる。そのまま、淡く表情を緩めた。


「全部、終わったら、遊ぼうね」


 歌留多かるたでも、独楽こまでも。


「その時は、私の弟たちも一緒に、遊んでくれる……?」


「うん!」

「勿論!」


 差し伸べられたその手を、幼い少年たちは、何の躊躇もなく両側から掴み、握りしめた。


「みんな一緒がいいよ!」


 二緒子の双眸から、涙があふれ出した。

 小さく震えた唇が、兄弟たちとは違う名を呟いた。


「――二緒子殿」


 低く呻いた伊織が、清十郎の横をすり抜け、負傷している身体を引きずるようにしながら、駆け寄っていく。まだ細い少女の背に開いている裂傷に『繰糸くりいと』を巻き付けて、縫合と止血に取り掛かる。


 その全てを、清十郎は無言で見つめていた。

 眸に、顔に、濃い影が滲んでいる。一族の他の者たちと違い、ばっさりと襟足で切られている短髪が、舞い上がる風の中に揺れた。


「畜生、あのガキ……」


 崩れた正殿の瓦礫の中に半ば埋もれた桧山辰蔵が、咄嗟に自分自身を包んで崩落の衝撃を緩和させた『繰糸』を解きながら、おどろおどろしい声で唸っている。


「わしの城が……」


 近くには、数馬の『使』が低く身を伏せていた。その影では、鬼堂興国が両眼を血走らせながら、わなわなと震えている。


 そして。


「伊織様、兄様は……」

「大丈夫。ご無事ですよ」


 一也は、粉砕された正殿の前に片膝をついていた。

 その傍には、『盾』を巡らせた数馬の姿がある。

 二人とも、全身に埃と泥をかぶり、あちこち切り傷だらけで、清十郎たちに負けず劣らず酷い有り様だったが、直撃だけは免れている。


「――あらら、凌がれちゃったの?」


 白鹿の『使』の横で、槌矛を肩に担いだ黒衣の人形が、指先でほりほりと頬を掻いた。


「しぶといねえ。流石は一代の真那世と鬼堂家の御曹司ってこと?」

「――それだけじゃありませんよ、詩子うたこ様」


 随身の静かな声が、黒衣の人形に答えた。


「ご覧ください」


 視線が示したのは、白砂利の庭に開いた巨大な陥没穴――その中心に居る三朗だった。


「何あれ? 変な恰好。奈子なこったら、何やってるの?」


 確かに、変な恰好ではあった。

 少年は、泥土に染まった白帷子の裾を翻して、穴の底に横倒しになっている。

 その左脚が、右脚を上から絡めるようにして、抑え込んでいる。左手も、神剣を握ったままの右手の手首をわし掴みにして、地にねじ伏せている。

 更に、上体を捻るようにして右肘の辺りに顔を埋め、自分で自分の腕に噛みついているのだ。それも、歯が肉を裂き、骨まで届くほど深く、強く。


「お分かりになりませんか?」


 随身が言った。


「あの風のわっぱ、右腕が神剣を振り抜く直前、その右腕に噛みついたのです。更に、左手で、右手を抑え込んだ」

「嘘。それって、あの子の意識が、奈子の『傀儡』を破ろうとしてるってこと?」


 そうだ――と、清十郎も、無意識の内に頷いていた。


 だから、一也を狙って放たれた神力は僅かに逸れて、正殿にぶつかった。

 おそらく、その時に、放出される神力そのものも多少抑えたのだろう。だから、巻き添えを食らった自分たちはもちろん、周囲で呻いている武士たちも即死だけは免れている様子だ。


「頑張って、三朗……」


 視えているのか、感じているのか、二緒子が譫言のように呟いている。


「敗けないで……」


 確かに、三朗は戦っている。

 その証拠に、自分で自分を押さえつけている三朗の眸の色が、また変化していた。

 右の眸は相変わらず虹彩まで青い光に染まっているが、左の眸には、その奥で星明りを散らした夜闇のような黒色の光が明滅している。

 十二歳の、まだ子供と言っていい小さな身体の中で、たましいたましいが想像を絶するせめぎ合いを続けている。


「ええい、何をしておる、数馬かずま! 殺せ! 侵入者どもを殺せ! 皆殺しにせよ!」


 鬼堂興国が泡を噴く勢いで喚いている。


 二緒子は何も反応しなかった。疲労と負傷の痛みとで聞こえなかったのか、ただぐったりと凛子の膝に身を預けている。

 代わりに凛子が、今にも泣き出しそうな表情を浮かべて、夫を見つめてきた。

 伊織の方は振り返らない。二緒子の手当てに集中している。

 振り返るまでもない、ということだろう。


 小さく息を零すと、数馬が走り出した。


「七尾!」


 放たれた声は一言だけ。

 それに応じて、清十郎もまた無言で踵を返し、地を蹴った。

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