44 その絆は、錨となりてー2

「つくづく恐ろしいお兄さんね……」


 誰も居ない筈の闇のどこかから、嘆息するような声が聴こえた。


「本当に、どうして、鬼堂興国おきくにはあんな物騒な真那世まなせを縛ったりしたのかしら? まるっきりの莫迦じゃない」


 次の瞬間、どこからともなく飛来した無数の金の鎖が、三朗の首に、両手両足に、胴体に絡みついた。


「ッ⁉」


 凄まじい力に締め上げられ、引きずられ、吊り上げられる。そのまま、大の字に両手両足を拘束されて、闇の中にはりつけられた。


 (あ、んた……?)


 爆ぜるように凝らした視線が、目と鼻の先にぼうっと浮かび上がった人影を捉える。


 それは、九条ゆかりと名乗った、あの少女に見えた。

 だが、今は、市女笠は被っておらず、纏っているのも青色一色のうちぎで、小さく白い顔と、切れ長の眸と、肩に流れるつややかな黒髪を、三朗の視界にさらしている。


(どうしてここへ、どうやって……!)


「引きこもってぐずぐず泣いていたあなたが気付いていなかっただけで、もうずいぶん前から居たわ……。もっとも、こんな精神の無意識の底の底じゃなく、あなたが放り出して空っぽにした、意識の表層の方だけれど」


 切れ長の眸が見下ろす。


「だからここは、何をしに……と聞くべきじゃないかしらね」


 右腕が持ち上がり、前方に刺し伸ばされる。

 磔けられて固定されている三朗の胸部に、その細い指先が触れた。


「‼」


 次の瞬間、意識と感覚の両方に、凄まじい衝撃が弾けた。

 ずぼり、と音を立てて、少女の右手が、手首まで三朗の胸部に埋まる。ひんやりとした他人の掌が、三朗という精神の心臓の一つ――神珠しんじゅを鷲掴みにする。


 咄嗟には、悲鳴すら上げることができなかった。

 眸の奥で火花が散って、全身の筋が鉄板にでもなってしまったかのように硬直して、指先一本動かせなくなる。


 ――奈子なこ! 何をしているの!


 脳裏に、別の誰かの声が弾けた。


 ――そんなところまで潜ったら危ないわ! いくらあなたでも、戻れなくなるかもしれない!


「そうね……。でも、目の前に居るのは、真那世のくせに自ら『血殺し』を約束する――目的の為ならたましいを差し出す覚悟を示せる化け物なのよ。保身を前提にした通常の最善策程度じゃ、勝てないわ」


 どこかの誰かに答えた時、少女の白い顔に透き通るような表情が浮かんだ。


「私だってお姉さんだものね……、可哀想な紫、あなたの……」


 その言葉を聞きとがめる暇もなく。

 見開かれたままの三朗の視界に、闇以外の光景がねじ込まれてきた。


 半壊している真垣城の正殿。

 白砂利の庭。

 

 右腕に絡みついている金の鎖が、ぐいと引かれた。

 視界の中でも、現実の自分の右腕が、同じ動きをする。それと共に、神珠が勝手に回転して、神力ちからが迸るのを自覚した。


 右手に、嫌な手応えが走った。

 跳ねた血の匂いが、嗅覚を刺した。

 限界まで瞠った視界に、漆黒の風の刃に跳ね飛ばされて、白砂利の上に叩きつけられた一也いちやの姿が映る。

 その兄の右腕が、真っ赤に染まっている。


(え?)


 愕然とした時、再び、右腕の金鎖が引かれた。

 視界の中でも、現実の右腕が同じように動く。

 その掌中に、神剣が閃いた。


(やめろ……)


 ぞわり、と全身の毛が逆立った。


(何をさせる気だ。やめろ!)


「もう一度、あなたに『血殺し』になってもらうのよ……」


 青色の少女が、冷たく笑った。


「それで、あなたという意識は、今度こそ完全に砕けるでしょ……。普通の真那世に耐えられる筈が無いものね。それで、あなたを永遠に紫の玩具にできる」


(‼ 嫌だ‼)


 全身に絡みつく金の鎖が、引き絞られる。声も呼吸も鼓動も奪われる勢いで締め上げられながら、それに操られて右腕だけが勝手に動く。


(やめろ。やめてくれ‼)


「紫も言っていたけどね……、強者の慈悲を期待することしかできない弱者には、何を望む権利もないのよ」


 少女は首を振っただけだった。


「今更嫌だと喚くぐらいなら、何があろうと、あなたはあなた自身を棄てるべきではなかったわね……」


 ***


「嘘……」


 呆然と、二緒子は息を引いていた。


「三朗が、兄様を……」


 遠目にも、一也の右腕が、手首の辺りから二の腕の辺りまで、ざっくりと切り開かれている様が確認できる。あれでは、神剣を握ることができたとしても、褐衣かちえ随身ずいしんのような手練れを相手にするのは、もう不可能だ。


「中に居る霊珠れいじゅが、三朗殿の精神を侵蝕している――ように見えます」


 隣で、伊織が唸るように言った。


「あの姫の術はもう何が何やらですが――『傀儡』状態に置かれて尚、水守殿やあなたを攻撃しない三朗殿の、そのたましいの抵抗を排除しようとしているのではないでしょうか」


 しかし――と眦を険しくする。


「そんなことが、ただ単に可能という話なら、そもそも最初からやっていた筈。そうしていれば、三朗殿はもっと早い段階で二緒子殿を排除できていた」

「そう、ですね。なのに、今の今までやらなかったということは――」

「それは術者の側にとっても危険な、可能ならばらずに済ませたかった最終手段、ということではないでしょうか」


 二緒子は思わず、市女笠の少女を見やった。

 相変わらず、笠の縁から垂らされている紗に遮られて、その表情を伺うことはできない。


 ただ、ここへ乗り込んで来た時の余裕は、もはや感じられなかった。

 結界が破られ、数馬と七尾清十郎の参戦を許したところで、それまでの優勢が一気に覆ったことは、彼女にもわかっているのだろう。


 だが、それでも、彼女は退こうとしない。

 それどころか、危険を冒してでも、なりふり構わず勝負に出ようといている。


(何故……)


 一体何が、彼女をそれほどまでに駆り立てているのか。


「――詩子うたこ柾木まさき、一度、紫のところへ戻って」


 その時、三朗の中の誰かが、市女笠の少女と同じ声で言った。


 語尾に、漆黒の神剣に急速に神力が凝っていく気配が重なる。

 風が渦を巻く。

 それが、紛れもない殺気を乗せて、撃ち放たれた。


 数馬の両手が左右に翻る。金の光が弾けて、それぞれの手の先に楕円状の『盾』が出現する。それが、三朗が放った風の刃を全て止め、弾き返した。


 その間に、桧山辰蔵の拘束から逃れた黒衣の人形が、そのまま正殿の屋根から飛び降りる。

 褐衣の随身が、清十郎の踏み込みを躱しざま、後退する。


「――殿、ご無事ですか!」

「若! これは一体……!」


 その時、複数の声が上がって、庭の向こうから、対屋たいのやの方から、正殿せいでんの奥から、手に手に松明をかざした複数の人影が飛び出してきた。


 太刀を佩き、矢筒を背負った甲冑姿の武士たちが大半だが、数人、黒衆の術者が混じっている。数馬が率いて出た主力の者たちではなく、留守居として城の別の場所に居た術者たちらしかった。結界が破られたことで変事に気付き、駆けつけてきたのだ。


「若! お館様!」


 その先頭で叫んだのは、十五、六歳の若者だった。


大吾だいごか! 遅いわ! そこの小娘と随身を捕えよ!」

「駄目だ、不用意に近づくな!」


 鬼堂家の当主とその息子の声が交差し、その若者が戸惑ったようにたたらを踏む。


 その時だった。


「父上……‼」


 あり得ない声が響いた。


 愕然と振り返った二緒子の視界に、正殿の脇の小道から飛び出してきた小さな二つの影が映る。同じ顔をした、まだ幼い少年たちが。


「駄目だよ、あんたたち! 戻って‼」


 その少し後を、必死の形相で追いかけてくる女性の姿が映る。


はじめ⁉ あらた⁉」


 清十郎が愕然と叫んだ。


「駄目だ‼ 来るな‼」

「来ちゃ駄目‼」


 清十郎と二緒子の叫びが重なった時、三朗の神剣が一閃した。


 一瞬にして渦を巻いた、漆黒の竜巻。

 地上から中天へと駆け上がったそれは、三年前や今朝の糸百合での暴走に匹敵する規模であり、威力だった。


「創、新、凛子りんこ‼」


 清十郎の絶叫に、大気が破裂するような爆音が重なった。

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