第七章 浮上する祈り

41 結界破り

「――お喋りはそこまでよ」


 背後で、酷くざらついた声が響いた。

 同時に、凄まじい爆音が轟いた。


「⁉」


 ハッと振り返った二緒子におこの視界に、もうもうと立ち上った土煙と、その中から虚空に弾き飛ばされた痩身の人影が映る。


「――伊織様⁉︎」


 認識と同時に、虚空に生じた白金色の燐光が、瞬く間に水流のかたちを取った。地表を滑り込み、地面に叩きつけられる寸前だった身体を受け止める。


 跳ねるように立ち上がり、駆け寄って、二緒子は息を引いた。伊織の腹部が朱に染まっている。左の脇腹を、白鹿の『使』の雪礫に抉られていた。


 間髪を入れず、土煙を貫いて、無数の『楔』が飛来した。

 何もしなければ、伊織も自分も串刺しだ。いや、背後で三朗の突進を止めている一也もだ。


 思考が形になると同時に、二緒子は、下から上へと駆け上がる瀑布を、目の前に出現させていた。その厚い水の盾が一気に『楔』を呑み込み、消滅させる。


「――やはり、命のやりとりの間で得るものというのは、大きいな。あの娘、急速に神力ちからの使い方を向上させている」


 褐衣の随身が、微かに笑った。


「姫、これでは、姫があの娘を、戎士じゅうしとして鍛えてやっているようなものですぞ」

「それは、生き残り続けられたらの話でしょ」


 市女笠の少女が、露骨に苛立った舌打ちを響かせた。


「――ゆかり、大丈夫か?」

「――さっきよりも酷く心が乱れていますよ、紫さん」


 それに被さるようにして、二緒子の耳に、またあの幽かな声が聴こえてきた。


「あはは。無理ないよねえ。腹が立つよねえ」


 屋根の上で、桧山ひやま辰蔵が放つ『繰糸くりいと』をことごとく断ち切りながら、黒衣の人形が肩を竦めるようにして笑った。


「同じように人に利用される為に『創られた』と思っていた真那世に、自分たちは違う、なんて言われちゃあねえ」

「ああ、やっぱり本当に可哀想なのは、私たちだけなのね……」


 一也と神剣を噛み合わせたまま、三朗が少女の声で嘆息する。


「煩いわよ、みんな」


 吐き捨てるように呟いて、市女笠の少女が、正殿の屋根に視線を向けた。


詩子うたこ、そんな逃げ回るだけの蜘蛛一匹潰すのに、いつまでかかっているの⁉」

「ごめんね。自分を護ることしか考えてない奴って、案外潰しにくいのよねえ」


 口角の端を吊り上げながら、黒衣の人形が正殿の屋根に槌矛を叩きつける。一撃で屋根に亀裂が走り、屋根瓦が衝撃波で四方八方へ飛び散った。


 それを真正面で浴びた桧山辰蔵が、もんどりうって屋根の傾斜を転がる。

 だが、流石に八手一族で十人きりの組長の座を張るだけあって、咄嗟に『繰糸』を張って衝撃を殺しながら、すかさず迫った黒衣の人形の鎚矛を剣で打ち払った。


「――なに、あいつ、本気で戦えば結構強いんじゃない?」

「――その本気を見せなくても罰せられずに済む場面では、鬼堂家や斗和田の一代の為に費やす気はなかった、ということなのでしょうね」

「つまり、力と恐怖で支配し、屈服させることで利用できるものなど、そう大したものではない――ということよね」


 低く呟いて、市女笠の少女が片手を上げる。

 白鹿の『使』が双角の間に妖力を凝らせ始め、その頭上に、十を超える『楔』が顕れる。


柾木まさき、手当ては終わった? 動けるなら、こっちに加勢して」

「まあ、動くには動けますが……」


 ぼやきながら、随身が立ち上がる。

 その手には、先ほど一也に折られた太刀の柄があった。

 その折れた先端に、金色の光が滲み、膨らむ。それがそのまま伸びて、刀身の形を取った。


「『霊刀』だと?」


 未だ背後で仁王立ちになったまま、何もせず、しようともしない鬼堂興国おきくにが、表情と声を引き攣らせた。


「ということは、その随身ずいしん三室みむろ家の者か」

「今頃気付いたの?」


 軽蔑の眼差しで、市女笠の少女が鬼堂興国を見た。


「そうよ。霊力を体術や剣術に融合させる技を開発、発展させた一風変わった神狩かがり一族、三室家。霊的な肉体改造による神速の剣技は、並みの術者が霊能の技を発動させるよりも早く、その首を落とす。故に、三室家は、よく一族の裏切り者や犯罪者を追捕、暗殺する処刑人、『死神』として使われるわね」


「――何をしておる、伊織、小娘!」


 鬼堂興国が喚いた。


「わしが討たれれば、一也と薫子かおるこも死ぬのだぞ! わかっているのか⁉ わかっているなら、死んでもその『死神』を止めろ‼」


「つくづく度し難い男ね。この期に及んでも、自分を護る者たちに、ただ身内の命を盾にして命令することしかできないの?」


「――今更、驚きはしませんけどね」


 幽かに暗い笑いを滲ませて、左腕を地についた伊織が、懸命に起き上がろうとする。その弾みで、抉られている脇腹から新たな血が噴き出した。


「動かないで、伊織様! これ以上出血したら、死んでしまう!」


 神剣を抜きながら、二緒子が叫んだ。


「どのみち、あなたたちはこれで終わりよ!」


 吐き捨てるような声と共に、真正面から雪礫と『楔』が飛来する。

 側面から、随身が走り込んでくる。


 一也は、三朗を押さえていて動けない。

 桧山辰蔵も、黒衣の人形を凌ぐだけで精一杯だ。


 九条の姫とあの随身を相手に、一人でどこまでやれるか――。


(やれるか、じゃない。やるの!)


 必死の形相で、それでも目を瞑ることなく、その全てを見据えた時だった。


 ***


「――紫!」

「――紫さん!」


 よく似た二つの声が警告の叫びを上げた。


「⁉」


 同時に、二緒子の聴覚が、ぴしっ、という空間の軋み音を捉えた。

 視覚が、結界の天蓋に走った大きな亀裂を映した。


「――結界破りですって⁉」


 市女笠の少女が爆ぜるように叫んだ時、いっぱいに膨らませた風船を両手で叩き割ったような破砕音が、その場に響き渡った。


 途端に、二緒子は悲鳴を上げ、両手で両耳を押さえて、その場にうずくまっていた。

 音も『力』の一種であるから、制限を外したままだった聴覚がそれに強打された瞬間、脳髄が痺れて、咄嗟に天地の感覚が失われた。


「ちょっと、何?」

「まさか、姫の結界が?」


 正殿の屋根の上で、黒衣の人形が、顔を顰めながら足を止める。

 褐衣の随身も、攻撃を中断して、驚きの声を上げる。


 全員が空を見上げた、その視線の先で、市女笠の少女が構築していた緻密な多面体の一部が吹き飛んだ。


 そこから、一つの大きな影が、白砂の庭へと躍り込んできた。

 それは、基本的には狼だった。

 全身を銀色の毛に覆われ、大きさは市女笠の少女の白鹿の『使』に匹敵する。更に、地を踏みしめた四肢の先には鉤爪があり、首回りには純白のたてがみがなびき、そして、顔の中央には真紅の眼が三つ、菱形に並んで開いていた。


「――『使』?」

「『伯王はくおう』⁉」


 九条紫の声に重なったのは、伊織と桧山辰蔵の声。


 その狼が牙を剥き、四肢の鉤爪を閃かせて、白鹿の前に飛び込む。

 衝撃波が放たれて、二緒子と伊織を引き裂くところだった氷雪の礫と『楔』をはじき返した。


「『驟雪しゅうせつ』、下がって!」


 市女笠の少女が、咄嗟に『使』を後退させる。


 狼の背には、二つの人影があった。

 その内の一つが、空へ跳んだ。

 襟足で切られた短髪。檜皮色の戎衣に袖の無い鹿皮の羽織を重ねた、大柄な体躯。その手に、背中に背負っていた大剣が抜き放たれる。


「清十郎?」

「七尾様!」

「――伊織、二緒子殿、下がれ!」


 伊織と二緒子の声に、大剣が空を割く音が重なる。裂帛の気合いと共に、巌をも砕くような一撃が、二人に肉薄していた褐衣の随身の頭上に叩きつけられた。


「うぬっ」


 随身の『霊刀』が閃いて、それを受け止める。凄まじい重量と重量を持つもの同士がぶつかった衝撃音に、両者の足元が抉れ、庭の白砂利が爆散した。


「『伯王』は、父上を護れ」


 同時に、もう一つの人影が、狼に命じざま逆方向へ、すなわち、一也と三朗の方へ跳んだ。


「殺せ、数馬かずま! 七尾!」


 鬼堂興国が生気をよみがえらせたような顔になって、喚いた。


「『死神』も役立たずの小童こわっぱも殺せ‼ 殺せ‼」


「⁉ 待って‼」


 胸奥を引き攣らせながら振り返った二緒子の視界に、黒の直垂ひたたれを纏った青年が、鋭い動きで両手を翻す様が映った。


「殺しはしない。『傀儡』を解術する。一也、二緒子、そのまま動くな!」


 だが、聴覚が捉えた声は、父親の命令とは真逆のものだった。


「数馬、貴様っ‼」

「命令無視のお咎めは、後でいかようにもお受けします」


 鬼堂興国の怒声に、青年が地を走る音が重なる。


「しかし、この状況で、一也と二緒子まで敵に回す愚は犯せませぬ!」

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