40 斗和田・祈り

 赤く染まった春の野原。

 その中に、ぺたり、と座り込んだ時だった。


「――二緒子におこ!」


 背後から、小川の土手を跳び越えて現れた人影に、二緒子はぎくしゃくと首を巡らせた。


「兄様……」

「これは……、一体、何があった」


 日頃冷静な一也いちやが、愕然としている。


 当然だ、と空白に落ち込んだ意識の一部で思った。

 その場の光景――馬に乗った甲冑姿の男たちと剣を佩いた檜皮ひわだ色の上下を纏った男たち、その前で血まみれになって蹲っている祖父とその傍に立ち尽くしている従弟、そして、その全てを飲み込む勢いで渦を巻き、膨張を続けている弟の神力ちからの暴走を目の当たりにすれば、誰だって驚くだろう。


 ましてそこに、ばらばらになった少女たちの遺体が散らばっているとなれば、尚更だ。


瑠璃るり? 玻璃はり? これは、まさか、三朗がやったのか……?」


 兄が強く息を引いた時だった。


「と――捕らえろ! 斗和田とわだの一代を捕らえろ!」


 馬に乗った男の一人が喚いた。

 その声に、目の前の光景に度肝を抜かれて立ち尽くしていた檜皮色の男たちが、我に返ったように顔を見合わせた。

 どの顔にも、底知れぬ恐怖があった。

 だが。


「ええい、捕らえろと言うのに、聞こえないのか! 貴様ら、我らに逆らえば、『質」や里の女子供がどうなるか、わかっているのだろうな!」


 裏返った声で、それでも放たれた恫喝に、真那世の男たちが弾かれたように走り出す。血に染まって蹲っている祖父と、その傍に立ち尽くしている透哉の横を素通りして、真っすぐ、二緒子たちの元へと。


「妹と弟に触れるな‼」


 瞬間、爆ぜた蒼銀の雷光が天を裂き、大気を穿った。樹齢千年の大樹すら引き裂く稲妻が、殺到した檜皮色の男たちを、先ほど声を上げた馬上の男を、その馬ごと撃ち倒した。


「――ヒッ⁉」


 全員が一瞬で炭化し、地に転がった光景に、他の男たちが、たましいが千切れるような声を上げた。


「な、何だこいつ……!」

「こいつも化け物だ! ひ、ひとまず退け! お館様にご報告だ!」


 先ほど、酸で顔を焼かれた仲間二人を馬上に担ぎ上げて、一斉に馬首を巡らせる。

 

「――わああああ‼」


 同時に、立ち竦んでいた透哉とうやが、裏返った悲鳴を上げた。

 真っ白に漂白されたその顔の中で、眦が裂けそうなほど見開かれている眸に、初めて見る恐怖と厭悪が渦を巻いた。


「化け物! 化け物……‼」


 その眼差しが、呆然と見つめ返す二緒子を、反射的に立ち止まった一也を凝視する。凝視しながら、喉が裂ける勢いでそう叫び、踵を返した。


「透、哉」


 その背に、必死の様子で顔を上げた祖父の、絞り出すような叫びが重なった。


百夜びゃくやのもとへ行け。聞こえているか、透哉! 父の所へ行くんじゃぞ‼」


 死に物狂いで呼びかけるが、惑乱に陥った少年は振り返ることもなく、闇雲に野原の彼方へと走っていく。それは、妖種から逃げる人のような足取りであり、背中だった。


 一也が一瞬、追うべきか否かと迷うような様子を見せた。

 だが、その兄に、祖父が苦しい息の下から呼びかけた。


「一也、三朗が、先じゃ。このまま暴走が続けば、被害が拡大する。何より、あの子の肉体が保たん」

「‼」


 ハッと弟を見返った兄が、鋭い動きで身を翻す。

 その手に神剣が閃いた。一振りで、蒼銀の雷光が空を走る。轟々と渦を巻き続けている漆黒の竜巻の周囲を取り囲むと、一気に稲妻の檻を編み上げた。


「二緒子、三朗の封珠ふうじゅ、近くに落ちているじゃろ。一つでいい、持って来ておくれ」


 次いで、祖父は二緒子にも呼び掛けてきた。


 最初から最後まで全てを目の当たりにしながら、何一つ変わらない声音。そして、三朗を助けようと示される意志に、全身を縛っていた硬直が音を立てて吹き飛んだ。


 がくがく震えている奥歯を噛み締め、膝頭に無理やり力を込めて、立ち上がる。ともすれば散りそうになる焦点を凝らし、痙攣する指先で近くの草むらに落ちていた朱色の勾玉の一粒を拾い上げると、こけつまろびつしながら祖父の側へ駆け寄った。


「――在るべきものよ、在るべき場所へ」


 受け取った祖父の掌が、淡い朱色の光を帯びる。

 すると、野原に点々と散らばっていた勾玉が、一つまた一つと、ふわりと浮き上がり、一斉に祖父のところへ集まってくる。


「在るべきものよ、在るべき形へ」


 全てが集結したところで、祖父は掌を上に向ける。

 朱色の勾玉はその掌の上で一列になり、見えない糸を通されたかのように、元の首環の形を取り戻した。


 よし、とそれを握り込んだ祖父が、大きく咳き込んで、血の塊を吐き出した。


「おじい様!」

「大丈夫じゃ。それより、一也が押さえておる間に、わしを三朗のところへ、連れて行っておくれ」


 呼吸の合間に、ぜろぜろという耳障りな音が聴こえる。霊珠の光も、次第に弱くなっていく。


 引き攣るような嗚咽を洩らしながら、二緒子は血まみれの祖父の身体に両腕を回し、支えるようにして抱え上げた。

 兄の傍らまで跳び、漆黒の風の切れ目を狙って、その渦の中に入り込む。


 竜巻の中心では、頭から瑠璃と玻璃の血を被った三朗が、放心の態で腰を落としていた。


「三朗……」


 呼びかけながらその前まで行くと、祖父は、右手を少年の額にかざし、左手で、元の形に戻った首環くびかざりを細い頸に回して、繋ぎ目を霊力で溶接した。


朝来あさぎの声が奉る。風のしるべをここに。形ある混沌よ、循環せよ」


 元の位置に戻った勾玉が、淡い朱色の光を発して、ふわりと浮き上がる。

 それに応じて、轟々と渦を巻いていた風の勢いがゆるゆると落ち、やがてはぱったりと止まった。


「三朗!」


 だが、二緒子の叫びにも、風が切れると同時に傍へ駆けつけてきた一也の声にも、三朗は何一つ反応しなかった。

 その眸は、全ての理性も感情も凍結させた硝子玉と化して、ただ虚空の一点だけを呆けたように見つめ続けている。


「すまぬ。すまぬのう、三朗。お前は優しい子じゃのに。たった九つで、何という業を背負わされたのか」


 声もなく弟を見つめた二緒子と一也の眼前で、皺を刻んだ手が、震えながら少年の頭を撫でる。その語尾に、苦し気な咳き込みと、吐血の音が重なった。


「おじい様!」


 崩れかける肩を、兄が支える。

 二緒子は、その反対側から祖父の背に両手を当てて、神和一族の霊能の技の一つ、『癒し』を発動させた。


「兄様、おじい様の手当てを、早く!」

「――良い」


 半狂乱で叫んだ二緒子に、ゆるりと首を振ったのは祖父本人だった。


「それより、よう聞け」


 その身体からは、血の川が流れ出し続けている。呼吸を続けているだけでもやっとだろうに、祖父は最後の力を振り絞るようにして両手を持ち上げ、三朗の頭を左右から包み込んだ。


「わしが、三朗の記憶に、蓋をする。部分的に――この光景だけを、忘れさせる」

「――え?」

「――それは」

「言うておくが、なかったことにする為ではないぞ」


 息を詰めた二緒子と一也に、祖父が視線を投げる。


「今は、立って、走らねばならん時だからじゃ。の国の黒衆が来ておる。こんな状態で囚われてみよ。三朗は、命ある限り、あの連中の凶器とされてしまう」

「阿の国――鬼堂家、ですか」


 一也がハッとしたように視線を巡らせ、男たちが去って行った方を見やった。


「お前たちの存在を知っておった。噂の鬼堂興国おきくに本人が来ているとすれば、一刻を争う。早急に、三朗の意識を戻さねば」


 息を荒げながら、祖父は三朗の頭を包み込んだ掌に、淡い朱色の燐光を灯らせる。


「で、でも、おじい様、透哉君には何と言えば。それに、百夜叔父様にも……」


 その名を声に出しただけで、二緒子は足元がガラガラと崩れていくような気がした。


 叔父の百夜は、水守家の兄弟にとっては父親代わりだった。

 叔父も、自分たちのことを実子同然に可愛がってくれていた。

 それでも、亡き叔母が命と引き換えに産んだ愛娘たちのこんな最期を知ったら、一体どう思うだろう。しかも、その事実を、祖父が三朗の記憶から消去したと聞かされたら。


「千夜子と百夜には、お前たちが見たままを話せ。そして、百夜に伝えよ。今、この時より、神和一族の長はお前じゃ。故に、三朗の処遇は、お前が長の責務として判じ、定めよ、と」


 ごくりと息を詰め、顔から血の気を引かせて、二緒子は三朗を見つめた。


 化け物――と叫んだ透哉の声が、脳裏をよぎった。


 これから、自分たちは一体どうなるのだろう。

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 つい数刻前までの日常は、当たり前だと思っていた日々は砕け散り、終わった、ということだった。


 焦点が揺れている。

 手足も、全身も、カタカタと震え続けている。


 唇を噛みしめた一也が、片手を伸ばして、そんな二緒子の背に掌を添えてくれた。


「ただ――それも、鬼堂家と黒衆を退けての、話じゃ」


 祖父が、ぎり、と奥歯を鳴らした。


「一也、二緒子と三朗を頼む。千夜子ちやこ四輝しきを、神和かんなぎの皆を、村を――頼む。早く、神社へ」

「おじい様も、一緒に!」

「わしは、もう動けん。それに、わしは、瑠璃るり玻璃はりを、命の円環まで連れて行ってやらねばならぬからの。二人だけでは、道に迷うてしまうかもしれんから」


 孫娘たちの凄惨な遺骸を、そして、目の前で虚脱状態に陥っている三朗を、悲哀と慈愛とを込めた眼差しで、順に見つめる。

 その眸から、涙があふれ出した。


「一也、二緒子、わしは、むしろ残酷なことをしておるのだ。つかの間は閉じ込めておけても、記憶の蓋は、いずれ必ず開く。百夜がどのような判断を下そうと、その時、三朗は死以上の苦しみを味わうことになろうから」


 この光景の重みを受け止め損なえば、再び心を閉ざしてしまうかもしれない。

 反射的に己れの首を己れで掻き切るかもしれない。


「その苦悩、その絶望を思えば、今ここで、償いの名目で命を絶ってやった方が、よほど楽ではあるじゃろう」


 それでも――。


「認められん。百夜に伝えてくれ。咎を負うべきは、力を――力だけを求めし者ども、そして、護るべきを護れなかった、このわしじゃと。大人が犯した罪や失敗の報いを、幼き子が背負うなど、あってはならん」


 こつり、と祖父の額が三朗の額に押し当てられた。


「生きておくれ、三朗。生きて、この業を薄めてゆく道を見いだせ。そうでなければ、瑠璃と玻璃の命は、本当に無駄になってしまうからの……」


 ***


 ぽた。


 目の前の地面に、小さな滴の感触が跳ねた。

 ハッとして、二緒子は顔を上げた。


「三朗……」


 見開かれたまま、瞬き一つしないその眸の端から、赤い滴が零れていた。

 血の涙だ。

 それが、一滴、また一滴と、丸みを残している少年の頬を転がり落ちていく。


 二緒子の脳裏に、漆黒の闇の光景が弾けた。

 三朗が、その中にうずくまっている。

 その姿は、今よりいくつか幼く見える。多分あの時の、九歳の三朗だ。両手で頭を抱えて、まだ小さな身体を丸めて、哭きながら、闇の中を降る赤い雨に打たれ続けている。


 ずくん、と身の裡が重くなった。

 今すぐ、その傍に行ってやりたかった。

 鬼哭している肩を、抱きしめてやりたかった。


「――三朗」


 その時、静かすぎるほど静かな声が、一也の口から滑り出た。


「確かに、お前の神力ちからが、瑠璃と玻璃の命の緒を断った。決してお前自身の意志ではなかったとしても、それでも、それは、お前が終生背負うべき責――業だ」


 神剣同士を噛み合わせ、拮抗状態を維持しながら、至近から弟の双眸を見据える。青い光に支配されている意識の、その奥まで届かせようとするように。


「だから、お前がどうあってもその業に耐えられないと言うなら、私がお前を命の円環へ、瑠璃と玻璃のところへ送ろう」


「兄様⁉ 何を仰るのですか⁉」


 愕然として、二緒子は兄を振り仰いだ。


「ただ、それは、もうしばらく先、四輝しきが成人に達してからだ」


 そんな二緒子を目線だけで制すると、一也は言葉を続けた。


「『血殺し』の枷が如何に重かろうと、苦しかろうと、今のこの状況で四輝を見捨てることだけは、赦さない。四輝には、もう我々しか居ないのだから」


 凄烈な響きだった。

 いっそ冷厳だとすら言えるほど。


「だが、今の私と二緒子だけでは、あの子を護り、育てていくことは難しい。お前が必要だ。もはや自分の為には生きられないというなら、その命、私が預かる。だから、生きろ。私たちと四輝の為に、今少しの間だけ」


「それって酷くない……?」


 三朗の口だけが動いて、少女の声を吐き出した。


「自分たちの都合だけで弟に安息を許さず、地獄で苦しみ続けろって言うの……?」

「そうだ」


 煽る言葉にも、一也は微動だにしなかった。外野の声には目もくれず、三朗の眸の奥底だけを見つめ続けている。


「四輝は、斗和田のことを何一つ知らない。私たちが包まれていたあの安寧を、平和を、人の温かさを――母上の顔すら覚えていない。だから、それをあの子に伝え、教え導くのは、生き残った我々の役目だ。全てに優先される責務だ」


 一也が、片手を神剣の柄から離す。

 その手を、目の前の三朗に向かって、差し伸べる。


「お前がその責務を共に果たすなら、私たちはお前と共に在る。お前の罪とも業とも、共に歩む。闇の中で独りきりで死なせはしないし、我々を斗和田の一代という名の凶器としか思っていない術者のところに、置き去りにもしない」


 冷涼な眉目に、静謐な光が舞った。


「四輝が我々の保護と導きを必要としなくなった時、お前が、誰に言われた訳でも唆された訳でもなく、自らの珠の底からそれを望むなら、私がその業苦を終わらせる。約束しよう」


 だから――。


「今は、戻っておいで、三朗」

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