38 真那世なるものー1
「
神剣の先端が、少女の胸部を貫き通す寸前だった。
その傍らに滑り込むや否や、
「落ち着け。
「私の所為です! 私が弱かったから……!」
反射的に身をよじった二緒子が、ここではない何処かを見つめたまま、裏返った声を上げた。
「三朗の言う通り、甘えて、逃げていたから。真那世だったのに。『殻』も破れていたのに。私は何もできなかった。やらなかった。だから、あんな……っ」
「違う」
追い詰められた仔兎のような顔で叫びながら、兄の手を振りほどこうと暴れる。
だが、一也は神剣が自らの掌を傷つけるのも構わず、強く握り込んで刺突の勢いを止め、押さえつけた。
「
「――何を言っているの」
飛び込んできた一也に、三朗の両眼が軽く細められた。
「真那世は、人が神の力を得る為に創り出す存在でしょ……? なら、子供だろうと何だろうと、その神力を人の為に役立てる義務があった筈じゃない?」
「その認識が、そもそもの間違いだ」
もがく二緒子を腕の中に庇い込みながら、一也は顔を上げた。
「我々は人の為に生まれてきた訳ではないし、神和一族に『創られた』存在でもない」
「莫迦を言わないで」
三朗の声が嗤った。
「
古い時代、人の
真神の怒りに触れた人々に抵抗の術はなく、ただ畏れ、ひれ伏すことしかできなかった。
故に、人々は、その怒りを鎮める為と、社を築き、巫女や
「その頃は生贄の定義も曖昧で、老若男女問わず捧げていた頃があったそうだけど、どこかの部族が若い女を捧げたところ、その女の腹から神の子が生まれてきた。その話が伝わるにつれて、娘を捧げることが一般化したって聞いたわ」
その結果、あちこちで真那世の国が誕生し、その真那世と血縁関係にない人間の国は、属国として支配されるようになった。
「
その『想い』こそが、人の時代の始まりだった。
今現在の、央城の都の帝とその臣下である貴族階級による
そして、それを影で支えてきたのが、神狩一族だった。
「なのに、おじい様たちときたら、今更、真神に阿り、真那世なんてものを産み出すなんて……。人の誇りも、術者の気概も感じられない話よね。生贄にされた母上も可哀想……」
「だから、そこが違う」
一也が、冷ややかに応じた。
「既に、言葉遣いが三朗のものではなくなっているぞ、術者殿。その話を続けるなら三文芝居は止めにして、正体を顕せ」
うずくまったまま小さく震え続けている二緒子を、包むように庇い込む。
その手の力はまだ抜けてはおらず、水の神剣も顕現したままだ。少しでも一也が力を緩めると、その瞬間に少女は自分で自分の命を散らすだろう。
「三朗を使っている限り、二緒子を力尽くで排除させることができない。だから、あの場に居合わせた二緒子の罪悪感を煽り、追い詰めて自害に追い込もうとは、卑怯にも程がある」
雷光のような激昂が、威圧となって立ち昇る。
だが、三朗は、顔色一つ変えなかった。
「そうね、確かに、可哀想な話……」
肩を竦めるような気配と共に、その唇から流れ出る声と口調が変わった。
三朗自身の声から、先ほど、
「でも、私は間違ったことは言っていないわ……。そのお姉さんが何もわかっていないから、教えてあげたまでよ」
「わかっていないのは、あなたの方だ。そもそも、あなた方神狩一族は、真神というものに対して、根本的に勘違いをしている」
「勘違い……?」
「あなた方は真神を、他者がひれ伏して従えば満足し、供物を捧げられれば悦び、若く美しい娘を差し出しさえすれば飛びついて子を為す――人の権力者のごときものと見なしていないか? だとすれば、その認識は誤りだ」
「――そう言われれば、そうかもしれん」
離れたところで座り込み、どこからともなく取り出した針と糸で、一也に斬られた腹の傷を縫っていた
「公の記録に残る真神討伐例は、
だが……、と呆れたように肩を竦める。
「その人の『権力者』の一人である鬼堂殿の――まして、己れの命を握っている主人の前で、よくそのような言葉を吐けるものだな。いやはや、気に入った」
「何を呑気なことを言っているのよ」
『使』の上で、市女笠の少女が吐き捨てるように言った。
「
「それがね、
三朗の唇だけが動いて、嘆息を洩らした。
「『念縛』って言ったかしら、さっき、飛び込んで来られた時にかけられちゃって……」
「何ですって⁉」
確かに、三朗の全身は神剣を振り上げた姿勢のまま、止まっている。両手両足には薄く青筋が浮き上がり、力が込められている様子は伺えるが、果たせずにいる。目に見えない壁か、分厚い氷の中にでも閉じ込められたように。
「空間そのものを固定してしまうなんて、中々の拘束術ね……。でも、今のお兄さんじゃ、そう長くは保たない筈……。その間ぐらい、ちょっとお喋りしていてもいいでしょ」
三朗の瞳孔だけが動いて、一也を見た。
その視線の先に、青い光が凝る。それが、自身を閉じ込めている見えない壁にぶつかり、小さな火花を散らせ始めた。
「それでは斗和田のお兄さん、改めて聞くけど、真神とは何?」
「真神は、世界という秩序の
「――あのね、古文書の講義じゃないのよ。もっとわかりやすく」
「この世界は、始原の混沌より生じた『力』が回ることによって、成り立っている」
それは、天地の間を回り、秩序を維持する『力』。
陽と月と星を回し、潮の満ち引きを司り、季節を移ろわせ、地に蒔いた種から草花を芽吹かせ、卵を蛹に、蛹を蝶に変え、死して伏した屍を地に還す『力』である。
「真神は、その『力』の環の無数のつなぎ目であり、それを護る存在。言うなれば、『管理者』だ。支配者ではない」
「森を切り開こうとした人々を襲ったり、川に築いた堰を打ち壊したりすることが、『管理』なの?」
「切り倒された木の切り株から新たな芽が生え、再び大樹となるまでには途方もない歳月がかかる。人が木々を、その再生速度を超える勢いで伐り続ければ、いずれ森は荒れ、消滅する」
そうなれば、木の葉が日の光を受けて回す大気の『力』も、地中に深く張った根が調整する大地の『力』の流れも乱れる。
乱れが歪みにまで進めば、大気は穢れ、大地は崩れる。
川も同じだ。一つの堰の所為で川全体の流れが乱れ、別の場所で水が溢れることがある。
「人は目の前の自分の利益しか見ないが、真神はその土地の森羅万象を俯瞰しているから、それがわかる。だから、乱れや歪みを察知すると、調整の為に動く」
「なら、真神が駆逐された土地は崩壊していなければおかしいのではない……? けれど、
「その代わり、妖種の出現が激増している」
三朗は嗤ったが、一也は小動もしなかった。
「妖種は、秩序の環から零れ落ちた『力』が、闇黒に練り固められて生じるもの。つまりは、歪みの具象だ。だから、秩序の具象である真神が坐す土地に妖種が現れることは、殆どない。斗和田を出て驚いたことの一つがそれだ。真神に匹敵するほど巨大な妖種など、故郷で見たことはなかったからな」
「なら、妖種を狩る霊能の術者は、真神に代わって秩序を正している、と言えるのかしら……?」
「
根本の原因は、改まってはいないのだから。
「おそらく、始原の時より真神たちが億の歳月をかけて維持してきた循環の理は、その真神を失って五百年程度で潰えるほど脆くはないのだろう。だが、だからと言って、人がこのまま、人の繁栄だけを追い求めて、そこかしこで秩序の環を断ち続けるなら、この世界という匣はいずれ必ず歪みを吸収しきれなくなり、崩壊する」
ばちばちと爆ぜる青い光が大きくなる。
二人の間の空間に、小さく軋み音が響き始める。
「――面白い話」
三朗の中の誰かが、ひっそりと言った。
「では、真神が真那世を生み出すのも、その管理とやらの一環なのかしら」
「それは、何とも言えない」
一也はゆるりと首を振った。
「だが、もし真神が真那世を自らの『代役』として生み出すなら、この世はもっと真那世だらけになっていてもおかしくはない筈だ。だが、歴史書に残る事績を見る限り、あなた方が狩ったとされる真神の数に比べて、明らかに真那世の一族の数は少ない」
「だから?」
「つまり、人がただ社を築き、供物を捧げ、巫女を差し出しただけでは、真那世は誕生しない、ということだ。そもそも、
一也の目の色が深くなった。
「真神には、確かな知性と精神性がある。だが、真神のそれは、人のそれとは全く違う。だから、彼らを人間の尺度で量ることは出来ないし、人間の都合で動かすことなどはもっと出来ない」
だが。
「それでも、
「まさか、人と人が夫婦になるような陳腐な感情が無ければならない、とでも?」
「より深く、大きく、広いものが。逆に言えば、それさえあれば、社や供物や崇拝の念を表現する為の儀式などが無くても、真那世は生まれて来たのではないかな」
一也が初めて父神に邂逅したのは、六歳の時だった。
『殻』が破れた日の夜に、誰かに呼ばれている気がして、一人で斗和田の湖の畔まで行った。そこへ巨大な竜が現れ、一也に一振りの剣を授けてくれた。
それが、今、身の内にある雷光の神剣である。
言葉を交わした訳ではない。そもそも、斗和田の竜神が、朝来村の人々はもとより、神和一族に対してさえ、言葉で語りかけたことは無い。
だが、その時、一也は神剣を受け取ると同時に、父神がこの世界に生じてから越えてきた久遠の歳月の一端に触れ、その記憶を垣間見た。
いや、伝えられた。
だから、その時、確信したのだ。
自分という真那世は、他の生き物たちと同じように、父と母に望まれ、その命を継ぐものとして生まれてきたのだ、と。
誕生の基にあるのは、真神と人間の間で成立した『想い』であり、どちらかがどちらかを利用しようとした『意図』ではないのだ、と。
「きっと、何処の真那世であっても、一代の誕生はそういうものだった筈だ。まあ、二代目以降には、神力目当ての誰かの意図が介在したかもしれないが」
「……」
「そして、神和一族と朝来村の人たちは、そんな私たちを、
霊力を得、霊能の技を編み出した人の多くは、その力を以て真神の土地を侵し、真那世の国を駆逐し、人の――人だけの世界を拡げてきた。
だが、神和一族は違った。
霊力を有し、霊能の技を編み出しながら、それでも、真神と敵対するのではなく、和す道を選んだ。森の木を伐り過ぎることも川の流れを変えることもなく、生きる為に必要なだけの生産活動を行い、過度に得ることはないが過度に失うこともない、そんな社会を構築してきた。
「真神という目に見える秩序の枠組みを受け入れて、森羅万象と共に生きる――それが、神和一族が斗和田の畔で代々伝えてきた意思だ。一族に伝わる霊能の技が、他者と戦い、斃す為のものではなく、自分や他者を守護する為の結界術や、傷や病を癒し、呪いを祓う為のものが多かったのも、その顕れだった」
「――だから、敗けたのよ……」
しばしの沈黙の後、三朗の中の誰かが、ひっそりと言った。
「そんな時代遅れの価値観しか持たない、ちっぽけな箱庭の中の安寧に満足していた一族が、歴史の勝者になれる筈がない……。所詮、この世は強いものが勝つの。斗和田で生き残ったのが、結局はあなたたちだけだったというのも、その証左じゃない」
「だとしても、神和の人々が信じ、歩んだ道は、無意味だった訳でも、愚かだった訳でもない」
話している間に、腕の中の抵抗は少しずつ弱まっていった。闇雲に自分に剣を突き立てようとしていた少女の手から、力が抜けていく。
その隙を捉えて、一也は片手で神剣を掴み止めたまま、もう片方の掌を二緒子の背に滑らせた。
「だから――二緒子、あの時までお前が戦う術を知らずに居たのは、罪などではない。それは、証だ。母や祖父や叔父が我々の力ではなく、我々の存在を尊重してくれていたことの。そして、あの時までの斗和田が、それを許容できるだけの平和で幸福な場所だったということの」
それは確かに、箱庭の中の小さな平和、小さな幸福に過ぎなかった。
真神との対立を選ばなかった一族は、それを選んだ一族が、それ故に獲得した強大な力に敗北し、呑み込まれた。
「それでも、私は誇りに思っている。真那世の子も人の子も、等しく子供でいることが許された――神和一族が創り上げ、確かに実現させていた平和と幸福を、今でも」
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