37 悪意は罪を問い、善意は責を説く
「この世は地獄……」
神剣を振り上げた姿勢のまま、三朗の口だけが動いた。
「だから、生きるってことは、本来、楽しいことでも幸せなことでもなくて、辛くて苦しくて痛いものなんだ。だから、努力しなくちゃいけなかった。失くさない為に。奪われない為に。なのに、姉上は、戦いは怖いとか嫌いだとか甘えたことを言って、何の努力もしなかった。だから、全部失くした。ね? やっぱり、姉上の所為だ」
「やめて……」
細い悲鳴と共に、
そのまま、膝から崩れ落ちて、その場にうずくまった。
「やめて、お願い……」
「ほら、やっぱり姉上だって、見たくないし、聞きたくないんだ」
三朗の声が微かに笑った。
「でも、目を瞑ったって耳を塞いだって、今更、過去が変わる訳じゃない。自分の手を見てごらんよ」
言われて、機械的に頭を抱えていた両手を外し、震える視線を俯けた。
確かに、自分の両手は真っ赤に濡れている。それは、実際は自分自身の吐血の跡だったが、今の二緒子にはもう、あの時の瑠璃と玻璃の血にしか見えなかった。
「ほらね……。姉上の手だって、血まみれだ」
胸郭がざくりと斬り割られる。その裂け目から、生血があふれ出してくる。身体の中が、鉄錆の匂いでいっぱいになっていく。
ああ、そうだ。
あの時、自分が少しでも神力を使いこなせるようになっていたら。
『殻』が破れた時から、兄のように、戦う為の使い方を学んでいたら。
(助けることができたかもしれない)
祖父を一人で、黒衆や八手一族の矢面に立たせずに済んだかもしれない。
三朗の
――『やらなかった』なら、怠惰。
――『できなかった』なら、無能。
そう言ったのは、誰だっただろう。
怠惰も無能も赦されることではない。お前たち真那世は我ら人間の役に立てばこそ、生かされているのだから、と。
瞳孔の奥で焦点が揺れ始め、頭の中がぐるぐると回り始めた。
同時に、周囲を埋めるような闇が背中にのしかかってきて、全身を圧迫し始めた。
「ごめんなさい……」
その圧迫感に促されるように、声が零れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「今更謝っても、どうにもならないよ」
どこかで誰かが笑った。
「起こってしまったことは変えられない。無かったことにはできない」
見えない掌に頭を掴まれて、持ち上げられた気がした。
「だったら、罪人にできるのは償うことだけだ。そうでしょう?」
動かされた視線が、三朗の視線とかち合う。
その奥で、仄かに青色を帯びた光が、ぼうっと揺れた。
それを視界に映した時、二緒子の頭の中で、血の色をした靄が渦を巻いた。
それに促されるまま、ふらふらと右手を持ち上げる。
その掌に、白金色の光が纏いつく。
顕現した剣の先端が、機械的に自身の喉元へと向けられた。
***
「――二緒子‼」
息をつく暇もない刃鳴りの中、不穏な気配を捉えて、
「駄目だ。その声を聴くな‼」
「よそ見をしている暇があるのか?」
「息が上がってきているぞ。集中せねば、受け損なう」
確かに、これまでの攻防で、既に一也の肩は大きく上下し始めていた。
一方の
「まあ、無理もない。『質』の身で、ここまで動けることこそが驚きだからな。不調を練度で埋める技量、その意志――見事だ」
男の両腕と両脚が、ぼうっと淡く光った。
「なればこそ、下種の軛に繋がれ、望みもしない戦場に駆り出され、挙げ句、その下種と死出の旅まで共にせねばならんとは、憐れ極まりなし。せめて全力を持って打ち斃してやることこそ、慈悲と心得るが良い」
「それは、余計なお世話というものだ」
だが、一也の顔には焦慮と疲労の色はあっても、敗北や諦念の色はなかった。
「私は、命じられたからでも強いられたからでもなく、己れの意志でここに立っている。憐れまれる道理はない」
「一寸の虫にも五分の魂と? しかし、蟷螂が斧を振りかざしたところで、憐れを通り越して滑稽なだけだぞ」
「あなた方の慈悲など、ただの利己の押し付けだ。その故なき傲慢こそ、滑稽というもの」
「全く面憎い。鬼堂の御大は、よくもこんな真那世を縛ろうとしたものだな」
感心したような溜息を共に、両の手足に通される霊力の量が増す。
斬撃の勢いが更に速くなり、たちまちのうちに、一也は防戦一方に追い込まれた。
「っ!」
頸部を狙った切っ先を、その直前で捌いた剣が、僅かとはいえ空を滑った。
間髪を入れず、随身の太刀が鞭のようにしなり、一也の剣を巻き込んで弾き飛ばした。
「――終わりだ」
随身が一度大きく肩を引き、刺突の構えを取った。
「敗者を嬲る趣味はない。その不屈の精神に敬意を表し、一撃で終わりにしてやる」
大気を裂いた先端。
だが、一也はぎりぎりで身体の軸線をずらし、心臓への直撃を避けた。
太刀が左肩を突き抜き、鮮血が空に跳ねる。
同時に右手を跳ね上げて、自らを貫いた刀身を掴んだ。掌の皮膚が切れるのも構わず、そのまま一呼吸でへし折る。
「⁉」
随身が目を見開く。
その眼前で、一也は自らを貫いた刃先を引き抜くや否や、掌中で一転させた。瞬き一つ分もないほどの刹那を捉えた軌跡が、斜めに空を切り上げる。
流石に形相を変えた男が、間半髪というところでのけぞった。それでもぎりぎりで間に合わず、褐衣が裂け、胸部に真一文字の裂傷が奔った。
「――柾木⁉︎」
爆ぜた血煙に、市女笠の少女の驚愕の声が重なる。
全身の力を引き絞るようにして、一也が更に踏み込む。翻った刀身の刃先が、体勢を崩した男の頸部を真っ直ぐに狙った。
だが、随身の後退の方が、一歩早かった。
鋼の尖端がぎりぎりで空を斬る。
そこへ、少女が白鹿の『使』と共に飛び込んできた。退がった随身を庇う位置に立ち塞がった『使』が、一也目掛けて氷雪の礫を撃ち放つ。
「水守殿!」
咄嗟に防御しようとした時、少女と『使』を追ってきた伊織が、その前に立ち塞がった。
一瞬で織り上げられ、巡らされた『網』が、『使』の攻撃を真っ向から堰き止める。
「伊織様?」
「全く、無茶ばかりするのですから!」
驚いたように視線を上げた一也に、伊織が怒ったように叫び返す。
「それはおじさんの方よ!」
間髪入れず、『使』の第二撃が来た。波状攻撃をまともに受ける形になった『網』が撓み、悲鳴のような軋み音を上げた。
「あなたの戦法は、受け流すのが基本でしょ! 組み合ったら終わりよ!」
勝ち誇った声が轟いた。
確かに、その通りだった。
真っ向からの力勝負になってしまうと、どうしても一点に集約できる力が弱い方が負ける。
「水守殿は二緒子殿のところへ」
それでも、伊織は退こうとはしなかった。
「あれはまずい。行って下さい。ここは引き受けますから」
軋み始めた空間の音に、覚悟を決めたような静かな声が重なる。
「盾になるって?」
白鹿の上で、市女笠の少女が両腕を組んだ。
「同情? それとも、罪滅ぼしかしら?」
「――今更何をしたところで、私たちの罪が
伊織が幽かに笑った。
「だから、私はただ、生きてある限り、自分の責任を果たすだけです」
「責任? 鬼堂家の戎士の?」
首を傾げた少女に、伊織の、情理を弁えた穏やかな顔に、ふわりと春風が舞った。
「人であろうと真那世であろうと、大人は子供を護るもの――という責任ですよ」
右手の小指だけを軽く折り曲げる。
すると、そこから伸びた『繰糸』が、まるで包帯のように一也の左肩にぐるぐると巻き付き、即席の止血を施した。
「伊織様――」
「行って下さい。大丈夫。そう簡単に崩されはしませんから」
つかの間、振り返らない背を見つめて、一也は全身を引きずり上げるようにして、立ち上がった。
「ありがとうございます」
率直に言い置いて、身を翻す。
「――本当に、今朝、糸百合に居た連中とは全然違うのね」
少女の顔と声から、表情が消えた。
「あなたさえ居なければ、もっと早く片付いていたのに。あの連中だけを見て、あなたみたいなのが居る可能性を考えなかったのは、落ち度だったわね」
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