36 斗和田・赤い驟雨ー2

「ぼーっとすんな!」


 従兄の手が、強く背を叩いた。


「逃げるんだよ! 早く! 狙われてるのはお前たちなんだぞ!」


 その手が三朗の手を掴み、引きずるようにして走り出す。


従姉あね上! 瑠璃るり玻璃はりも、急げ!」


 透哉に叱咤されて、姉が従妹たちの手を掴み、引っ張った。突然の事態に呆然となりながらも、子供たちが村へ向かって走り出そうとする。


 後ろで、ばきんっ、と何かが砕ける音が響いた。


 思わず振り返った三朗の視界に、祖父が張った『壁』が、黒衣の男たちの『楔』の力に競り負けて、砕け散る様が映った。


「じい様!」


 叫んだ三朗の眼前で、『楔』を肩や腿に受けながらも飛び下がった祖父が、再び右手にへいを閃かせた。

 口の中で短くのりと詞を唱えて、黒衣の男たちの眼前に叩きつける。


 幣は、祖父の手を離れた瞬間、鈍色の液体に変じた。

 それを浴びた先頭の男二人が、ぎゃっという悲鳴と共に馬上から転げ落ちる。両手で覆われたその顔は、真っ赤に焼け爛れていた。


「この老いぼれ‼」


 手前勝手な怒鳴り声と共に、残る三人の男が太刀を抜く。

 そのまま、投擲の構えで、肩に担ぎ上げた。


 祖父は素手だ。『念縛』は、檜皮色の上下を着た男たちを止めているから、使えない。


 それでも、祖父は逃れようとはしなかった。

 躱せば、投擲の軌跡が背後の子供たちを捉えてしまう。だから、ただ右手を広げて、その前に立ち塞がった。


「じい様!」

「莫迦! お前は逃げろ!」


 そう叫び様、従兄が身を翻し、祖父の方へ駆け出した。


 視界を埋める黒い影。

 閃く刃。


「透哉、来るでない!」


 ハッと気付いた祖父が叫んだが、透哉は止まらない。


「――『念縛』!」


 走りながら、左手を胸前に立てる。拙いながらもな神和かんなぎ一族の霊力ちからが閃いて、飛来した三本の刃のうち、一本を空中で止めた。


 だが、残る二本を止めることはできなかった。


 見開いた三朗の視界に、祖父の身体を銀の刃が突き抜ける様が映った。


「おじい様‼︎」


 姉や従兄妹たちが悲鳴を上げる。


「――やめろ!」


 喉が裂けるほど叫んだ時、目の前が真白に染まった。


 脳天を突き上げたのは、家族を傷つけるものたちへの怒りだった。

 それが恐怖を駆逐した刹那、三朗は、自分の中で突如として巨大なものが渦を巻き、弾け飛ぶ様を自覚した。


 首に掛かっていた朱色の勾玉の環がびりっと震え、浮き上がる。

 勾玉を貫き留めていた糸が、突然の負荷に耐えかねたように千切れ飛んだ。


「――え⁉」


 二緒子の驚愕の声が聞こえた。


 その瞬間、三朗は爆発していた。

 正確には、三朗の神珠が。地中をうねる溶岩が火口を砕いて地表に躍り出るように、巨大な一代の神力が『殻』を吹き飛ばし様に全身からあふれ出して、中天へと噴き上がった。


 だが、それは制御された『力』ではなかった。無秩序な暴走でしかなかった。


 轟、と大気が鳴る。

 渦を巻いて、真空の刃が地を抉る。


「瑠璃ちゃん、玻璃ちゃん‼」


 その中に、姉の凄絶な悲鳴が跳ねた。


 双子の少女たちは、二緒子の手を振り切って走り出していた。兄に少し遅れて――逃げるのではなく、傷つけられた祖父のもとへと。

 その手を掴もうとした二緒子の手が空を切った時、無秩序に錯綜する一代の神力が、その場を席巻した。


 跳ね飛ばされた二緒子が、悲鳴と共に地に叩きつけられる。

 愕然と双眸を見開いた祖父が、咄嗟に手の届くところにいた透哉を掴み、腕の中に庇い込む。


 だが、瑠璃と玻璃には、誰の手も届かなかった。


 見開いた視界を、赤い驟雨が叩いた。

 緑の野原が、一瞬で赤色に染まる。その中に。小さな手が、足が、切断された胴が、そして二つの頭が、ばらばらと地に落ち、転がった。


 真白に染まっていた視界が、真紅に塗り替えられた。


 誰かが悲鳴を上げた。

 たましいが割れ砕けたような声だった。


「なん……っ、なんでだよ!」


 何が起こったのか、わからなかった。

 それを三朗に理解させたのは、祖父に護られて難を逃れた従兄の絶叫だった。


「何で何で何で何でどうして‼」

「透哉! 落ち着くんじゃ、透哉……!」


 両手で髪を掴み、喉から血を噴いて、透哉が叫んでいる。二本の太刀に身体を貫かれ、更に三朗の風の刃に背を裂かれた祖父が、それでも必死に手を伸ばす。


「――護るって言ったのに……」


 だが、透哉は焦点を狂わせた眸で三朗を凝視し、そして叫んだのだった。


「化け物‼」


 ***


「‼」


 凄絶な悲鳴と共に、三朗は両手で頭を抱えた。

 そのまま、両膝を折り、腰を折って、小さくうずくまった。


(瑠璃、玻璃)


 周囲には、果てのない闇が広がっている。

 頭の上にも、前にも後ろにも、右にも左にも。天も地もわからない漆黒の空間だけが、見渡す限りに続いている。


 空の青も、陽の光も、木々の緑も、花の彩も無い。

 誰の姿も見えず、誰の声も聞こえない。


 その中に、赤い雨だけが降り始めた。

 鉄錆の匂いが立ち込め、粘った雫が、音もなく全身を打ち始める。


「透、哉」


 赤く濡れていく指先が、頭の皮膚に食い込んだ。


 血に染まった春の野原。

 ばらばらになった従妹たち。

 泣くこともできない顔で叫んだ従兄。


 その光景が、繰り返し脳髄を揺さぶって、たましいに爪を立てる。


 口が意味をなさない叫び声を上げた。

 まだ細い首を振り続け、喉が裂け、肺が破れ、心臓が爆ぜても、三朗は、叫び続けた。


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