第六章 価値の所在
35 斗和田・赤い驟雨ー1
左右の岸には、広い野原が広がっている。そこは、緑の若草が絨毯のように地を覆い、春の訪れを告げる淡い色合いの花々でいっぱいだった。
「お兄様、早く早く! 三朗
「お花がいっぱいだよ! 二緒子
真っ先にその野原に走り込み、振り返ってはしゃいだ声を上げたのは、同じ顔立ちをした二人の少女だった。
一人は桃色の、一人は紅色の小袖を着て、お揃いの黄色の帯を締めている。童女髷に結った髪には、やっぱりお揃いの、白い花簪が揺れていた。
「
その少女たちの後を、小花模様の小袖に藤色の帯を締めた姉が追っていく。そのまま一緒になって、一際たくさんの花が群れている辺りにしゃがみ込み、花摘みを始める。
「
水色の水干の裾を翻しながら、三朗は、隣を駆ける少年に声を掛けた。
「ハッ。去年、ハシリドコロばかり集めてきた奴には負けないからな」
萌黄色の水干を纏った同い年の従兄は、そう言って白い歯を見せる。
「今年は大丈夫! しっかり勉強して来た!」
「勉強って?」
「兄上に絵を描いてもらったんだ。それを見て、覚えてきたから」
「それはむしろ絶望的……」
「何で?」
「忘れたのかよ。前に
「ええ? そうだっけ?」
「従兄上って、大体何でも器用にこなすのに、絵心だけはてんで無いもんな。てことで、俺の勝ちで決まり!」
「勝負なんてものはやってみなきゃわからないって、その兄上が言ってたよ!」
肩をぶつけ合うようにして野原を駆け、軽口を叩き合えば、笑顔が弾けた。
そうして、ただひたすらに他愛のない時間を過ごし、気が付けば、野原に到着した時は頭上にあった太陽は、西の山際に向かって半分ほど傾いていた。
「――おーい」
のんびりと呼びかける声に、三朗は菜摘みの手を止めて、顔を上げた。
振り返れば、村の方から、白髪の老人が小道をやってくるところだった。
「おじい様、見て見て!」
両手を色とりどりの花でいっぱいにした二人の少女が、真っ先に老人の傍へ駆けていく。
「おお、綺麗な花冠じゃな。自分で作ったのか? 瑠璃、玻璃」
「ちょっと、二緒子従姉様に手伝ってもらったけど」
「上手にできたでしょう?」
春を思い切り詰め込んだ、少しばかり歪な花冠を自慢げに差し出した少女たちに、老人が相好を崩す。
それから、周囲に集まってきた子供たちを見やって、ふと首を傾げた。
「おや、一也はどうした? 一緒ではなかったのか?」
「兄様なら、途中で分かれました」
祖父の視線を受けて、
「村の西境の結界石が欠けている気配がしたから、そう言ったら、直してくるって」
「そうか。気づいてくれてありがとうよ、二緒子。先ほど、山の方でも妙な気配がすると報告が来たから、
祖父の双眸に、翳りが滲んだ。
「このところ、央城の帝は、闘犬やら闘牛やらにうつつを抜かすばかりで、その権威は衰え、貴族たちのいざこざは絶えず、各地でも国司たちや豪族たちが土地を巡る小競り合いを繰り返していると聞く。その所為かのう。あちらでもこちらでも結界石が欠けたり割れたりして、やけに妖種が出没しよる」
「嫌だなあ」
「怖いよね」
瑠璃と玻璃が顔を見合わせ、手を取り合った。
「――大丈夫だよ、瑠璃、玻璃」
首に掛かっている朱色の勾玉の
「どれだけ
「ほんと?」
「本当本当。約束する」
「何言ってんだよ」
目を輝かせた従妹たちに何度も大きく頷いて見せると、透哉が呆れ顔になった。
「まだ『殻』も破れてないくせに」
「そ、そりゃ今はまだだけど」
ぎゅ、と勾玉の首環を握りしめた。
「兄上が『殻』を破ったのは六歳の時で、姉上は先月だったんだから。俺だってそろそろの筈だもの。そしたら、俺も兄上みたいに強くなって、みんなを護るんだ」
「だから、それは『殻』が破れてから言えって」
固めた拳を天に突き上げる三朗に、瑠璃と玻璃が拍手をし、透哉は肩を竦め、二緒子も苦笑めいた表情を滲ませたが、祖父は穏やかに笑った。
「それは頼もしいのう」
「じい様はもう、一日中神社で昼寝していていいからね」
「はは、それは良いな」
笑って、祖父が三朗の頭を撫でた。
――笑顔で誓えば、未来はそうなるものだと信じていた。
だが。
***
二緒子が、不意にハッと目を見開き、爆ぜるように振り返った。
「どうしたの?」
問いかけて、三朗も気付いた。
人より遠くを見る
「――じい様」
呼びかけた声に振り返った祖父が、その光景を見る。
途端に、いつも明るい笑みを絶やさない陽気な相貌が、別人のように厳しく引き締まった。
近付いてくるのは、鈍色の甲冑を纏い、馬に乗った武者姿の者が五名と、その背後に徒歩で従う、
馬に乗っている者たちは腰に太刀を佩き、弓を手にし、矢筒を背負っている。
徒歩の者たちは、角髪と呼ばれる髪型をしていて、腰帯に真っすぐな剣を下げている。
「あの人たち――真那世?」
二緒子が息を引く音が聞こえた。
確かに、徒歩の男たちには、これまで兄弟たち以外からは感じたことのない
この世に、他にも真那世という存在があるなら、逢ってみたいと思ったことはあった。
だが今、三朗が感じたのは喜びではなく、不安だった。彼らが腰に佩いている剣が、馬に乗った者たちから立ち昇る物々しい空気が、その不安に拍車をかけている。
「物見櫓の者たちはどうしたのか」
呻くような祖父の呟きが聞こえた。
その街道に面した村の入り口には木戸と櫓を備えた関があり、常に
だが、その鐘は一切聞こえなかった。
にもかかわらず、武装した集団が村の中に現れた。
それは、何を意味するのだろうか。
瑠璃と玻璃が、怯えた表情で二緒子にしがみつく。
息を詰めながらも、一塊になった三人の少女たちを護るように、三朗は透哉と共に、その前に立った。
「この村に何かご用か」
孫たちを背に庇って、祖父がその集団に対峙する。素手でも、太刀や剣といった暴力の象徴を帯びた男たちに、怯むことなく向き合った。
だが、馬に乗った黒衣の男たちは、見下すように祖父を睥睨しただけだった。
その視線がふと巡り、三朗に固定されてきた。
「そこの童――真那世だな?」
「そっちの
別の男が手を挙げ、瑠璃と玻璃を両腕に抱きしめている二緒子を指す。
「捕えよ」
また別の男が、短くそれだけを命じた。
立ち竦んだ視界に、黒衣の男たちの後ろから出て来た、檜皮色の衣の男たちの姿が映る。
「――悪く思うなよ、坊主」
先頭に居た四十そこそこの男が、どこか苦い口調で言った。
「怨むなら、お前みたいなものを産み出した父神と母親を怨んでくれ」
「――え?」
訳がわからず問い返した時、彼らが突き出した手の指先に神力の光が閃いて、細い糸のようなものが飛び出してきた。
「やめんか!」
それが、三朗の身体に巻き付く寸前だった。
祖父が片腕を振った。朱色の燐光が走り、それが、三朗を捕らえようとしていた全ての糸を中途で断ち切った。
「むっ?」
男たちの目つきが険しくなる。
同時に。
「『
祖父が左手を胸前に立てると同時に、檜皮色の上下の男たちの手足の動きが、ぴたりと止まった。驚きの表情を顔中に張り付け、身をよじって手足に力を込める様子を見せるが、氷の中に閉じ込められた虫のように、全く動かなくなる。
「他族の土地に土足で踏み込んできた挙げ句、いきなり童に縄を打とうとは、まともな思慮のある大人とも思えませぬな」
「じじい、朝来の神和一族とやらの術者か」
厳しい声を叩きつけた祖父に、黒衣の男の一人が探るように問いかけた。
「ということは、今更、一代の真那世などというモノを創った者どもだな」
「『創った』だと? 片腹痛いわ」
子供たちを背に庇ったまま、祖父が腹から息を吐いた。
「真那世は物に非ず。人が己れの意志で好き勝手に創り得るようなものではない。そのように言うこと事体、貴様たちが何も学ばず、考えず、ただ『力』だけを弄ぶろくでもない術者どもだということが知れるわ」
「何だと⁉」
「田舎覡の分際で我らを侮辱するとは、いい度胸だ‼」
黒衣の男たちが一斉に喚き声を上げ、片腕を上げる。
「二緒子、三朗、逃げよ。社へ――
祖父が、背中越しに言った。
左手で『念縛』を維持したまま、右手に幣を閃かせる。それを放つと、朱の燐光が展開して、目に見えない『壁』が出現するのが分かった。
「田舎臭い術よな!」
だが、黒衣の男たちは余裕の表情で嗤うと、全員が一斉に片腕を上げ、掌底を突き出した。
虚空に光の箭が現れる。
その尖端が、真っすぐに祖父を狙った。
「じい様……!」
「行くんじゃ。早く!」
叱咤の声に、異なる色合いの二つの『力』が激突する音が重なった。
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