34 乱戦、三つ巴-2

「――これじゃな」


 嶽川たけかわ朧月ろうげつが声を上げた。

 しかしすぐ、その顔が訝し気なものになる。


「何じゃ? これは、符でも霊具でもなく……」

「――いやああああ!」


 その途端だった。


「触らないで! 撫で回さないで! 気持ち悪い‼」


 大音量の悲鳴が、三朗の口から迸った。

 だが、それは三朗の声ではなく、少女――しかも、九条の姫そっくりの声音だった。


「――は?」


 朧月が呆気に取られたように動きを止める。


「やだやだやだ! 私たちって本当に何て可哀想なの⁉ ゆかり、何とかして! 気持ち悪いったら!」

「はいはい。今行ってもらうから」


 誰のものとも知れない悲鳴に応じたのは、市女笠いちめがさの少女だった。

 右手の指先で黒紙の人形の頭の部分を一撫でしてから、それを地に放る。


 人形が光を帯びた。

 それが瞬く間に膨れ上がり、大きく広がった。


「――え?」


 見開いた二緒子の視界の中、光が切り取られる。

 そこから現れたのは、一人の少女だった。

 白い瓜実型の顔。肩に垂れる黒髪。九条家の少女と違い、市女笠は被っておらず、黒一色のうちぎを纏っている。

 その全身が、みるみる生気を帯びていく。

 ただの紙の人形であったものが肉の厚みを得、霊気すら纏い始める。


「あれは……」


 褐衣かちえ随身ずいしんと斬り結びながら、一也いちやが緊迫の視線を投げた。


「――どういうこと?」


 呆然と呟いたのは、二緒子だった。


「何をしたの? 今――人形に自分の霊珠れいじゅを移した? ううん――分けた、の?」


 二緒子の感覚を以てすれば、人形が纏い始めた霊気と白鹿の上の少女のそれがよく似ていることは明白だった。ほぼ同一と言っても良いくらいだった。

 だが、そんなことはあり得ない筈だ。

 命を保ったまま、心臓を二つに分けることなどできないように、霊珠もまた『割る』ことなど不可能だ。


 そもそも、非物質の存在である真神や妖種はともかく、人や獣や鳥や蟲といった、物質界の生物において、肉体と精神は不可分である。

 それが分離するのは、その個体が死を迎えた時だけだ。

 死が心臓を止めると、物質で構築されている肉体は腐り、たましいが砕ければ、非物質の精神は消滅するからだ。


 ただ、物質界の生物の中で唯一、自らのたましいより生じる『想い』の『力』――霊力を獲得した人の珠の中には、生前の強い想いを凝らせて、非物質となって尚、存在を保つものが居ないでもなかった。

 その代表が死霊や怨霊と呼ばれる存在で、これは、生前に抱いていた怒りや憎しみの感情に凝り固まった霊珠が、消滅することなく現実に留まり、生きている人々に祟りを為すものである。


 だが、そんな風に肉体から離れて尚存在を保っている霊珠があったとしても、術者にできるのは、調伏の名の下にそれを消滅させることだけの筈だ。

 それを別の個体に移し替え、『使』のように命令通りに操ることができる戦力として用いるなど、聞いたことがない。


「莫迦な、それは一体」

「何じゃ、それは。どういう術じゃ⁉︎」


 鬼道興国と嶽川朧月も同時に呻き、変貌していく人形を注視して、更に顔を引き攣らせた。


「さあ。何かしらね?」


 黒衆たちの驚愕と困惑を見やって、九条家の少女は冷ややかに嗤った。


「ま、私たちにしかできないことだと思ってくれていいわよ」


 黒衣の人形の両眼が、爆ぜるように開かれた。

 瓜実型の白い顔の中で、その紅唇が耳まで裂けそうなほど吊り上がった。


「うふふ。あはは。あはははは!」


 哄笑が跳ね上がる。

 同時に、人形が持ち上げた両手がぼうっと光り、巨大な霊力の塊が纏いついた。


「――人形が、霊力を操るだと?」


 鬼堂興国が呻いた。


「それがどうしたの? 可笑しい? 可笑しい? まあ、もともと詩子うたこたちはみんな可笑しいけどね! あはははは!」


 支離滅裂の一歩手前ではあるが、会話まで成立させている。

 ということは、中できちんと精神が活動しているのだ。

 それは明らかに、九条の姫本人とは別人格――別の霊珠が宿っている、と判断するしかない状態だった。


 硬直する人間と真那世たちの眼前で、黒衣の人形は人間のようにそっくり返って哄笑すると、走り出した。

 こちらも、真那世顔負けの敏捷な動きだ。

 その両手が大きく広がり、纏いついていた霊力の塊が、飴細工のように伸びる。

 それが形作ったのは、長い柄の先端に子供の頭部ほどの円錐を取り付けたもの――槌矛つちほこだった。

 

「さあ、お歌の時間よ! 誰が一番甘くて綺麗な断末魔を聞かせてくれる? 楽しみね! 楽しみね!」


 本当に嬉しくて楽しくて仕方がないといった歓声と共に、巨大な槌矛を振りかぶる。

 それが狙ったのは、鬼堂興国や二緒子たちを背後に庇い続けている伊織だった。

 咄嗟に彼が飛びのいた後の空間を、槌矛の円錐が抉る。庭に敷き詰められている白砂利が、派手に虚空に撒き散らされた。


「あははは! 『驟雪しゅうせつ』の雪礫みたい! ほら、ゆーきやこんこん、あられやこんこん!」


 その様子が気に入ったのか、黒衣の人形は、誰も居ない場所に二度、三度と円錐を叩きつけた。


「――何です……?」

「出来損ないか?」


 呆気にとられた伊織の声に、鬼堂興国の、引き攣りながらも嗤おうとする声が重なる。


「――詩子」


 市女笠の少女が、片手で額を押さえた。


「あなたの仕事は、奈子なこの援護」

「あ! そうだった! 誰を鳴かせたらいいんだっけ?」

「こっちの蜘蛛のおじさんは私と『驟雪』で相手をするから、そっちのひげのおじさんを潰して、その糸を解くの。わかった?」

「わかった! 詩子は賢いからね!」


 懇切丁寧な指示に、人形が嬉々とした様子で走り出す。


「――桧山ひやま殿!」


 伊織がその足元に向かって『繰糸』を放つが、全て白い牡鹿が放った雪礫に叩き落される。


「おじさんの相手はこっちよ」


 それに少女の『楔』が加われば、伊織の手は完全にそちらの防御に塞がれた。


「桧山、放すでないぞ! 死んでも!」


 嶽川朧月の叫びに、桧山辰蔵の顔が赤黒く引き攣った。


「冗談じゃない」


 反射的のように、低く吐き捨てるような呟きが洩れる。

 同時に、桧山辰蔵は三朗と二緒子を拘束している『繰糸』を自身の指から切り離し、飛び退がって黒衣の人形の槌矛を避けた。

 そのまま、身を翻して逃げ出す。


「あはは! お歌の時間の前に鬼ごっこ? 待てえ!」


 それを、黒衣の人形が喜々として追いかけ始める。

 と言っても、結界を張られている以上、その外には出られない。

 桧山辰蔵は、正殿の柱に取り付き、素早くよじ登って大屋根の上に逃げると、同じように柱に取り付いた人形に向かって屋根瓦を蹴り飛ばしながら、『繰糸』を放った。

 それを、黒衣の人形は、片手で柱に取り付いたまま、片手で槌矛を振り回し、難なく全て排除する。


 一方、桧山辰蔵の手が離れた瞬間、三朗は左右に大きく身をよじっていた。


「桧山、貴様っ!」


 朧月の怒鳴り声に、巻きついていた『繰糸』が引きちぎられる音が重なる。


「三朗、お願いだから……っ!」


 だが、懇願は届かなかった。

 凄まじい力の発露に、しがみついていた手が振りほどかれる。

 そのまま振り回されて、二緒子は悲鳴と共に、地面へと叩きつけられた。


「――乙女のたましいを撫でまわすなんて可哀想だと思わないの⁉ この変態‼」


 途端に、凄まじい罵声が轟いた。

 三朗が自由になった手で、自身の頭に手を突っ込んでいる老人の腕を掴む。

 次の瞬間、ばきっ、と凄まじい異音が響いて、濁音だらけの悲鳴が上がった。


 振り払われた勢いで地面に叩きつけられた二緒子の視界に、吹っ飛ばされる老人の姿が映る。

 その両の手首が、あり得ない方向に曲がっている。


「あはははは! 綺麗に折れたね! やるじゃない、奈子!」

「――ああもう、私たちってなんて可哀想なのかしら……」


 柱にぶら下がったままの人形の笑い声に、三朗が再び神剣を抜き放つ。

 その先には、凄まじい形相で仁王立ちになっている鬼堂興国がいる。


「駄目!」


 二緒子は、両手を突っ張り、跳ね起きようとした。


「⁉︎」


 その刹那、不意の悪寒を覚えた。

 身体の深部で重い衝撃が爆ぜ、小さくない波が胸部にせり上がる。

 突き上げられるような感覚に、思わず腰を折った。

 同時に、げぼっと大きく咳き込めば、口から血の塊が吐き出された。


 先ほど地面に叩きつけられた衝撃が、その前に食らっていた『鞭』の衝撃と重なって、身体の内側を瞬間的に痙攣させたようだった。

 手足に力が入らず、動くことができない。


「あらら、水の卵ちゃんはここまでかな? 頑張ったのにねえ。駄目だったねえ」


 近付けまいと必死に屋根の上から攻撃する桧山辰蔵をあしらいながら、黒衣の人形がころころと笑った。


「ほらあ、奈子、早くやっちゃって!」

「――やめ、て……」


 声を上げただけで胸郭が引き攣った。

 再び咳き込めば、白砂利の上に点々と赤いものが散る。

 それでも、死に物狂いで顔を上げ、両手を広げて、三朗の前に立ち塞がった。

 案の定、二緒子が前に立ちさえすれば、三朗はぴたりと神剣の動きを止めた。

 遠くで、市女笠の少女が舌打ちを零す。 

 その時、三朗の硝子玉の眸の奥で、小さな光が揺れたような気がした。

 そして。


「――姉上……」


 慣れ親しんだ声が、二緒子の聴覚を叩いた。


「‼ 三朗、私がわかるの⁉」


 それは、確かに三朗の声だった。

 疲労と苦痛にかすむ視界を凝らせば、ずっと硝子玉のようで瞬き一つしなかった三朗の瞼が一度閉じ、それからまたゆっくりと開いた。


「姉上……」

「三朗!」


 繰り返された呼びかけに、歓喜が弾けた。


「戻ってきてくれたのね。良かった、良かった……!」


 安堵の涙があふれて、頬を伝った時だった。


「どうして、そんな酷いことを言うの?」

「――え?」

「どうして、『良かった』なんて思えるの?」


 そんな言葉が、鼓膜に届いた。


「思い出してしまったら、俺はもう二度と、『血殺し』の事実から逃れられないのに。そんなことは地獄でしかないと、わかっている筈なのに」


 神剣を振り上げた姿勢のまま、三朗の眸が、真っすぐ二緒子を見据えてくる。


「それとも、俺がどんなに苦しもうと、姉上にはどうでも良いことだから?」

「三朗……?」

「俺がどんなに辛くても、苦しくても、傍に居さえすれば良いの? ああ、そうか、姉上は、独りじゃ何も出来ないから。だから、俺みたいな出来損ないの神力ちからでも、必要としているんだね」

「え……?」


 鼓膜を通して、何か黒いものが流れ込んでくるようだった。

 二緒子は呆然と瞳孔を見開いて、ぎくしゃくと首を振った。


「違う。私は、ただ、あなたを助けたくて」

「どうして、こんな地獄に戻すことが、助けることになるの? 助けたいなら、あの時、あの場で死なせてくれたら良かったのに。そうしてくれていたら、俺は救われたのに」

「三朗、でも、あれは、あなたの所為なんかじゃ……」

「俺の所為じゃない? じゃあ、誰の所為? ああ、そうか、姉上の所為だね?」


 身の裡が凍ったような気がした。


「え?」

「我々は、朝来あさぎ神和かんなぎ一族が、神の力を得る為に創り出した存在でしょう? 姉上が、ちゃんとそれを弁えてくれていたら。その責務を果たして、瑠璃るり玻璃はりを護ってくれていたら。俺が『血殺し』の枷を背負う必要なんか無かったんだものね」


 目の前で、三朗の口角だけが、僅かに歪んだ。


「なのに、姉上は、俺のことも、従妹たちのことも、助けてくれなかった。ほらね。全部姉上が悪いんだ」


 頭の中で、ぷつりと、音がした。

 張り詰めていた何かが、切れたような音だった。


(瑠璃ちゃん……、玻璃ちゃん……)


 凍った瞳孔の奥で、揃いの花簪が揺れた。

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