31 『傀儡』ー1
「駄目よ、三朗!」
弟に向かって走り出しながら、
「
自分に刃を向けない――向けられないという認識が働くなら、と期待しての叫びだったが、三朗は止まらなかった。
硝子玉の両眼を素早く動かして、
肩に担ぐように振りかぶった剣身に、再度、漆黒の燐光が纏いついた。
「ふん。『傀儡』の単純化された認知機能では、やはりそんな二次的な事象までは把握できんか」
朧月が吐き捨てた。
その手に、『鞭』が閃く。
「小娘、
(三朗を傷つける為じゃない……)
自分に刃を向けなかった弟に、刃を向ける――身の裡からこみ上げてくる本能的な震えを、二緒子は懸命に押さえつけた。
(取り戻す為だから)
掌中に神剣が閃く。
剣身に、白金色の光と泡を撒く水流がまといつく。
それを、前方を走る三朗の足元めがけて、低く、地を這うようにして撃ち放った。
水流が地をくねり、疾走する三朗の足元にまとわりつく。
足首からふくらはぎへと絡みつき、一気に下肢を締め上げて足を止めた。
「
朧月の指示に、三朗の右側からへっぴり腰の戸渡左門が、左側から桧山辰蔵が迫った。
戸渡の手から『鎖』が飛び、桧山は『繰糸』を放つ。
その二つが、三朗の両腕と胴体に巻き付いた。そのまま、二人が呼吸を合わせて引き、固定すれば、三朗はその場に両手を広げて磔にされたような状態となった。
「面倒をかけさせおって!」
怒鳴り声と共に、老人が『鞭』を振りかぶった。叩きつけられた先端が、少年の肩を強打する。それは、人は勿論、真那世ですら一発で昏倒するに違いない重い一撃だった。
だが、三朗は、意識を飛ばすことはおろか、表情を変えることすらなかった。首はがくんと前に折りながら、手だけが別の生き物のように持ち上がる。生物ならあり得ない、不自然で不気味な動き方だった。
「なに⁉」
朧月の眼前で、風が渦を巻く。
それに跳ね飛ばされて、小柄な老人の身体が宙を飛んだ。
「気絶させて拘束しようったって、そうはいかないわよ」
『使』の上で、
「同じ神狩の術者を相手にするってわかっているのに、その程度で仮初の意識が奪われるような、ちゃちな術を掛ける訳がないでしょ」
その言葉通り、三朗は両腕を大きく左右に振った。首を前に折ったまま、本来の関節の稼働域から考えるとあり得ない角度まで両腕を曲げ、一気に振り抜く。
「ひえ⁉」
「うぬ!」
『鎖』と『繰糸』、それぞれの端を掴んだままだった戸渡と桧山がその動きに引きずられて、高々と宙を舞った。
桧山辰蔵は途中で自らの指から『繰糸』を切り離して着地したが、戸渡左門の方はそのまま放り投げられて、庭の隅の植え込みへ頭から突っ込んだ。そのまま、動かなくなってしまう。
同時に、三朗の肩や腕から、ぐき、という軋み音が響いた。
「何て真似を……」
「やめて! やめさせて!」
伊織が医薬師の顔で呻き、二緒子は心底ぞっとして叫んだ。
今の音は、三朗の骨が折れたか、関節が外れたかの、どちらかだ。自分の意志ではないところが無理やり身体を動かしているから、自分自身が傷ついてもお構いなしなのだ。
「大丈夫よ。自意識が無いんだもの。骨が折れたって本人は痛みなんて感じていないから、いくらでも動けるわ」
「そういう問題じゃない!」
「そういう問題よ」
三朗が、下肢を二緒子に拘束されたまま、無理やり腰を捻る。
庭の一角に仁王立ちになったままの鬼堂興国に殺気に満ちた視線を固定し、神剣に纏わせた風の刃を撃ち放った。
「――お館様!」
そこへ、眉間から血を流しながら、朧月が飛び込んだ。『鞭』を振るって、三朗の風の刃を撃ち払う。
三朗は止まらない。
今度は、神剣を握った右腕を、顔色一つ変えずに、肘が本来曲がる方向とは逆に折り曲げたかと思うと、足を拘束している二緒子の水流に叩きつけた。
「駄目よ、三朗! そんなことをしたら……!」
二緒子の悲鳴に、水流を抉った風が、そのまま三朗自身の腿を切り裂く光景が重なった。
「ほらほらお姉さん、放してあげないと、弟君、自分で自分の足を斬ってしまうわよ」
「やめて!」
二緒子の双眸から涙があふれ出した。
「三朗はもう十分傷ついているの! これ以上、自分で自分を痛めるようなことをさせないで!」
「懇願することしかできない弱者ほど、惨めなものは無いわよ」
少女は首を振っただけだった。
「私たちも、昔はそれがわからなった。けど、弱い者が何を言おうと、強者はせせら笑うだけ。願いを叶える方法は一つ。自分で勝ち取る以外、無いの」
少女の嘆息に、再度、自らに向かって神剣を振り上げる三朗の動きが重なる。
二緒子は咄嗟に神剣を引き、水流をかき消した。
途端に、拘束を解かれた三朗が走り出す。
「小娘!」
怒号を上げた朧月が、『鞭』を振り上げる。
同時に、二緒子は地を蹴っていた。
(九条の姫は、
とすれば、三朗がわき目も振らず鬼堂興国を狙うのは、術に捕らわれているだけではなく、そこに彼自身の烈しい想いがあるからなのだろう。
当然だ――と、泣きたくなる。
故郷を滅ぼし、家族を奪い、兄と幼い弟の命の緒を握って、自分たちに隷属を強いて憚らぬ男。おまけに、祖父たちに汚名をなすりつけてあの蛮行を正当化し、それによって地位と利益を得たなど、どれほど憎んでも憎み足りない。
意識による理性の箍を外して、怒りのままに復讐の刃を振るえるならどれほど楽だろう、とは思う。
だが、それは、自分たちが真に望むものではないのだ。
両膝をバネに思い切り跳躍して、弟と朧月の間に飛び込んだ。
「ッ!」
同時に振り切られた『鞭』が、細い背を削ぎ切る。
体幹を貫いた重い衝撃は骨を軋ませ、内臓にまで届いた。
だが、二緒子は、よろめきはしたものの、崩れ落ちはしなかった。
死に物狂いで踏み止まり、神剣を振り上げて、頭上から朧月と鬼堂興国に向かって振り下ろされた漆黒の神剣を受け止めた。
その時、三朗の硝子玉の双眸の奥で、何かが蠢いた気がした。
三朗の手首が翻り、二緒子の神剣を弾き、切り返す。
目と鼻の先を薙いだ刃に心臓が縮こまり、反射的に目を瞑りかけた。
『――目を開けろ!』
瞬間、脳裏に声が響いた。
『敵を前に、視界を閉ざすな! そんな真似は、死をもたらすだけだ!』
それは、記憶の中から叱咤する一也の声だった。移住を強制された八手の里で、毎日毎夜、二緒子と三朗に剣の稽古をつけてくれた時の。
だが、二緒子は木剣を持つことすら、その時が初めてだった。
まして斗和田で、流血と破壊の地獄を目の当たりにした直後のことだ。
木剣とはいえ、刃が至近で風を切る音は怖かった。絶対に自分を殺したりはしないと分かっている相手でさえ、切っ先が迫ると恐ろしかった。心臓が凍り、肺が縮んで、呼吸が止まった。
その度に身を竦ませ、目を瞑ってしまっていた二緒子を、一也は繰り返し叱咤した。
もう既に、十二歳になれば、二緒子も三朗も、戎士として実戦に投入されることになる、と決まっていたからだ。それまで、三朗には二年、二緒子に至っては一年ほどしか猶予がなかった。
だから一也は、三郎はもとより、二緒子のことも、一切甘やかさなかった。気絶するまで本気で打ち据え、地を這わせて、意識を変えさせ、戦う術を体得させようとした。
二人がこれから先を生き延びていく為には、それ以外になかったからだ。
そして。
『敵を斃すことは、まだ考えなくていい。生き延びることだけを考えるんだ。もし孤立に追い込まれることがあったとしても、諦めずに』
その日の鍛錬が終わると縁側に倒れ込んで、しばらくは動くことも口を利くこともできなかった二緒子と三朗に水を飲ませ、打撲傷を冷やし、擦過傷には薬を塗って手厚く看護しながら、言ってくれた。
『お前たちが踏みとどまり続ける限り、どこに居ようと、必ず私が助けに行くから』
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