第五章 真垣の戦い

30 九条紫・再び

 瀟洒で優雅な白砂利の庭に、もうもうと土煙が立ち込める。

 池のほとりの、正殿の真正面。その一帯が、大きく円形に抉れている。


 戎士長屋を飛び出した二緒子におこ伊織いおり桧山ひやま辰蔵たつぞうと共にそこへ到達した時、その中で何かがゆらりと動いた。


 それは、白帷子かたびらに包まれた小柄な人影だった。

 後頭部で一つに束ねられた黒髪。無機質に凪いだ硝子玉の双眸。その右手に既に抜き放たれている漆黒の神剣が、薄暮の中に冷たく閃いた。


「こんばんは」


 そこへ、頭上からそんな声が降ってきた。


 跳ね上げた視線が、いつの間にか上空に現れていた影を捉える。

 翼を広げて滞空する純白の牡鹿。その背の上で、今朝、嫌というほどの煮え湯を飲まされた小柄な人影が、立ち上がった。


 一人ではなかった。

 後ろに、菱小紋ひしこもん褐衣かちえ折烏帽子おりえぼしをかぶり、背中に革製と思しき円形の盾を背負った三十歳そこそこの男が、何故か牡鹿の尾の方を向いて胡座をかいている。


「どうして、ここに」


 二緒子は愕然とした。


「あなたは、鶴羽つるうに居る筈じゃ……」

「ええ、つい一刻ほど前まで居たわ。国府の豪勢な湯殿でさっぱりして、国司が用意してくれたご馳走もたっぷり頂いてぐっすり眠ってきたから、気分爽快」


 九条家の少女は、未だ被っている市女笠いちめがさ虫垂むしたぎぬを片手でちょっと掻き分けるようにして、ころりと笑った。


「ああ、でも、国司とつるんでいた訳じゃないからね。休憩に使わせてもらっただけ。ついでに『傀儡』の術も掛けて来たから、そろそろ到着する鬼堂家の息子を相手に愚にもつかないお喋りをして、時間を稼いでくれているでしょうね」

「ということは、糸百合いとゆりから戎士じゅうしが尾行していることに気付いていたのですか」


 絶句する二緒子の横で、伊織が厳しい表情を浮かべた。


「ご自分の所在を掴ませた上で、逆に隙を突くおつもりだった、と?」

「この『驟雪しゅうせつ』はね」


 と、少女は、白い牡鹿の首筋を叩いた。


「雲よりも高く飛ぶことが出来るのよ。本気で姿を眩ますつもりなら、わざわざ雲の下を分かりやすく飛んであげたりしないわ」


 そんな言葉で伊織の洞察を肯定しておいてから、首を傾げる。


「そんなにびっくりするほど意外? 今朝、ちゃんと言ったじゃない。いずれ真垣まがきに行くから伝えておいて、って」

「い、いずれ、っていうのは、その日の内、って意味じゃないでしょう!」

「はっきりとは言えないけど時機が整ったら、って意味でしょ。だから、私は今、ここに居るのよ」


「おのれが、九条青明せいめいの孫とかいう猿娘か!」


 語尾に、大音量の喚き声が重なった。


神狩かがりの術者としての最低限の礼儀も弁えぬか。やはり、ろくに躾も受けていないとみえるな!」


 正殿せいでんの正面に、鬼堂興国おきくにが現れている。

 その横に、眦を怒らせた嶽川たけかわ朧月ろうげつと、既にへっぴり腰になっている戸渡とわたり左門さもんの姿も見えた。


「猿娘とは、ご挨拶ねえ」


 憤然と言うなり、少女が白い指先を捻り、ぱちん、と鳴らした。


「えっ」


 空気に前後左右から押された。そんな感覚に襲われて、二緒子はハッと周囲を見回した。

 見た目には何も変わっていない。

 目の前に広がる白砂利の庭も、池も、正殿も、その両端や背後に見える対屋も。

 だが。


「結界だと?」


 正殿の広縁の上に立った鬼堂興国が、表情を動かした。


 その言葉に、二緒子はぎゅっと目尻に力を入れた。

 普段は余計なものを見過ぎたり聴きすぎたりしないよう制限してある感覚を操作し、『霊視』の感度を上げる。

 途端に、ばちっ、と目の前で火花が散ったような気がした。


(な、何これ)


 『結界』は、空間を遮断して異形の侵入を防いだり、逆に、捕らえておきたいものを閉じ込めておいたりする為の、霊力で編まれた匣のことである。


 それは、今朝方の騒動の間中、『美波みなみ屋』の裏庭にも張られていたらしい。

 九条家の少女が『使つかい』の背に乗って飛び去った後、黒衆くろしゅうと戎士たちが往来に出て見れば、そこには黒山の人だかりができていた。『美波屋』の者たちは一塊になって歯の根が合わないほど震えており、その周囲を糸百合の町の人々が取り巻いていた。


 だが、彼らは一様に困惑したような表情だった。


『妖種が出たんだって?』

『まさか、こんな町中に?』


 そんな反応が大半だった。


 彼らの話を総合すると、『美波屋』の裏庭であれほどの大騒ぎが演じられていたにもかかわらず、その音や気配は、一切往来には伝わっていなかった。

 彼らが見たものは、妖種が出たと騒ぐ旅籠屋の者たちと、その後しばらくして、突然『美波屋』の背後から飛び立っていった巨大な白い影だけだった、と言う。


 こんなものが張られていたなら納得だ――と、二緒子は思った。


 神和かんなぎ一族で使われていたものを含め、これまで二緒子が『視た』ことのある術者の結界は、四角形や三角形といった、ごく単純な構造をしていることが多かった。


 だが今、目の前にあるのは、無数の正五角形と正六角形によって構成された球状の結界だった。

 その緻密な多面体の線上を少女の霊力が循環して、見たこともないほど強固な空間遮断力を発揮している。それが今、正殿と白砂利の庭全てを、すっぽりと包んでいる。


 これでは、城門や侍所に居る人間の武士たちはおろか、対屋に居る筈の鬼堂興国の妻女や留守居の黒衆の術者たちですら、ここで何が起ころうと気付かないに違いない。


「さあ、これで邪魔は入らないわ」

「どういうつもりだ、小娘!」

「どういうも何も。私たちは、あなたの真意を検分しに来たのよ」


 少女がにっこりと笑う。


「四十年前、九条青明と袂を分かった鬼堂式部しきぶは、国司の任期を終えても、央城に帰還しなかった。九条青明が神狩宗家の名を以て帰還を促したけど、宮仕えが窮屈になったとか、東方の水が合ったから居残ることにした、とか言って、この真垣に腰を据えちゃったでしょ」


 以来、鬼堂式部は、無官の地方貴族として生涯を過ごした。

 その間、表面上は九条青明を一族の宗家と認め、時候の挨拶状や折々の進物などを届けさせてはいたが、結局、本人は二度と央城の土を踏むことはなく、九条青明に逢うこともなかった。


「その一方で、私領を増やし、各地の国司や武士団を懐柔し、蜘蛛の一族を麾下に収めて、力を蓄えていた。後を継いだあなたも、斗和田の真神を発見しながら央城に報告せず、自分たちだけでこっそり狩ろうとし、それに失敗したら、あんな物騒極まりないお兄さんに『神縛かみしばり』を使うなんて危険を冒してまで、一代の真那世を抱え込んだ。それって何の為かしら?」


 少女の顔に薄らとした笑みが滲んだ。


「央城神狩のみんなも、心の中じゃ思っているのよ」


 鬼堂家が九条家の宗家継承を認め、御三家の一角として忠義を尽くすつもりなら、そんなことはしないだろう、と。


「わかっているならさっさと潰せば? と言ったのに、それには大義名分が要るとか何とか、ごちゃごちゃ煩くて。なのに、いざその大義名分が転がり込んできた三年前は、結局そっちの言い分に言いくるめられて矛を収めちゃうし。慎重も度を過ぎればただの臆病よね。じれったいったらありゃしない」

「三年前?」


 思わず顔を上げた二緒子に、市女笠の少女が首を巡らせた。


「ああ、知らなかった? 斗和田とわだの神和一族って、私たちも存在を知らなかったぐらい、の国の国府や朝廷なんかには一切関わってこなかったけど、近隣の豪族や住民から妖種退治や霊障の相談があった時は、率先して対処に動いてやっていたんでしょ?」


 だから、その神和一族が滅ぼされたと知った奥東方の豪族の当主たちが、朝廷に訴状を提出したのだ、という。

 当時の鬼堂家は、朝廷の官吏という訳ではなかった。人の社会の立場で言えば、都落ちした貴族の一人に過ぎなかった。

 それが他国に踏み入り、住民を殺傷し、村を潰すとは何事か、是非にも処罰を願う、と、それはもう激しい論調だったそうである。


「そんなことが……」


 思わず、二緒子は息を詰めていた。

 一族が被った理不尽の為に、人間たちの社会の中で誰かが抗議の声を上げてくれていたという事実は意外でもあり、素直に嬉しいと感じられることでもあった。


「九条家にとっては、願ってもない好機だったのに」


 九条家の少女が言った。


「堂々と鬼堂家を処罰できる大義名分が、向こうから転がり込んできたんだもの。なのに、朝廷から喚問を受けたそこの鬼堂興国は、葉武はたけ何とかって腹心を央城へ寄こして弁明させたの。斗和田攻めは、可の国の国府からの依頼だった、ってね」

「え?」

「可の国の国司は、鬼堂家の信奉者の一人だからねえ。言いくるめて、そういうことにしたんでしょ」


 曰く。

 斗和田の湖には昔から蛇竜が棲み、近隣の村々を荒し回る為、皆困っていた。

 しかも最近、その蛇竜を神と崇める邪宗の者たちが、真那世の子を誕生させた。

 奴らは異形の力を以て人を圧し、再びこの世を真那世のものにしようとしている。

 故に、早々の調伏を願うものである、と。


「嘘よ‼」


 一瞬にして、目の前が真っ白になった。


「そんなの嘘‼ お父様はみだりに人の村を荒したことなんてない‼ おじい様たちだって、そんなこと考えたりしない‼」

「と、地べたからどんなに叫んだところで、央城という雲の上に居る人々に届きはしないのよ」


 結局、鬼堂家が振りかざした大義名分の方がまかり通って、奥東方の豪族たちの訴えは退けられた、という。

 むしろ鬼堂家は、よくぞ真那世復興の脅威を未然に防いだと、恩賞を賜ることになったのだ、と。


 月が煌々と照っている。

 結界の外で、木々がざわざわと揺れている。


「その恩賞の最たるものが、央城以東、つまり、かつての東州とうしゅう北支ほくしを含む一帯において、異形、霊障の駆逐、対処を委ねるという意味の、『東北護台とうほくごだい』の尊名ね。それに伴って、常盤台ときわだいの管掌は、央城以西に限定されることになった」

「何が不満だ」


 鬼堂興国が、肩をそびやかせた。


「常盤台は、増えるばかりの妖種の対処を持て余していたではないか。央城神狩の術者だけでは、畿内から西国にかけての地域で手一杯。南方は高台宗こうだいしゅうの寺社が多いから、そこの法師どもに任せっぱなしで、東に至ってはほぼ無視だ。よって、困り果てていた東の民たちは、阿の国に移った我が父を頼り、黒衆を頼った。我らはそれに応じたまでだ」

「他意はないって?」


 頭上から睥睨した少女が、平然と言った。


「なら、今すぐその場に平伏しなさい」

「何だと?」

「当たり前でしょ? 私は当代の宗家の孫なんだから。あなたがあくまで神狩一族の一当主だと言うなら、その前で礼も取らずに突っ立っているなんて、不敬じゃない?」

「……」

「ほらほら、早く膝をついて。ちゃんと頭も下げてね」


 にこにこしながら煽る少女に、二緒子はもとより、伊織と桧山辰蔵も唖然とした。


「でもって、あなたは身一つで私と一緒に央城へ行き、九条青明の前に出頭するの。それが出来るなら、『他意は無い』というあなたの言葉を信じてあげるわ」

「ふざけるな!」


 案の定、大爆発が起こった。


「小娘ごときが、何の権限があって‼」

「あら、拒否するの? それは、宗家への明らかな不敬、反抗だわね」

「黙れ‼ 宗家の名を掠め取っただけの盗人どもが、血迷いおって‼」

「ほら、やっぱりそれが本音じゃない」


 易い挑発にあっさりと乗った鬼堂興国に、少女がころりと笑った。


「ね、聞いたわよね、柾木?」

「――はい、確かに」


 後ろで反対側を向いて胡坐をかいて座っている男が、腕を組み、目を瞑ったまま、溜息を吐いた。


「ま、無理やり言わせた、とは申しますまい」

「やっぱり大好きよ、柾木」


 にこりと笑って、少女がぱちりと指を鳴らす。

 瞬間、足元で風が巻いた。


 ***


 白帷子を着せられている少年が、神剣を肩に担ぐようにして振りかぶった。風の渦が巻き、それが無形の波濤となって、沖天の勢いで盛り上がった。


神力ちからを、風のかたちに換えた……」


 二緒子は息を呑んだ。

 意識を消失する前の三朗は、まだその段階には至っていなかったのに。


 その眸は、硝子玉のままだった。

 何の理性も感情も伺えなかった。

 それでも、放たれたのは紛れもない、殺気だった。


 居竦んだ二緒子を、伊織が背後に押しやるようにして、前に出た。

 だが、その眼前で、三朗はいきなり大きく跳躍した。

 神剣を振りかぶった姿勢のまま、二緒子の頭上を飛び越えて背後に着地すると、一直線に正殿に向かって走りだす。


「二緒子殿を避けた?」

「三朗、私のことがわかるの⁉」


 伊織の呟きに、二緒子の、微かな期待と希望が滲んだ声が爆ぜる。


「それとも、あなたの指示ですか?」

「違うわよ」


 伊織の問いかけに、上空の少女は肩を竦めた。


「『傀儡くぐつ』にしたからといって、何でも命令通りにできる訳じゃないのよね。特に、たましいが抱く根源的な想いと正反対のことを強制するのは、難しいのよ」


 嘆息するように首を振ってから、にこりと笑う。


「だから、お姉さんの相手は、こっちでするわ」


 少女を乗せたままの白い牡鹿が、大きく翼を広げた。

 滞空したまま後ろ脚で棹立ちになり、頭を上げる。


 後ろにいる褐衣姿の男が、腕組みした姿勢のまま斜めになりながら、『私は何も見ていない』とぶつぶつ呟き続けている。


「⁉」


 キーン、と耳の奥が鳴った。

 二本の枝角の間で、高密度の妖力が渦を巻く。

 そこに生じたのは、巨大な氷の塊だった。それを、牡鹿が大きく頭を振って、撃ち放つ。


「二緒子殿、下がって!」


 同時に、伊織が両腕を上げ、広げた。

 その十指の先から放たれた『繰糸くりいと』が目にも止まらぬ速さで交差し、一瞬で巨大な『網』を編み上げる。

 それが飛来した氷の塊を受け止め、明後日の方角へと打ち返した。


「やるじゃない」


 お世辞ではない様子の少女の称賛に、大質量のものが破壊される音が重なった。

 振り返った二緒子の視界に、鬼堂興国たち三人が、正殿の広縁から庭へ飛び出す様が映る。

 空いた空間を、風の渦が奔り抜けた。

 それが正殿の軒先に激突し、屋根の一部を突き破る。突然の暴虐に悲鳴を上げた柱が中途でへし折られ、砕けた軒の破片が地響きと共に白砂利の庭に散乱した。


「二緒子殿、あなたは三朗殿を。あの姫は、私が抑えます」


 伊織が、十指を上空に向けたまま言った。


「は、はいっ!」

「桧山殿、あなたもあちらへ行って下さい。念を押しておきますが、殺す為ではありませんよ」


 ごく自然に、二緒子は伊織の指示を受け入れて、走り出した。

 背後で、ちっと短い舌打ちを洩らしながらも、桧山辰蔵が踵を返す気配がした。


「そうはさせないわよ」


 少女の頭上に、二十数本の『楔』が現れた。


 放たれた光の先端が、二手に分かれる。半数が真っすぐ伊織に向かい、残り半数が二緒子と桧山辰蔵の背を狙う。


 伊織の指が虚空で躍った。

 その手元から躍り上がった十本の『繰糸』が、それぞれ全く別の動きをして縦横にしなり、飛来の中途でそれらを次々、真二つに斬り払った。自分へ向かってきたものは勿論、二緒子たちに迫ったものも全てだ。


「随分と器用なのね」

「ええ」


 唖然となった少女を、伊織は、地表から冷静に見据えた。


「私は、神力ちからもさほど強くはないし、剣の方もからっきしでしてね。その分、仲間との連携と器用さだけで生き延びてきたのです」


 十本の『繰糸』が伸長し、円を描くように動いて、滞空する白い牡鹿を包囲する。


「だから、簡単に殺されはしませんし、仲間を殺させもしませんよ」

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