29 針生伊織ー2

「伊織様……」


 その顔を見て、二緒子は全身で息を吐いた。

 自分が寝かされていた布団の上に正座し、両手をついて、額を床に押し当てる。

 鬼堂興国たちに強いられたものとは違う。心の奥底からの叩頭であり、感謝だった。


「礼には及びませんよ。私は、医薬師としての責務を果たしただけですから」


 穏やかな笑みと共に、伊織が上がり框に腰を下ろす。

 その目が、手つかずのままの湯呑みに止まり、ふと細められた。


「水分は摂った方がいいですよ。大丈夫。変なものなんて、入っていませんから」


 言いながら湯呑みを取り上げ、ひょいと中身を飲み干して見せる。

 それから、丸盆の上にあった別の湯呑みに水差しから水を注いで、二緒子に向かって差し出してくれた。


 先ほどの七尾凛子の表情が、脳裏をよぎる。

 些か気まずい想いに捉われながら、今度は手を伸ばした。

 受け取って口元に運ぶと、確かに変なものなど入っていない、ただの白湯だった。それが、極上の甘露のように優しく、甘く、喉に染み透っていく。


「あの――伊織様」


 二杯目をもらってそれも飲み干すと、ようやく、身体だけではなく、心にも潤いが戻って来たような気がした。


「ここは、真垣まがきのお城、ですよね?」

「ええ。真垣城の中にある戎士じゅうし長屋です」

「戎士長屋……」

「ご存じありませんでしたか? 真垣の城における、我々戎士の詰め所です。こんな感じの六畳一間の部屋を七つほど備えた棟が二つ、正殿せいでんの脇に並んで建っていましてね。八手一族の戎士組は、月替わりでここに滞在して、主公の身辺警護に当たるのです」


 ぱち、と二緒子は目を瞬いた。


「真垣には、黒衆くろしゅうも居るし、人間の武士団も居ますよね。その上、戎士組まで傍に置いているのですか」

「ええ。先の式部しきぶ様の頃は、そんなことは無かったそうなのですけど」


 伊織は微かに笑う。


「で、その際は、月番の戎士組の家族が何人か、ここに泊まり込むことになっています」

「家族が、わざわざ?」

「万が一にも、護衛として侍る筈の戎士が、自分たちに刃を向けるようなことがないように」


 二緒子は、ふと息を詰めた。


「つまり、人質、ということですか?」

「ええ。特に一番組が月番の場合、主公は必ず、凛子りんこ殿だけではなくはじめ君とあらた君もここに置くようお命じになります」

「それは、七尾様が八手一族最強の戎士だから?」

「そういうことですね」


 伊織が、ちょっと冷ややかな笑い方をした。


「主公が警戒しているのは水守みずもり殿だけではない、ということです。我ら八手やつで一族のことも、何一つ信用などしていない。憎まれても怨まれても当然のことをしている、という自覚がおありだからでしょう」

「でも、主公は、八手一族からも『質』を取っているでしょう?」


 ぎこちなく、二緒子は問いかけた。


「兄様のように、その、薫子かおるこ様を」

「ええ。だから、本来なら、わざわざ他に人質を確保する必要などは無い筈なのですけれどね」


 淡々と頷いてから、伊織は、少しだけ口調を明るいものに変える。


「ただ、まあ、戎士の中には、家族は比較的安全な里に置いておきたいと思う者も居れば、逆に、いつ死ぬかわからないからこそ、常に傍に居て欲しいという者たちも居ますから。何より、女たちが居てくれないと、ここの炊事や洗濯といった日常の雑事がたちまち滞ってしまいますのでね」


 そういえば、と二緒子は思い出した。


「八手一族の男の方って、基本的に家事はされないのでしたね」


 の国へ来て間もない頃、居宅の庭で一也と三朗がその日の洗濯物を干していると、門から中を覗いて偶々それを見た八手一族の男たちが、『男のくせに』と嗤ったことがあった。『そんなものは女の仕事だろう』と。


 斗和田でも、狩りは男、機織りは女と、男女で決まっていた仕事はあったが、日常の畑仕事や炊事、洗濯、掃除などは、大体どこの家でも家族が総出で手分けして行っていたから、それを聞いた二緒子も三朗も不思議な気持ちがしたものだった。


 実際、一也は、炊事も洗濯も器用にこなす。

 三朗の方は、庭を掃かせれば箒の柄を折り、握り飯を作らせたら大抵爆発させてしまうが、それでも、最低限の家事の手順は身に着けている。


 だから、故郷喪失の後、兄と再会するまでの最も辛く不安だった日々の中でも、互いに助け合って生活を維持していくことが出来たのだ。


(三朗……)


 だが、その三朗は居ない。

 今はもう、どこにも。


「実際、今回は、凛子殿がここに居てくれて助かりました」


 内に沈みかけた二緒子の意識を、伊織の声が引き戻した。


「娘さんの湯浴みや着替えは、私ではどうにもなりませんからね」


 苦笑と共に言われて、思わず顔が赤くなった。

 世話に付け込んで伊織が不埒な真似に及ぶとは思わないが、流石にそれは御免被りたい。


「あの、じゃ、この小袖は……」

「凛子殿が、ご自分のを詰めてくれました。ここには糧食や武器の備蓄の他に、衣の予備なども多少は置いてあるのですが、流石に女の子の着物までは無くてね」


 二緒子は、自分自身を見回した。

 身に合っていない着物というものは、着ているだけで疲れてしまうことが多いが、今のこれは全くそんなことはなかった。袖丈や着丈を、きちんと合わせてくれているからだ。


 その丁寧な手仕事の痕跡から感じられるものは、先ほど、七尾清十郎から感じたものと同じである気がした。

 困っている者や弱っている者に対する厚意や善意、思いやりといったものだ、と。

 

「あの、それで、その七尾様は? そもそも、私はどれくらい眠っていたのでしょう。今は何時ですか? 数馬様は……」

「まあまあ、落ち着いて、一つずつ話しましょう」


 苦笑して、伊織が軽く片手を上げた。


「まず、今は戌三ツ(およそ午後八時)になったところです。だから、あなたが眠っておられたのは、一刻(約二時間)ほどですね。清十郎は、気絶したあなたをここへ運んできて、その後すぐ、数馬様たちと一緒に発ちました。真垣から鶴羽つるうまでは、直線距離で大体十三里(およそ五〇キロメートル)といったところですから、もうそろそろ到着する頃でしょう」

「では、もしかしたら、今頃……」

「ええ。上手くすれば、九条の姫とやらを捕捉しているでしょう」


『三朗のことは引き受ける』


 そう言ってくれた七尾清十郎の声が脳裏をよぎった。


 だが、あの九条の姫が難敵であることは、骨身に沁みている。

 まして、そこに数馬が言うところの『傀儡』となった三朗が加われば、如何に黒衆の精鋭と一番組が揃っていても、苦戦は必至だろう。


 そうなった時、清十郎はどこまで三朗を庇ってくれるだろうか。

 彼が見せてくれた態度に嘘や誤魔化しは無いと思えたが、一族が異なる以上、どうしたって究極的に優先されるものは異なっている。


(まして、奥様や、あんな小さなお子様たちが居るなら……)


「ご心配も、私たちを信用できないのも、当然ですが」


 俯いた二緒子の表情から何を洞察したのか、伊織が静かに言った。


「それでも、清十郎と数馬様なら、桧山ひやま殿と戸渡とわたり様のようなことにはなりません。それだけは、絶対に確かです。三朗殿の為という意味なら、あなたと水守殿の次くらいには理想的な組み合わせだと思いますから」


「そう、でしょうか」


 確かに、七尾清十郎は、水守家に対して、桧山辰蔵とは異なる考え方を持ってくれているようだった。

 どちらかと言えば、目の前にいる伊織に近い公正さが感じられた。


「でも、数馬様は」


 三朗が意識を喪失しているなら『傀儡』にすればいいと、事も無げに言った言葉が、脳裏に蘇った。


 昨年、二緒子は一度だけ、一也と共に、数馬の下で『役』に出たことがあった。


 この時の妖種ようしゅは毒気を吐く危険かつ厄介な相手だったが、数馬は自ら現場に立って采配を振るい、一也と二緒子、八手一族の戎士組が上手く連携できるよう配置して、どちらか一方だけに過度の危険を押し付けることなく、妖種退治を完遂させた。

 野営地となった村でも、戎士たちが村の井戸を使えるよう交渉してくれたり、自身への饗応を断ってまで戎士たちへの食事の差し入れを頼んでくれたり、毒に当てられた者たちの為に自ら山野に分け入って薬草を探してきてくれたりした。


 そんな数馬の姿が二緒子には衝撃で、だからこそ、彼は他の黒衆とは違う、と思っていたのだ。


 だが。


「そうじゃなかった……」


 怒りというより怨みのような感情が籠った言葉と共に、持ったままだった湯呑みが手を離れ、板の間に転がった。


「結局は、あの方も黒衆でしかありませんでした。私たちを利用することしか考えていないんです!」


「――そうかもしれません」


 二緒子の悲嘆を、怒りを、絶望を静かに受け止めてから、伊織がゆるりと首を振った。


「しかし、だとしても、数馬様は真那世まなせを『化け物』と見下すことはなさいません。我々には我々の意思があり、感情があり、倫理観がある、ということを理解して、許される範囲で尊重もして下さる。何より、我々を従えるのに、『質』や弱い立場の者の命を盾にするということをなさらない。それだけでも、他の黒衆の方々とは違っておられますよ」

「それは……」

「であれば、仮に三朗殿を『傀儡』に降したとしても、あなたや水守殿を怒らせるような惨い使い方はなさらないでしょう。その点だけは、信じても良いかと思います」


 ぎこちなく顔を上げると、悲哀を滲ませた透明な表情が向けられる。


「あなたが認められない気持ちはよくわかります。当然だと思います」


 それでも、既に十分に酷い状況が更に悪化するなら。

 どういう扱い方をされるかわからない九条家の手に渡って遠い央城へ連れ去られるより、二緒子や一也の傍で数馬に使われる方が、まだ幾らかはましだと言えるのではないか。


「少しでも、自分たちにとって良いと思える選択肢を許容する。それは、諦めることでも、流されることでもありません」


 二緒子の脳裏に、小さな光が閃いた。


『こういう形で運命が定められた。ならば、今は受け入れよう』


 兄もそう言っていた。


『だが、それは諦めるということではない。阿ることでも、誇りを失うことでもない』


 目の前の現実を正しく受け入れて、それでも、前に進むということだ、と。


(三朗……)


 確かに、その意識は、もう戻ってこないかもしれない。

 あの明るい笑顔を見ることは、もう二度と叶わないのかもしれない。


 だが、それでも、生きていてくれるなら。

 どんな形であっても、自分たちの傍で、その心臓の音を聴かせていてくれるなら。


 二緒子は、ぎゅ、と目を瞑って、両手でぱちんと頬を叩いた。

 それから、もう一度顔を上げ、伊織を見上げて、小さく頷いた。


「では、あなたはまず、ご自分の回復に努めなければね」


 ホッとしたように微笑んだ伊織が、丸盆の上にあった竹の皮の包みを、二緒子の前に置いてくれた。

 開けてみると、そこには兵糧丸ではなく、握り飯が二つ、入っていた。

 豪快な大きさの三角形で、一つには刻んだ梅干しがまぶされていて、もう一つには味噌と葱を混ぜたものが塗られている。


「これは、もしかして、七尾様の奥様が?」

「ええ。水守殿には、お目覚めになったら粥を用意してくださるそうなので、こちらは二緒子殿が召し上がって下さい。一日、殆ど何も食べていないのでしょう?」


 柔らかく促されて、二緒子は手を伸ばした。

 久しぶりに見た米は、その一粒一粒が内側からきらきらと輝いているような気がした。

 一口齧れば、上品な米の甘味が広がる。兵糧丸の味気無さとは、雲泥の差だ。


『辛い時、苦しい時こそ、しっかりご飯を食べるんですよ』


 脳裏をよぎったのは、母の笑顔だった。

 目の奥がじわりと熱くなる。


(早く、三朗にも食べさせてあげたい……)


 そう思った時、その熱が瞳孔を満たし、幾つもの煌めきとなって零れ落ちた。


 泣きながらも、二個の握り飯を全て食べてしまうと、ようやく人心地がついてきた。


「では、私は自分の部屋に戻っています。ここの斜向かいですから、何かあったら、遠慮なく声をかけて下さい」

「はい。ありがとうございます」


 最後まで見守ってくれていた伊織が立ち上がり、二緒子は再度、心の底から頭を下げた。


「あの、凛子様にも、お礼をお伝え頂けますか。さっきは、知らなくて、何も言えなかったので……。色々と、ありがとうございました、と」

「ええ、伝えておきます」


 伊織が笑顔で頷いた時だった。


 ***


 二緒子は、見えない誰かの指先に、こつりと頭を小突かれた気がした。


「‼」


 稲妻のような戦慄が、全身を貫いた。


「どうなさいました?」


 ハッと顔を跳ね上げ、全身を硬直させた二緒子に、戸口へ向かいかけていた伊織が振り返る。


「……嘘……」


 それには答えず、二緒子は跳ねるように立ち上がった。

 そのまま、伊織の横をすり抜けるようにして土間に飛び降り、杉戸を引き開けて外へ飛び出す。


「何だ?」


 そこには、桧山辰蔵が居た。路傍に縁台を据えて、不機嫌そうな顔で腰を下ろしている。


「部屋に引っ込んでろ。外へ出るな」


 その様子や言葉からすると、鬼堂興国に、二緒子と一也を見張っているよう命じられたのだろう。


 だが、二緒子の方は、それどころではなかった。


 爆ぜるように仰いだ空は、藍色の夜闇に染まっている。中天にかかる月が煌々と輝き、周囲にたなびく雲や地上の様子を明るく照らしている。


 その月を凝視する二緒子の姿に、桧山辰蔵が訝し気に立ち上がる。後から外へ出てきた伊織も、首を傾げながら二緒子の視線を追った。


「この、気配」


 そんな彼らの前で、二緒子は慄然と呟いた。

 抑制していても尚鋭い感覚が、はるか上空からぐんぐんと接近してくる気配を伝えて来る。二緒子にとって余りにも馴染み深い、その気配を。


 次の瞬間、視界を一条の閃光が走り抜けた。

 天から地へ投げ落とされた、流れ星のように。


「三朗‼」


 二緒子が愕然とその名を叫んだ瞬間、戎士長屋の敷地を囲む植え込みの彼方で、土煙が吹き上がった。

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