28 針生伊織ー1

桧山ひやま殿、本当に、清十郎の言葉の意味がわからないのですか?」


 遠くから、憤りとも哀しみともつかない声が聞こえて来た。


「組長として立つということは、課せられた任務を果たすことと、麾下の命を無駄に害わぬこと、その両方に努めなければならないということです。――いいえ、それは通りません。五番組と組んだ以上、水守みずもり家はあなたの麾下でした。だから、あなたは『えき』の折、彼らに対して、命令に従わせる権利を行使した筈です。そして、水守殿はそれに従ったでしょう? 彼はこの三年、我らの一族がどれほど礼を失した振る舞いに及ぼうと、課せられた責務を果たさなかったことは一度もなかったのですから」


 その通りだ、と、二緒子は、薄ぼんやりとしている意識の片隅で思った。


 水守家は八手十番組には所属せず、遊撃部隊として、戦力の増強が必要とされた『役』に投入されることになっている。

 それは、その場その場で、『役』を担当する組の組長の指揮下に入るということだ。


 だから一也いちやは、初陣の三朗と二緒子におこだけを、あのヒグマもどきの妖種に向かわせるという桧山の采配にも従った。

 二人が失敗した場合は、自分が最も危険な局面を引き受ける構えを取った上で、だ。


「ならば、あなたも、麾下を護るという義務を果たすべきでした。それが、息子の仇云々で出来ないというのであれば、あなたはそもそも、今回の『役』で水守家と組むことを辞退すべきだった」

「ああ、確かに、辞退すべきだったな」


 別の声が、低く、吐き捨てるように応じた。


「あいつらと組んだ所為で、とんだとばっちりだ。おかげで、了平りょうへいは死んだ。まだ十八だったってのに」

「了平のことは私とて残念です。しかし、彼の死は、水守家の責任ではありません」

「あいつらの所為だ。あいつらさえ居なければ、九条の姫なぞが俺たちの前に現れることはなかったんだぞ」

「水守殿たちがその姫を招待した訳ではないでしょう? 桧山殿、怒りの矛先を間違えてはいけません」


 憤りよりも哀しみの方が強い。そんな口調だった。


「利用するだけ利用し、都合が悪くなれば救済しようともせず見捨てるというのは、この四十年間、黒衆が我々にやってきたことではありませんか。その痛み、苦しみを、私たちはよく知っている。なのに……」

「何が悪い。俺たちが鬼堂家に敗北して奴らの下僕になったなら、同じように俺たちがあいつらを下僕にして何が悪いんだ。綺麗事を言うな、伊織いおり。お前も、あの化け物にもう一人の兄を殺されているだろう。なのに、奴らの味方をするのか?」

「味方だの敵だのの話ではありません。正義とか倫理とかいうものの話です。何より、宗次郎そうじろう兄上を本当の意味で『殺した』のは、水守殿ではありませんから」


 重いものを吐き出すような、苦い吐息が聞こえた。


「桧山殿、忘れないで下さい。水守殿が我々の里を襲って、あなたの息子や私の兄を殺した訳ではありません。私たちが彼の村を襲い、彼の家族、同胞を殺したのです」

「それは、俺たちの所為じゃない。主公の命令に逆らえば、俺たちの『質』が、そして、里に残る女子供たちが、酷い目に遭うんだ」

「確かに、行きたくて斗和田とわだに行った者など、八手やつで一族には一人も居ない。ですが、そんな『加害者の事情』など、被害者には何の関係もないことです。私たちは殺せと言われて殺した。被害者たちに未来永劫怨まれ、憎まれても仕方がないことをやったのです」

「それだって、あいつらの所為だ! 斗和田に真神まがみなど居残っていなければ、一代の真那世まなせなど居なければ、俺たちが可の国くんだりまで駆り出されることはなかった。辰広たつひろも死なずに済んだんだ!」

「そこまで被害者たちの所為にしてどうするのです⁉︎」


 たまりかねたように、伊織の声が荒くなった。


「向き合うことが怖いからですか? 自分たちが『加害者』だと自覚することに、耐えられないからですか?」

「何だと?」

「だから、自分たちに都合のいい言い訳ばかりを並べて、事実から逃げている。しかし、そんなことで護られるものや救われるものなどありません。憎しみと怨みの泥沼の中で、ただ果ての無い悪夢を巡るだけです!」

「喧しい‼」


 怒鳴り声の語尾に、遠ざかっていく荒々しい足音が重なる。

 そこで、すうっと意識が浮上した。


 ***


 ぎこちなく瞼を押し上げると、真っ先に目に入ったのは、板を張った天井だった。

 周囲は薄暗く、陽の光ではなく、行燈の火の光がほのかに空間を照らしている。


 その空間全体に、えもいわれぬ芳香がそこはかとなく漂っていた。満天の夜空に瞬く星のような、深山幽谷を渡る風のような、なんともいえず爽やかな薫りだ。


(これは、輪廻香りんねこう……)


 まだぼんやりとしている頭の隅で、その名前が閃く。


 八手一族に伝わるという、秘伝の薬香だった。薬草の見分けや栽培、利用に長けていた神和かんなぎ一族でも聞いたことのなかったもので、真那世の神珠しんじゅ霊珠れいじゅの結びつきを強化し、均衡を保つ効果があるという。


『やはり神珠というのは人の身には扱いかねるものなのか、代を重ねるにつれて、一族内には、生まれつき神珠と霊珠の結びつきが不安定な者が多く出るようになりました。それを何とか補正しようとした結果生まれたのが、この香です。歴史が長いからこその、我ら一族の知恵ですね』


 三年前、針生伊織はそう言って、神珠を抜かれたばかりで、ろくに立つこともできなくなっていた頃の一也に、この香を融通してくれた。

 実際、それでずいぶん楽になったと一也自身が言っていたが、『確かに』と、二緒子も思った。包まれていると、心身が安定し、内側から浄化されていくような心地になる。


「気が付いたかい?」


 不意に聞こえた声に、ハッとして上体を起こせば、自分が、少しばかり薄いけれど、ちゃんとした布団の上に寝かされていたことに気付いた。


 泥と血にまみれていた顔や手足も綺麗に清められ、見覚えのない朱鷺色の小袖を纏わされている。古着のようだが、きちんと洗って陽に干されているとわかる、清潔な肌触りだ。

 額を始め、腕や足に負っていたいくつもの裂傷にも、薬が塗られ、丁寧に包帯が巻かれている。


 周囲を見回すと、そこは六畳ほどの小さな部屋だった。

 目の前には狭い土間があり、出入り口は杉の引き戸で、窓はなく、床は板敷きになっている。

 そこに二組の布団が並んで敷かれており、隣の布団には一也が横たわっていた。

 その枕元に、小さな香炉が置かれている。輪廻香の薫りは、そこから漂ってきていた。


「兄様……」


 思わず、身を乗り出した。

 その瞼は閉じている。顔色も青白いままだ。

 だが、滅茶苦茶な方法で真垣へ担ぎ込まれた時は、浅く短く、殆ど絶えそうにすらなっていた呼吸が、今は深く規則的なものに変わっている。

 咄嗟に手を伸ばして触れた手の温度も、平熱に近いところまで戻っているようだった。


「お兄さんは大丈夫だよ。伊織様の薬が効いたようでね、落ち着いて眠ってらっしゃるから」


 再び聞こえた声の方向に顔を向けると、土間と板間の上がり框に、大柄でふっくらとした、二十代前半の女性が座っていた。

 その足元には四輝しきと同じ年ごろの男の子が二人、木炭の切れ端を持って、土間にらくがきをして遊んでいる。


 お母様……と、反射的に言いかけて、二緒子はぐっと言葉を飲み込んだ。

 何を考えている。別人だ。それも、神珠の気配が視えることからして、八手一族の女性だ。

 しかし、誰だろう?


「初めまして、だね、水守二緒子さん。あたしは七尾凛子りんこ。七尾清十郎の女房だよ」


 二緒子の表情を読んだように、その女性はからりとした口調で自己紹介をした。


「こっちの二人は、あたしとあの人の息子たちだ。ほら、挨拶しな」


 母親に言われて、土間に居た男の子たちが顔を上げる。木炭を放り出し、立ち上がって並んだところは、顔から背丈からそっくり同じだった。


「七尾はじめです」

「七尾あらたです!」


 一人は丁寧に、もう一人は元気いっぱいの様子で。

 それでも、揃って人見知りをしない気質なのか、真っすぐ二緒子を見上げてから、ぺこりと頭を下げる。


(双子)


 その様子が、かつて傍にいた従妹たちに、そして、今も八手の里で待っている末弟の姿に重なった。


「は、じめまして」


 ぎこちなく挨拶を返すと、二人の幼子はにこっと笑った。


「お姉ちゃん、もうどこも痛くない?」

「全然目を覚まさないから、心配してたんだよ。でも、良かった」

「――え?」

「ね、一緒に歌留多かるたやらない? 僕、百歌集ひゃっかしゅうの和歌、もう全部言えるんだよ」

「えー、やだよ。独楽こま回しにしようよ。僕、もう一人で回せるんだ」

「――え? え?」


 それは、八手一族ならば、たとえ子供でも、自分たち水守家には向ける筈のない、気遣いと親愛の表情だった。


「こら、止めな、お前たち。お姉さんは、まだまだ休んでなきゃいけないんだよ」


 二緒子がそれに戸惑っていると、七尾凛子と名乗った女性が、嘆息と共に息子たちを窘めた。


「ごめんよ、煩くて。今、ここに居る子供はこの子たちだけだから、珍しがっちゃってね」


 言いながら、傍に置いてあった丸盆を引き寄せる。

 その上に乗っていた湯呑みを手に取り、水差しから水を酌んで、差し出してきた。


 だが、二緒子は手を出そうとはしなかった。

 むしろ、反射的に身体を引いていた。


 露骨に漲ったであろう不信と警戒とに、凛子が表情を揺らす。

 だが、咎めたり怒ったりはせず、小さく息を吐くと、黙って板間の上に湯呑みを置き、立ち上がった。


「それじゃ、伊織様をお呼びしてくるからね。ほら、あんたたちも行くよ」

「えー? もう?」

「お姉ちゃんと遊びたいよ」

「駄目だよ。お姉さんのお兄さんがまだ眠っているだろう? 怪我人の枕元で騒ぐのはご法度だ。遊ぶのはまた今度、お姉さんが『いいよ』と言ってくれたらだよ」


 言い聞かせる言葉と共に、息子たちを促しながら、踵を返す。

 幼子たちは、ぶー、と頬を膨らませたが、仕方がないと言うように顔を見合わせた。


「じゃあね、お姉ちゃん、ゆっくり休んでね」

「元気になったら、一緒に遊ぼうね」


 小さな手を元気よく振って、母親と共に外へ出ていく。


(あの子たちは、私のことを知らないのかしら……)


 戸惑いながら見送って、いや、仮にも七尾清十郎の家族でそれは無いだろう、と思い直す。


 しかし、だとすれば、彼らが向けてくれた笑顔の意味がわからなかった。これまで八手の里で会った子供たちは、あのくらいの年頃でも、二緒子たちに逢えば石を投げてくるか、目を逸らして逃げていくかのどちらかだったのに。


「ご気分はいかがですか」


 そこへ、入れ違いに、白の上衣に若竹色の袴姿の青年が、土間へと入ってきた。

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