26 遠き山に陽は落ちてー1


 いつしか、陽は傾いていた。

 残照を示す茜色の光が、白砂利の庭を明るく照らしている。


 呼ばれるままに前へ進んで、二緒子は、階の下に両手と両膝をついた。

 桧山辰蔵は少し脇へ下がって、大柄な戎士――七尾清十郎の横に、少し距離を置いて並んだ。


「三朗の封珠ふうじゅについては、父上も我々も承知していた」


 最初に口火を切ったのは、やはり鬼堂数馬だった。


「わからないのは、一也が封珠を戻した後、突然、三朗が『こわれた』という証言のことだ。神力の使い過ぎで倒れた、といった単純な話ではないようだが、具体的に、三朗はどのような状態になったのだ?」


「三朗は、意識を閉ざしてしまいました……」


 頭上から、傍らから、支配者たちの視線が注がれてくる。

 それを全身で感じ取りながら、二緒子は懸命に気力を奮い立たせていた。

 一人じゃ怖い、なんて言っている場合ではない。ずっとこの視線の矢面に立って、自分たちを庇ってくれていた一也は居ないのだ。

 なら、ここで三朗の為に言葉を紡げるのは、自分だけだ。


「記憶の蓋が開いて、思い出してはいけなかった記憶を思い出してしまったからです。今の三朗には何も見えていないし、聴こえていない。多分、私たちのことさえ、認識しなくなっていると思います」

「つまり、自我を消失している、と?」


 数馬が眉をひそめた。


「確かに、人にもそのようなことがあるな。大きな災いや不幸に遭った時、心を現実から切り離すことで、命が割れ砕けることを避けようとする」

「痛みを直視できぬ弱者の防衛本能か。貴重な神力ちからもろくに制御できぬ、心は失くす――全くもって、出来損ないの小童こわっぱだ」


 鬼堂興国が片頬を歪めた。


「具体的には何があった? どうせ大したことではあるまい」


 重ねられた質問に、二緒子は更に俯くことで応えた。

 陽はさらに傾き、差し込む光が、佇む人の影を長く地に落としている。

 日暮れの風がふうわりと舞って、二緒子の長い髪を揺らした。


「答えぬか。お館様のご下問だぞ」

「話したくないのであれば、それでも構わない」


 嶽川たけかわ朧月ろうげつが声を荒げたが、数馬はそちらを宥めるように片手を挙げた。


「我々にとっての問題は、三朗のその状態が戻るのか否かということだ。二緒子、お前は今、『蓋が開いた』と言ったな? ということは、その記憶というのは、誰かが意図的に忘れさせていたということになるが、それは誰だ?」

「朝来の、おじい様です」

「では、お前もしくは一也に、同じ処置を施すことはできるか?」

「それは……」


 ここで『出来ない』と言えば、黒衆はどう判断するだろう。

 自我を失い、現実を認識せず、自律的な行動ができなくなっている存在など、ただ呼吸をしているというだけの人形も同然だ。

 そんなものはもはや役に立たないと思われたら。

 九条家と事を構えてまで取り戻す算段を講じる価値などないと、判断されたら。


「で、出来……」

「言っておくが」


 ぐるぐると巡る思考と感情に促されるまま、震える唇を何とか動かそうとする。

 だがそこへ、数馬が口を挟んだ。


「虚言は為にならないぞ。戦であれ政であれ、最も大切なのは正しい情報だ。お前が『出来る』というなら、我々はその前提で戦略を組み立てる。だが、それが虚言であった場合、そしてそれによって犠牲者が生じた場合、お前はその責を担えるか?」


 びくり、と二緒子は全身を震わせた。

 素直な気質そのままの正直すぎる反応に、桧山辰蔵が嗤うような息を吐き、鬼堂興国は忌々し気な唸り声を上げた。


「小娘が、このわしをたばかるつもりであるなら」

「父上、一々無駄に脅すことはやめて下さい。話が進みません」

「何だと⁉」

「戎士たちが我らに従うのは、信頼や敬意の故ではありません。家族、血族を何より大切に想う、真那世の性質ゆえです。正直に話せばその身内が害われかねないと思えば、謀りを考えることも当然でしょう」


 無表情に。冷静に。

 数馬は、二緒子の心情を洞察しつつ、どこまでも高圧的な父親を宥めつつ、話を主導する。


「だから、心情は理解する。だが、認めることは別だ。正直に話せ、二緒子。なれば、こちらも相応の対応を取る」


 爪が掌に食い込むほどきつく両の拳を握りしめて、二緒子は額を白砂利の地につけた。


「で、出来ません。私は勿論、兄様も、その術式は知らないと思います。それに、例え知っていたとしても」


 あの時、祖父は、『人の心を他者が弄ることは、本来やってはいけないことだから、効力には限度がある』と言った。

 だから、閉ざした記憶の蓋は、いつかは何かの弾みで開いてしまうものではあったのだ。


「そして、一度開いたら、無理やり忘れさせていた分だけ、その記憶は強烈にたましいに焼き付けられることになって、もう二度と閉じ込めることはできないだろうと」


 瞼の裏に、灼熱感が走った。

 だから、二緒子も一也も、可能な限り、その蓋を閉じたままにしておきたかった。あの封珠は、その為のものでもあったのだ。

 なのに――。


「つまり、三朗が自分から現実に戻って来ようとしない限り、その自我は閉じたままということになるのか。だが、本能が命を護る為に閉ざしたなら、自我を戻して記憶と現実を認識した瞬間、命の方が砕けてしまうことも考えられる、と」


 淡々とした口調が、二緒子が考えないようにしていた事実を指摘する。

 気力を総動員して膝を支えていなければ、突っ伏してしまいそうだった。


「しかし若、九条の小娘というのは、その状態の小童を連れ去った――しかも、お館様への刺客に用いる、というようなことを言い置いて行ったそうじゃが」


 嶽川朧月が口を開き、更に恐ろしい現実を突きつける会話が聞こえて来た。


「それは、小童に『神縛かみしばり』を掛けて使役下に置くつもり、ということかのう?」

「いや、違うと思う」


 明快な返答に、嶽川朧月はもとより、七尾清十郎たちや二緒子も顔を上げた。


「真那世に『神縛り』を掛けたとしても、神力ちからを半減させるだけで何の意味もない。手駒として使役することを考えるなら、別の手段がある」

「ああ。なるほど、『傀儡くぐつ』の術じゃな」


「『傀儡』?」


 慎重な、それでいてどこか冷ややかな口調で問いを投げたのは、七尾清十郎だった。


「『神縛り』も、真神や妖種を術者の傀儡にするものではないのですか?」

「その通りだが、『神縛り』は、人に対しては使えない」


 数馬は、ただ恬淡と応じた。


「『神縛り』は、対象から神珠しんじゅもしくは妖珠ようじゅを抜き取り、自身の霊珠れいじゅを檻として籠め、縛るもの。だが、同じ人の霊珠は、術者本人の霊珠と反発し合う為、取り込むことができない」


 だから、真那世が持つ神珠は奪えても、霊珠は奪えない訳である。


「故に、人を思い通りに動かしたい場合は、『暗示』もしくは『傀儡』の術を用いる」


『暗示』は、言霊によって、簡単な単一の行動を強制するもの。

『傀儡』は、相手の脳に、術者の命令にのみ反応する反射装置として、霊符などの媒介物を埋め込み、より高度で複合的な行動の強制を可能にするもの。


「その際、『傀儡』とする者には、薬物なり催眠術なりを用いて意識を消失させる。これで、対象者に自我が戻るまでの間、命令通りに行動させることができる」


 淡々とした口調だが、内容はかなりとんでもない。


「自意識が戻るまでの間、ということは」


 その内容に微量の嫌悪感を滲ませながら、清十郎が、指先で自分のこめかみを軽く突いた。


「『使』のように、恒常的に使役下に置く為のものではない、と?」

「そうだ。人を『傀儡』にする際、最も手っ取り早いのは薬で眠らせてしまうことだが、これは薬効が切れて自意識が目覚めた時点で、勝手に破れてしまう。だから、『傀儡』の術は、本来短期的な目的に使用し、その際は入念な時間計算が必要になる」


 だが、三朗が自ら心を閉じ、その自意識を消失させている状態であるならば。


「時間制限は見込めない。命ある限り、『傀儡』の状態が続くことになるだろう」

「つまり、九条の姫とやらが、三朗をその『傀儡』にし、主公しゅこうを討てとでも命じて送り出せばその通りに行動する、ということですか」


 清十郎が首を傾げた。


「身体は三朗自身のもので神珠も健在だから、神力ちからや神剣を使用することもできる、と」

「そうだ。しかも、自意識を喪失しているなら、父上を討てば一也も巻き添えになるという思考も判断も働かない。仮に二緒子が前に立っても機械的に排除して、使役者の命令を完遂しようとするだろう」


 数馬の返答に、二緒子はハッとした。

 そうだ――と、身の裡がさらに冷えていく。


 大抵の霊能の技は、術者が死亡すれば、解術される。


 だが、『神縛り』は違うという。

 むしろ、術者が、奪った神珠を自身の霊珠の内に留めたまま死亡した場合、その神珠は術者の霊珠と共に消滅してしまうことになる、と。


 三年前、鬼堂興国はそう言って、二緒子と三朗に釘を刺した。

 だから、己れを殺しても、兄の神珠は取り戻せない。

 むしろ、お前たち自身の手で兄を殺すことになるのだぞ、と。


「小娘の分際で」


 鬼堂興国が唸った。


「しかし、その小娘が九条青明の孫というのは本当でありましょうか」


 嶽川朧月が首を傾げた。


「一人で『使』を五体も操る術者など、そんな化け物じみた者が居るものなら、噂の一つでも聞こえてきそうなものじゃが」

「祖父君を阿の国へった後、神祇頭じんぎのかみとなられた九条青明殿は、先の帝の姫を北の方に賜ったのだったな」


 唸っている父親の横で、数馬が記憶を辿る表情になった。


「その北の方との間に、ご子息を一人もうけられた。が、この方は既に病没されていて、遺されたのは男の御子がお一人だと聞いた覚えがある」

「しかし、その孫息子は可もなく不可もなく、という程度の評判しか聞いたことはございませぬな。若とそう変わらぬ年頃で、今は常盤台ときわだいすけを務めておるそうでございますよ」


 答えて、嶽川朧月は肩を竦めた。


「まあ、九条青明というのは、昔から大層な女好きでございましたから。皇女を北の方に賜った手前、大っぴらに妾を囲うようなことはなかったようですが、人知れぬところにごろごろ息子や娘、果ては孫が居たところで、何ら不思議はございますまいが」


 軽蔑したように吐き捨て、嗤う。


「そもそも、妖種を狩る為ならともかく、力比べ――要は術者同士の『術試合』のことじゃろうが――と称して、町屋のど真ん中に、まして一般の衆が居てもおかまいなしに『使』を出現させるなぞ、本来ならあり得んことじゃ。神狩の術者としての常識も良識も感じられん」


「裏を返せば、そうまでして水守家を潰そうとした。つまり、それほど『斗和田の一代』が警戒されたということだ」


 数馬の双眸が考え深げに煌めいた。


「確かに、二緒子と三朗が三年前の一也と同じ年齢に達し、同程度に神力を操れるようになったら、九条家にとっては脅威などというものではないだろう。今のうちに潰してしまえるならと、私でもそう考える」


「だから、ですか?」


 清十郎が、数馬に視線を向けた。


「二緒子殿が十二になった時も三朗の時も、数馬様は、前線に出すのは時期尚早、もう少し成長してから。せめて、一也が居なくても自分の身を護れるようになってからにすべきだと、具申なさったと聞きましたが」

「流石に、九条家がここまで直接的な行動に出て来るとは、考えていなかったが」


 その息子の意見を退け、『一代の子らを早々に使えるようにせよ』と、前線投入を決定した鬼堂興国が、苦虫を噛み潰したような顔になる。

 それを見るでもなく、数馬は無表情に肩を竦めた。


「まあ、今更言っても詮無いことだ。とにかく、今は過ぎたことではなく、これからのことを考えるべきだろう。急務は、三朗のことだ」

「その『傀儡』の術ですが、もし三朗がそういう状態になったとして、外から解く方法は無いのですか?」


 清十郎が、顔を顰めながら問いかけた。


「本人の自意識が戻る以外に」

「無いことはない」


 数馬が応じ、二緒子はハッと身を乗り出した。


「あるのですか?」

「私か朧月なら、状況さえ整えば解術は可能だろう。問題は、その状況を整える余裕があるかどうかだ」

「難しい気がしますな。拘束して完全に動きを止める必要がありますから、人なればともかく、真那世では」


 嶽川朧月が、うんざりした様子で首を振った。


「一代の神力ちからが九条の手に渡ることだけは、何としても避けねばなりますまい。と言って、危険と労力を払って解術し、身柄を取り戻したところで、毀れているなら使い物にはならない訳じゃ。なれば、殺してしまう方が、よほど手っ取り早い」

「そんな」


 二緒子が声を青ざめさせた時だった。

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