第四章 荊棘の檻

24 斗和田・最後の春

 春霞の空には、雲一つなかった。


 遠い彼方には万年雪を頂いた鋭鋒が連なり、手前には針葉樹に覆われた森の稜線が重なっている。


 その空に、元気いっぱいの気合いが響いた。

 草履が土を蹴る音に、カンッ、カンッ、カンッと打ち合う木剣の音が重なる。


 奥東方の長い冬が明け、雪解け水が音を立てて流れ始めた日だった。


 三朗は、朝から従兄と共に庭に出て、兄に剣術の稽古を見てもらっていた。


 湖での儀式から一年が過ぎ、三朗は九歳になった。

 従兄の透哉とうやも、同じ年齢である。

 共に白麻の上衣に藍染の脚衣を纏い、その上に革製の胸甲と同じく革製の籠手をつけ、髪は後頭部で一つに結い上げて、毛先を背に垂らしている。

 対する兄の一也いちやはこの時十七歳で、淡青色の上衣に藍色の袴姿だった。防具は付けておらず、さらりとした長い髪は首の後ろで無造作に束ねてある。


「右、左、右――次で、返す。よし、いいぞ」


 繰り返し型をなぞって指示通りに木剣を振り抜けば、兄が笑顔で頷いた。


「軌道が正確になったし、打ち込みも速くなったな、三朗」

「本当ですか?」

「ああ。足さばきも上々だ」


 汗みずくの顔をパッと輝かせると、お世辞のない表情で首肯してくれる。


「じゃ、三朗は一度下がって。透哉、おいで」

「はいっ」


 後ろで待っていた従兄が駆けてくる。

 すれ違い様に、木剣を持っていない方の手を軽く打ち合わせてから、三朗は透哉と交代して、庭を臨む縁側まで下がった。


「お疲れ様、三朗従兄にい様」


 縁側には、同じ顔立ちをした二人の少女が座っていた。

 一人は桃色の、一人は紅色の小袖を着て、お揃いの黄色の帯を締め、髪にはやはりお揃いの白い花簪を挿している。


「ありがとう、瑠璃るり玻璃はり


 一人が手巾を、もう一人が湯呑みを差し出してくれたので、三朗はありがたく受け取り、手巾で顔の汗を拭い、湯呑みに満たされていた白湯を一気に飲み干した。


「わしらが見ておらんところでも、ちゃんと稽古をしておったようじゃなあ、三朗」


 従妹たちと並んで縁側に座っていた祖父が、そう言って朗らかに笑った。


 朝来あさぎ村の神和かんなぎ一族の長でもある祖父、朝来万世まよは、この春でちょうど六十歳だった。

 既に白髪白髯ながら、えび茶色の狩衣かりぎぬに包まれた背はしゃんと伸びている。未だに低級な妖種程度なら一人でも撃退してのける、矍鑠とした老人だった。


「ちょっと前までは、剣を振っているのか剣に振られているのか、という有様じゃったが」

「ですね。腰も据わっていたし、一也の言う通り、とても良くなっているよ」


 祖父の横に居た叔父が、穏やかに同意した。


 叔父は、名を百夜びゃくやといい、透哉と瑠璃と玻璃の父親で、三朗たちの母、千夜子ちやこの弟だった。

 一也と似通った凛とした面差しに、ふわりと纏った白の狩衣がよく似合う男ぶりで、妻帯する前は、朝来村はもとより近隣の村々の女たちからも何かと秋波を送られ、騒がれていたそうである。


「兄上の教え方が上手いからだよ」


 照れ隠しにそう言った時だった。


 背後で、あー、という声が上がった。

 振り返れば、縁側に面している部屋の一つ、開け放されたままだった障子の向こうから、生まれて半年になる弟が、小さな手足をよちよちと動かして、縁側へ這い出してくるところだった。


「おお、四輝しき、起きたのか?」

「おいでおいで」


 祖父が破顔し、双子の少女が我先にと手を伸ばす。

 だが、赤ん坊は、少女たちの指先をすり抜けると、あー、あー、と甘え声を上げながら、一直線に三朗の傍へと寄って来た。


「ほほ、やっぱり兄が良いか」

「一也や二緒子におこだけではなく、三朗も思った以上に世話を手伝ってくれると、姉上が喜んでいましたからね」

「そりゃそうじゃよな。八年間末っ子じゃったお前の、待望の弟なんじゃものなあ」


 ぶう、と頬を膨らませた従妹たちに、祖父と叔父が笑い出す。


 三朗は、ちょっと照れくさくなりながらも、嬉しさを隠し切れない顔で、真っすぐ自分のところへやってきた弟を抱き上げた。

 膝に乗せて座らせてやれば、赤ん坊は機嫌の良い声で笑う。


「今日はいいものを持ってきたんだよ、四輝」


 気を取り直した様子で左右に座った従妹たちが、身を乗り出した。


「ほら、これ。昨日、行商の人が村に来ててね、従弟が生まれたんだよって話をしたら、くれたんだ」


 そう言って瑠璃が差し出したのは、赤ん坊の手でも握ることができるくらいの、小ぶりのでんでん太鼓だった。


 四輝は、最初は不思議そうに首を傾げていたが、従姉たちが目の前で鳴らしてみせると声を上げて喜び、小さな紅葉の手を伸ばした。瑠璃が渡してやると、柄の部分を上手に握り、元気よく振り回し始める。


「ひゃっ、危ない」

「四輝ったら、そんなにぶんぶん振り回しても、いい音は鳴らないよ」

「そんなこと言っても、わかんないさ」


 笑って、三朗は従妹たちに言った。


「四輝は、まだ生まれて半年なんだから」

「でも、四輝って他の子と違って、色々早いから」


 玻璃が言い出した。


「竜神様が神珠しんじゅを伯母様にお授けになってから、半年ぐらいで生まれてきたでしょ? 人間の子なら、もっとお母さんのお腹に居るんだよね」

「それに、同じ月に生まれた弥助さんのところの太郎吉は、まだねんねしてるだけなんだよ」


 瑠璃も言った。


「でも、四輝はもうハイハイするし、声も出すし、一人でお座りもできるし」

「それって、やっぱり真那世まなせだから?」


 あっけらかんと尋ねた少女たちに、祖父と叔父がちらと目を見交わし、そして、頷いた。


「そうじゃよ。人の子なら、こんな風に一人できちんと座れるようになるのはもっと後じゃが、一也も二緒子も三朗も、みんな大体半年ぐらいで一人で座れるようになって、一歳になる前にはもう一人で歩いて、言葉を話すようにもなっていたからのう」

「へえー」


 少女たちの感心したような眼差しが、三朗と四輝に注がれる。


「やっぱり、水守みずもりのみんなは、私たちと違うんだねえ」


 三朗は曖昧に笑って、ちょっと目線を落とした。


「そうじゃな。確かに、一也の時はわしらも初めてじゃったから、びっくりしたものじゃ」


 そんな三朗を見やってから、祖父が穏やかに言った。


「しかし、存在の成り立ちは『違う』としても、この天地の狭間に生きる命という意味では、わしらも三朗たちも『同じ』なんじゃよ」

「うん」

「わかってるよ」


 双子が破顔する。

 左右から同時に、三朗の腕に抱きついて来る。


「人も真那世も、美味しいものを食べたら嬉しくて、怪我をしたら痛くて、みんな一緒が幸せのは、おんなじ!」

「――うん」


 少女たちの笑顔に視線を戻して、頷いた時だった。


「はーい。お待たせ」


 家の中から、素焼きの大皿を手にした母が現れた。


「お昼ご飯ですよ」


 その上には、紫蘇で巻いたり、胡麻をまぶしたりしたおにぎりが、山と積まれている。


「今日は、おまけがありまーす」


 そう言ったのは、母の後ろにいた姉だった。

 両手に、同じような素焼きの大皿を持っている。その上には、つやつやと光る小粒の豆を練り込んだ白くて丸いものが、これまた山と乗せられていた。


「豆大福だ!」


 従妹たちが真っ先に歓声を上げた。


「おっと、四輝、これはまだだーめ」


 興味津々で手を伸ばしかけた四輝に気付いて、三朗は咄嗟にその手を押さえた。


「四輝には、これね」


 縁側に大皿を置いた姉が、すかさず差し出したのは、細かく挽いた米の粉を薄く伸ばして、柔らかく焼き上げた煎餅だった。

 昔から、この辺りで乳離れした赤ん坊に与えられているおやつで、四輝は、左手にでんでん太鼓を握ったまま、右手で嬉しそうに受け取ると、さっそくしゃぶりついた。


「姉上の豆大福ですか。久しぶりですね」

「違うのよ、百夜」


 甘いものが好きな叔父が相好を崩し、母がにこりと笑った。


「今日は、二緒子が全部一人で作ったの。私は横で見ていただけ」

「それはそれは、頑張ったな、二緒子」

「二緒子従姉ねえ様、凄い!」

「お母様の教え方が上手いからよ」


 皆からの手放しの賛辞に、姉がはにかみながらそう応じた途端、三朗を除く全員が笑い出した。


「え? なに?」

「だって、二緒子従姉様、三朗従兄様と同じこと言ってるんだもの」

「そう謙遜せんで良い。二人とも、毎日色々と、本当によう頑張っておるのじゃから」

「そうとも。自分たちの努力の結果だと、堂々と胸を張ればいい」


 祖父からの柔らかい賛辞に叔父も言葉を添えてくれて、三朗は思わずのようにこちらを見た二緒子と共に、照れた笑みを滲ませた。


「透哉君、一也も、お稽古はそこまでにして、いらっしゃいな」


 母が、人数分の湯呑みを縁側に並べながら、明るい声で呼びかける。

 稽古の手を止めた兄と従兄がやってくると、家族が全員そろっての昼餉となった。


 母と祖父と叔父が、おにぎりを手に他愛ない四方山話に興じている。

 従妹たちが、今度は一也の両隣を占拠して、叔父同様甘いもの好きの長兄に、自分たちの分の豆大福を一つずつあげようとしている。

 兄が笑って遠慮すると、透哉が、じゃあ俺がもらう、と手を伸ばし、姉が、まだいっぱいあるからと苦笑する。


「ねえ、二緒子従姉様、お昼が終わったら、村の土手にお花摘みに行きましょうよ」

「いいわね。もしかしたら、蕗の薹も出ているかもしれないし」

「それなら、俺と三朗も行くよ。な?」

「うん。もちろん」


 明るく穏やかな昼下がり。

 当時は、当たり前だとしか思っていなかった日常。

 いつもと変わらない朝が来て、いつもと同じように兄に剣術の稽古をつけてもらって、家族そろっての昼餉の後、姉と従兄妹たちと村外れの野原へ遊びに出かけた。笑ったり、口喧嘩をしたりしながら、春咲きの花を摘んで、母の好きな蕗の薹を集めて、いつも通りに他愛ない時間を過ごした。


 だが、いつもと同じ夕べは来なかった。

 永遠に。

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