22 風の崩壊ー2

「え?」


 三朗の手の中で、神剣が小さく震え始めた。

 それが次第に大きく、烈しくなっていく。


 勾玉の首環くびかざりを引きちぎった瞬間、身の裡より湧き上がり、躍り上がった大きな波。

 それは瞬く間に三朗の身体を満たし、腕を、掌を伝って、怒涛のように神剣へと流れ込んでいった。


 それをどう使うべきなのか――そんな思考は思い浮かばなかった。

 ただ、迸る神力ちからに突き動かされるまま、目の前に迫っていた『死』に、それを叩き込んだ。


 そこまでは良かった。


 だが、目の前の『死』を回避して尚、枷を外された神珠しんじゅから迸るものは収まらなかった。

 むしろ際限なく、後から後から湧き出し、溢れ、三朗が握ったままの神剣へと流れ込んでいく。そうして、大山椒魚に向けて放出された分をあっという間に埋め戻した挙げ句、外へと溢れ始めた。


「ちょ、止まれ!」


 神剣がガタガタと震動し、暴れ始める。

 その剣身からは、迸るばかりの神力が、まるで泥のような染みとなってでろでろとこぼれ落ちていく。


 止まらない。制御できない。


(このままじゃ、大変なことになる。また……!)


 焦慮と狼狽が爆ぜた時、心臓が、不意に冷たい掌に握り込まれたような感覚に陥った。


『また』って何のことだ? 


 理性の片隅で首を傾げながらも、三朗は本能的な危機感に煽られるまま、無理やり神剣を解いて、自らのうちへ戻そうとした。


「駄目だ、三朗!」


 ハッと顔を上げた一也いちやが、声を跳ね上げる。


 だが、警告は間に合わなかった。


 掌中で、神剣がかたちを解いた。

 その瞬間、神剣に流れ込んでいた膨大な神力が、怒涛の勢いで逆流して来た。

 それが三朗の体内で、未だ神珠から放出され続けている巨大なうねりと真っ向から激突した。


 目の奥で白い火花が散った。


「うわああああっ!」


 突然の過負荷にさらされた全身の神経と細胞が、悲鳴を上げる。

 両手の指が金釘状に折れ曲がり、硬直し、額や目尻、首筋、手の甲など、身体のあちこちで皮膚の薄い部分が裂けて、一斉に細い鮮血を噴き出した。


「三朗‼」


 一也と二緒子の叫びが重なった時、一旦は収まっていた風が、再び音を立てて巻き始めた。


 最初は、裏庭の木々の梢を揺らす程度に。

 だが、その空気のうねりは、やがて枝をしならせ、幹を揺さぶり、屋根瓦を天の彼方へ飛ばすほどの強風となっていく。


 破砕音が響いた。

 地表にひび割れが生じ、砕けた岩盤が空を舞い、大量の土砂が巻き上げられる。

 その中に、剥がれた屋根瓦や壊れた壁の破片、風の刃で切断された庭木の葉や枝、根ごと地から引き剥がされた幹までもが混じる。


 咄嗟に一也が妹の腕を掴み、地面に引きずり倒すようにして自らの下に庇い込んだ。


「うおっ?」

「おおっ!」


 その風に攫われて身体が浮き上がりかけた戸渡とわたり左門さもんや若党たち、八手一族の戎士たちが、慌てて屋根瓦にしがみついたり、手指の先から放った繰糸を巻き付けたりして、飛ばされることを防いでいる。


「何よ、これ!」


 市女笠いちめがさの少女が喚いた。


「その子、丸っきり、自分で自分の神力ちからを制御できないんじゃない!」


 既に、風は立っていられないほどの強さとなっている。

 少女は笠を押さえたまま地面に這いつくばり、傍らに呼び寄せた女型のトカゲの影に隠れながら、呆れた口調で吐き捨てた。


「わざわざ人工的に『殻』を作って押さえてあったのは、神力が強すぎるだけじゃなく、そもそも制御する能力が無いからってこと? とんだ出来損ないじゃないの!」

「さ、三朗は、出来損ないなんかじゃない!」


 一也に庇われて地面に伏せたまま、二緒子は思わずのように叫び返した。


「何も知らないくせに、勝手なことを言わないで!」

「だったら、この状況をどうにかさせてみなさいよ!」

「あなたの所為でしょう⁉」

「――二緒子、今はそんなことを言っている場合ではない」


 少女同士の怒鳴り合いを、一也の息苦しげな声が遮った。


 頭上では、『力』の渦が舞っている。

 荒れ狂う風が刃となって一也や二緒子の髪先を切り、舞い上がる砂塵が礫となって肌を抉る。


 所有者の制御を離れた神力など、ただ無秩序に荒れ狂う『力』の塊に過ぎない。

 敵も味方もなく、当たるもの全てを切り裂き、薙ぎ倒す。

 まして三朗のそれは、斗和田とわだ真神まがみから直接分けられた神力だ。無防備に晒されれば、一也や二緒子でも無事では済まない。


 何より。


「このまま暴走させ続ければ、三朗の身体の方がたない。止めなければ」

「でも、どうすれば……」

「これ以上拡散させないよう、三朗の神力ちからを抑え込む。そして、封珠ふうじゅを戻す。それしかない」


 一也の視線を受けて、二緒子は息を詰めた。


「あの時、兄様とおじい様がされたように?」

「抑える方は、今の私では無理だ。できるか?」

「や、やってみます」


 頷いて、二緒子は地面に這った姿勢のまま、左の掌を虚空に向けた。そこに生じた光の中に右手を突っ込み、抜き身の剣身を引き放つ。


「頼むぞ」

「はいっ!」


 神剣を一振りした二緒子が、風の渦の切れ目を狙って飛び出す。

 さー、とせせらぎのような音を立てて、剣身に白金色に輝く水流が纏いつく。それで自分自身を護りながら渦を突っ切ると、足場を定めてから、力の限り水流を撃ち放った。


 虚空を奔った水流が、三朗を中心に回転し続ける風の渦に激突する。

 打ち合い、捩じり合い、互いに喰らいつき合いながら、抑え込みにかかる。


 その隙に、一也は上体を起こすと、肘と膝の力だけで、数歩、地を這った。

 それだけで大きく呼気を乱しながらも、腕を伸ばし、前方に転がっていた勾玉の一つを、何とか手の中に掴み取る。


「在るべきものよ、在るべき場所へ」


 一也の掌が、淡い朱色の光を帯びる。

 応じるように、吹き荒れる風の中で、複数の小さな光が閃いた。

 散らばっていた勾玉の石が、一つまた一つと、ふわりと浮き上がり、一斉に一也の手元に集まってくる。


「在るべきものよ、在るべき形へ」


 全てが集結したところで、一也は掌を上向ける。

 すると、朱色の勾玉はその掌の上で一列になり、見えない糸を通されたかのように、元の首環くびかざりの形を取り戻した。


 形を戻した首環を掴んで、一也が引きずり上げるように身を起こした時だった。


「うわああああ……‼︎」


 不意に跳ねた子供の悲鳴が、風の轟音を貫いた。

 地面に膝を着いた姿勢のまま硬直していた三朗の身体が、大きく跳ねる。

 両手が勝手に両腕を掴み、背が丸まり、額を地に打ちつけるほど深く腰が折れ曲がる。


「い、痛い、痛い……っ」


 ごりごりと、骨が軋む。

 ぎりぎりと、内臓が痙攣する。

 手綱を離れて放出され、暴走するばかりの『力』に、身体が内側から破壊されていく。


「嫌だ……」


 このままでは、ばらばらにされる。

 痛覚を直接殴打されているような感覚に、三朗の混乱は容易く惑乱に転化し、そのまま恐慌へと落ち込んでいった。


 一代の神力ちから

 こんなもの、自分から欲しいと思ったものではない。

 なのに、こんなものの為に、母を、故郷を奪われ、兄弟の命を盾に隷属を強いられることになった。

 ならば、せめて大切な者たちを護る為に使えるならと思ったのに、結局、どう使いこなせばいいのかも分からぬまま、自分で自分を壊してしまうというのか?


「嫌だ、嫌だ、嫌だ……!」 


 自分が破壊されていく恐怖に、喉を突く悲鳴が止まらない。


「こんなの、もう嫌だよ。兄上、姉上……!」


 頭の中は真っ白だった。

 理性も思考もない。

 ただ、この激痛から逃れたい。

 その渇望だけが意識野の全てを占める。


「三朗!」


 求めた救いに、応える声が聞こえた。

 それが、恐慌に閉じ込められた心を、僅かながらも切り開いた。惑乱の最中であっても、自分に向かって走り出す優しい気配を見誤る筈はない。


「姉、上……」


 血にまみれ、涙をあふれさせている眸を巡らせて、その姿を求めた時だった。


 大気が軋んだ。

 無秩序に暴走し続ける風と、それを外側から包囲して押さえ込もうとしていた水。

 その拮抗が、二緒子が弟の悲鳴に気を取られた弾みで、崩れた。


 空間が崩壊する甲高い音が、鼓膜を右から左へ走り抜ける。

 一瞬で膨張した風の渦が、巻き付いていた水の軛を振りほどく。

 同時に、その内側で撓められたままだった『力』が箍を外されて爆発し、四方八方へと迸った。


「ひいっ!」

「ぐあっ!」


 背後から濁音だらけの悲鳴が上がった。

 四散したのは、無数の風の刃だった。

 それらが裏庭の木々の枝を裂き、幹を斬り、宿屋の建物の外壁すら破砕する。それに巻き込まれた数人の八手一族が、身体のあちこちを斬り裂かれながら吹き飛んだ。


 その気配を視界ではない感覚によって察知した時、三朗は眸を見開いていた。


「きゃっ!」

「――姉上‼」


 自身の痛みも忘れて、三朗は爆ぜるように上体を起こした。

 三朗に駆け寄ろうとしていた二緒子におこが、真正面から押し寄せた風に跳ね飛ばされ、空を舞う。


 姉の額から跳ねた鮮血が視界を灼いて、三朗は、視界の真ん中に亀裂が生じるのを感じた。


「二緒子!」


 割れた視界の中、駆け寄った一也いちやが二緒子を両腕に掬い上げ、飛び離れる。

 暴走する『力』の塊は、間一髪でその鼻先をすり抜け、そのまま前方へと奔り抜けた。


 そこには、地に伏したままの市女笠いちめがさの少女がいる。

 ハッと顔を上げた少女が、両手で素早く印を結んだ。

 生じたのは楕円形の『盾』、しかも複数だ。

 同時に、女型のトカゲが主の前に立ち塞がり、片腕を広げた。


 風の渦が、その女型のトカゲを直撃した。鋭利な風の刃が、人間の女の象をした上半身も、青光りする鱗に覆われたトカゲの下半身も、全てをばらばらに切り裂いた。


「『竜子たつこ』!」


 少女が悲鳴を上げる。

 風のかたちを取った『力』の塊は、女型のトカゲを粉砕しただけでは止まらなかった。

 少しばかり威力は落としながらもそのまま直進し、少女が巡らせた『盾』に激突する。


「やだ、重い‼」


 少女が小さく声を上げる。

 その時だった。


美波みなみ屋』の裏庭の奥の方から、一つの人影が走り込んできた。

 少女の眼前に飛び込むや否や、その手に携えていた丸い盾をかざし、風の『力』を受け止めて、弾き返す。


「――柾木まさき!」

「手出しは無用ということでしたが、流石にこれは見過ごせませんよ、姫」


 そうぼやいたのは、均整の取れた長身に菱小紋ひしこもん褐衣かちえにくくり袴を纏った、三十歳そこそこの男だった。

 腰には太刀を佩き、髪は結い上げて、頭に被った折烏帽子おりえぼしの中に押し込んでいる。その装いは、彼が貴人に仕える随身ずいしんであることを知らしめるものだった。


「あなたに万一のことがあれば、この柾木は腹を切らねばなりませんからね」

「何言ってるのよ。私たちが勝手にやって勝手に失敗したことで、あなたに腹なんか切らせる訳がないでしょ」


 庇われ、危機を脱した少女が、ぶうと頬を膨らませた時だった。


 悲鳴が轟いた。

 それは、それまでの身体の苦痛を訴えるものではなく、心が割れ砕けたことを教える、凄絶な絶叫だった。


 ***


 飛沫しぶいた緑の体液。

 その中を、千切れた女の首が舞った。


「あ……」


 その光景を映した瞬間、三朗の視界は白濁した。


 代わって脳裏に閃いたのは、春霞の青い空と、白や黄色の小さな花が咲き乱れる野原、そして、その全てを染め上げた赤い雨だった。


 どこかで誰かが叫んだ。

 喉が裂け、肺が破れ、心臓が爆ぜたような絶叫だった。


 それが自分の声だと気付く間もなく、三朗の世界は砕け散った。



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