21 風の崩壊ー1

 三朗の視界に、大山椒魚の頭から跳び、地上に着地した壷装束が映る。

 戎士も顔負けの敏捷な動き。そして、虫垂むしたぎぬの隙間からは、偽りの笑みを引っ込ませた凄惨な表情が垣間見えた。


鬼堂きどう興国おきくにが、もう一人、人質を取った意味がわかるわ。こんな『質』、あり得ない。確かにお兄さんには、どれほど枷をはめても足りないということはないでしょうね」


 片膝を折り、衣の袖を翻して、少女が両の掌を地表につく。

 その掌の下で、金色の光が弾けた。それが霊力で編まれた『くさり』となり、真っすぐ地表を奔って、空中へ躍り上がる。

 その先端が蛇のようにしなり、虚空をのたくって、水守家の三人へと襲い掛かった。


「わっ⁉」

「きゃっ!」


 一本の鎖が、三朗の神剣に巻き付く。

 もう一本の鎖は、一也いちやごと二緒子におこをまとめてぐるぐる巻きにし、拘束した。


「それに引き換え、あなたたちは本当になってないわね」


 少女の視線が、三朗と二緒子に注がれる。


「お兄さんが、無理を通してでも『泥炭でいたん』たちを排除しようとしたのは何の為よ? それを考えたら、あなたたちはさっき、お兄さんに駆け寄るんじゃなく、背を向けて逃げ出すべきだったのに」


 強張る二人の表情を鼻先で笑い飛ばして、少女は傍らの大山椒魚を見上げた。


「さあ、『半裂はんさき』、餌の時間よ」


 応じて、大山椒魚が、ずぶりとその身を地に溶け込ませた。


「っ‼」


 三朗は、神剣の柄を握った両手に力を込め、死に物狂いで『鎖』を振り払おうとした。背後では、二緒子も必死に身をよじり、身体の自由を取り戻そうとしている。


 だが、少女の『鎖』の拘束力は想像以上だった。おまけに、一也を抱えている状態の二緒子は両手が自由にならず、従って、神剣を発現させることができない。


 墨汁のような染みが地表を這う。

 真っすぐ、こちらへ近づいてくる。

 あれに足先だけでも触れたらどうなるかは、もう実証済みだ。


「――桧山ひやま組長!」


 焦慮に突き飛ばされたように、二緒子が肩越しに背後を振り返った。


「お願いです! 手を貸してください!」


 必死の想いを込めた嘆願に、他の戎士じゅうしたちが一斉に組長を見やった。


戸渡とわたり様、ご指示を」


 だが、ここまで傍観を決め込んでいた桧山ひやま辰蔵たつぞうは、すぐには動こうとしなかった。

 ただ、慇懃に、傍らでへたり込んでいる戸渡とわたり左門さもんに問いかけただけだった。


「し、指示と言っても……」


「あなたたちは引っ込んでいなさい」


 戸渡左門が口ごもったところへ、少女の牽制が放たれた。


「私たちは、あなたたちには何の興味も無い。だから、そこで大人しく見ているなら、見逃してあげる。ただし、あなたたちの方から私たちに攻撃してくると言うなら、話は別よ」


 市女笠の内側で、細い双眸が冷ややかな光を放った。


「あなたたちに鬼堂興国おきくにの玩具を護る義務があるって言うなら、その義務を全うすればいいわ。ただしその場合、真っ先に死ぬのはあなたたちよ」


 少女がそう言った途端、地表を這ってくる黒い影の先端が二つに別れた。

 一つは、真っすぐ水守家の三人に向かってくる。

 もう一つは大きく蛇行して、裏庭の隅に固まっている戸渡左門と八手一族の戎士たちの方へ向かっていく。


 途端に、戸渡左門が裏返った悲鳴を上げた。

 その腕を掴んだ桧山辰蔵が大きく跳び下がり、半壊している『美波みなみ屋』の屋根の上に退避する。木梨きなし鹿之助しかのすけを始めとする五番組の戎士たちも、黒衆の郎党二人を連れて、近づいてくる大山椒魚の影から我先にと逃げ出した。


 どれほど水守家が気に喰わずとも、『貴重な真那世の一代』をむざむざと喪えば、後で鬼堂興国から懲罰まがいの叱責を被るのは必至だ。


 だが、三年前の戦で、多くの身内、同胞を殺した『斗和田の化け物』の為に、敗北する公算が高い相手に挑むような危険も冒したくはない。


 要は、そういうことのようだった。


 二緒子の顔に絶望が昇った。

 三朗は、歯を噛み鳴らした。


 誰も、助けてなどくれない。

 既に知っていた現実でも、改めて突きつけられてみれば、目の前が黒く眩んだ。


 大山椒魚の影は、もう目の前だ。

 このままでは、本当に喰われる。

 先ほどの、あの八手一族の若者のように。


(――嫌だ)


 ぞわり、と身の裡が粟立った。


(力が欲しい)


 ずっとそう思っていた。

 理不尽な暴力に全てを奪われたあの時から。

 如何なる理不尽も不条理も打ち破ることができる力が。

 もう何も喪わずに済む為の力が。


『それを外せば、自分の力で敵を排除できるんじゃないの?』


 少女の指摘が、閃光のように脳裏を過る。

 同時に、三朗の片手が神剣の柄を離れ、首の勾玉を掴んだ。


 ***


 朱色の勾玉を連ねた首環くびかざり

 これは、物心ついた頃には、既に三朗の首にかかっていた。母からも祖父からも叔父からも、何があろうと決して外すなと言われ続けてきたから、三朗は鍛錬の時も風呂の時も就寝の時すら、これを外したことはなかった。


『二緒子は、生まれた時から、霊珠れいじゅの力の方が強かったわ』


 幼い頃、何故この首環を外してはいけなのかと問うた三朗に答えてくれたのは、母だった。


『逆にあなたは、神珠しんじゅの方が、『殻』に包まれていてさえ、一也や二緒子より強かったの。その所為かしらね、赤ん坊の頃から、あなたが泣く度に水差しが割れたり、障子が破れたり、近くに居た大人が吹っ飛ばされたりしていたのよ』


 赤ん坊は世話を求めて泣いているのに、周囲の大人たちは近づきたくても近づけない。

 そんなことが繰り返された。


『だから、あなたのおじい様が、その勾玉を造ったの。強すぎる神珠の力を抑えて、あなたの双珠そうじゅの安定を保つ為に』

『兄上や姉上はそんなことは無かったのに? それじゃ、僕は出来損ないってこと?』

『あら、三朗、持って生まれたものに、まして自分自身に対してそういう言葉を使うのは、良くないことよ』


 小さくなって問うた三朗に、母はおっとりと首を振った。


『あなたの在り様は、ただそう在るというだけ。そして、人であれ真那世であれ、その命の価値を決めるのは、持って生まれたものではなく、生き方の方だから』


 自分の在り様を僻むのではなく、それをどう活かして生きていくのか。

 それをこそ考えなさい――と。


 ***


 轟、と大気がうねった。


 ばらばらと空に散った、朱色の勾玉。

 それが、一つ、また一つと地に落ちた時、無風だった大気が、突如、大きな渦を巻き始めた。


「風?」


 少女が虚空を見上げた。


「そう。お兄さんが雷、お姉さんは水ときて、その子は風なのね。なるほど、如何にも竜神の子供たちらしい神力ちからかたちじゃない」


 巻き始めた風。

 それが、三朗の掌中に収斂していく。

 同時に、三朗の神剣は見る見るうちに更なる神力を帯び、星明りを内包する夜闇のような光を放ち始めた。


 「兄上と姉上を喰わせたりするものか」


『鎖』が、ばきん、ばきん、と音を立てて、数か所で切れ砕ける。

 自由になった神剣を、三朗は、頭上に振り上げた。


 優しかった母はもう居ない。

 博識で頼もしかった叔父も、封珠ふうじゅ首環くびかざりを造ってくれた陽気な祖父も、皆、歿った。

 一方的で理不尽な暴虐によって。


「そんなものに、もう二度と、家族を奪わせたりしない!」


 たましいの玄奥から迸った怒号と共に、その切っ先を突き下ろす。足元まで迫っていた大山椒魚の黒い影、その先端へと。


 触れた途端、剣身にまとわりついていた漆黒の燐光が、じゅるっと音を立てて影の中に吸い込まれた。先の二緒子の水流のように。


「残念。『半裂はんさき』は『力』を吸収するの。妖力だろうと霊力だろうと、はたまた神力であろうと、『力』でさえあれば何でもね。だから、どれほど斬りつけたところで……」


 少女が言いかけた時だった。

 一旦は燐光を吸い取られた三朗の神剣が、再度の輝きを帯びた。先ほどよりも更に強く、大きく。

 それを、地表の影が再び吸収する。


 次の瞬間だった。

 三朗の目の前の地面が吹き飛んだ。

 舞い上がる土煙、飛び散る岩石に混じって、大山椒魚の巨体が跳ね上がる。三つの頭が左右に振り回され、ぶよぶよとした蒟蒻のような肉の器が苦し気に空をのたうった。


「『半裂』⁉︎」


 少女の狼狽が爆ぜた時、いきなり、大山椒魚の四肢が引き裂かれた。

 それも、内側からだ。


「え?」


 少女が呆けたような声を上げ、二緒子におこも、一也いちやすらも息を詰めていた。


 三つの頭が、短い手足が、太い胴体が、見えない無数の刃に切り刻まれたかのように、一瞬でばらばらになる。

 三朗の神力の強さと量が、それを吸収する妖種の許容量を上回ったのだ。

 妖珠ようじゅが砕けたことを教えるように、切断面から迸った緑の体液が大気中に撒き散らされて、地表に落ちる前に端から塵となって消えていった。


「嘘」


 少女が呆然と呟く。


「あの『半裂』が、一瞬で?」

「兄様、三朗が……」


 二緒子が、今にも泣き出しそうな安堵の声を上げる。

 だが。


「――いや、駄目だ」


 一也は双眸を歪め、低く呻いた。

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