11 『質』

 小さく息を溢すと、三朗は視線を上げて、眠り続けている兄を見つめ、それから、隣で項垂れている姉を見やった。


 真那世まなせの感覚が、姉の胸部に、緩く重なり合う二つの光が存在していることを伝えてくる。

 それは、一つは淡い白金色、もう一つは仄かな朱色の燐光に縁取られている、繭玉ぐらいの大きさの、二つの珠だ。


『――ねえ、叔父上、どうして母上や叔父上やおじい様には、胸の中の珠が一つしかないの?』

『私たちは、人間だからね』


 幼い頃、自分たち兄弟と、母を含めた周囲の人々との根源的な違いに気付いた三朗に、この世の命の在り様から説明してくれたのは母の弟、すなわち叔父だった。


『この天地の間に在る命は、肉体と精神の二つから成り立っている。肉体の核は心臓、精神の核はたましい。私たち人間の珠は霊珠れいじゅと呼ばれ、真神のそれは神珠しんじゅ、妖種は妖珠ようじゅと呼ぶ』

『うん。それは知ってる』

『通常、一つの命が持つのは、一つの心臓と一つのたましいだけだ。だが、この世の中で、お前たち真那世だけは、父なる神から受け継ぐ神珠と、人の親から引き継ぐ霊珠の両方を持っている』


 叔父の手が、軽く三朗の胸部に当てられた。


『けど、それは、二つの命を持っているということではないよ。真那世といえど、心臓は一つ、神珠と霊珠も、あくまで二つで一つのたましいだからね。それが互いに作用し合って、本来なら人の身には宿るべくのない神の力を霊の力で抑制し、安定させているんだ』


 だが今、一也いちやの身の裡に感じられる光は一つ、母から受け継いだ霊珠の光だけだった。


 父神から授けられた神珠は、鬼堂興国に奪い取られてしまっているからだ。


(『神縛かみしばり』……)


 異形いぎょうからその神珠もしくは妖珠を引き剥がして自らの掌中に握るという、神狩かがり一族の秘術。


 真神であれ妖種であれ、たましいは精神の核であるから、それを奪われれば、その存在からは自我が失われる。そうして、命じられるままに神力もしくは妖力を振るう凶器として、術者の完全な使役下に置かれる。


 つまりはそれが、大咲村の人々が言っていた、黒衆くろしゅうを『妖種すら捕えて家畜みたいに使役する凄い方々』たらしめている秘儀なのだった。


 その彼らは、『神縛り』にかけて自分たちの使役下に置いた異形を『使つかい』と呼んでいる。


 ただ、真神を『使』に降した例は知られていない。

 現在の黒衆の術者たちが所持している『使』も、全て妖種だった。


 だから、三年前、鬼堂興国おきくには斗和田へ現れたのだという。斗和田の湖の真神――すなわち、三朗たちの父神を己れの『使』に降す為に。


 その彼の前に立ち塞がったのが、五百年以上前から斗和田のほとりに住み、湖の竜神を祀り、その暴威と恩恵と共に世代を重ねて生きて来た、朝来あさぎ村の人々だった。


 中でも、村の神社を拠点とし、斗和田の真神と朝来村の人との仲立ちを務めていた神和かんなぎ一族は、強い霊力と独自の霊能の技を以て、鬼堂興国率いる黒衆の術者たちに、そして、その麾下である八手やつで一族の戎士じゅうしたちに、対抗した。

 当時、まだ十歳と九歳だった二緒子と三朗がその戦列に並ぶことはなかったが、十七歳に達していた一也は父神譲りの神力ちからを振るい、多くの術者や戎士たちを撃ち倒している。


 だが、最終的には数の差が勝敗を分けた。


 一昼夜に渡った死闘の末、神和一族は壊滅。その後、斗和田の湖が決壊したことで、朝来村は濁流に呑み込まれ、この世から消滅した。


 ただ、鬼堂興国の勝利も完璧なものではなかった。

 多くの麾下を喪い、自身も左眼を損傷し、そして何より、真神を『使』に降すという目的を果たすことができなかったからだ。


 彼が斗和田で唯一手に入れた戦果、それが一也の神珠であり、水守家の兄弟たちだった。


 ただ、真那世は真神や妖種と違って、身の裡に霊珠を合わせ持つ為、神珠を奪われても自我を失うには至らない。

 故に、一也は黒衆から、『使』ではなく『質』と呼ばれている。文字通り、人質という意味だ。


 真那世の神珠と霊珠は、二つで一つ。故に、本来の持ち主の身体から奪われて尚、その二つの間には目に見えない繋がりが存在する。


 だから、以前、鬼堂興国が三朗たちの前でやって見せたように、奪った神珠に呪詛じゅそ呪毒じゅどくの類を注ぎ込めば、霊珠を通して、『質』の心身に実害を与えることができる。

 仮に、神珠を握り潰しでもすれば、霊珠もその作用を受けて崩壊する。核を失った精神は死に至り、それはやがて肉体の核である心臓にも及んで、『質』の命を絶つのである。


 つまり、鬼堂興国は、やろうと思えば、例え目の前に居なくても、いつでも一也の命を奪うことができるのだった。


 その事実を盾に、彼は一也自身に、そして二緒子と三朗に、己れへの服従を強いた。


 それだけでも理不尽極まりないことだが、神珠は神力の源であるから、一也はそれを奪われた日から、以前のようには神力を操ることができなくなった。


 また、常に不調を抱えて、長時間の労働や戦闘は不可能となり、すぐ眩暈や発熱を起こしては、月の半分は床に臥すようになった。


(それでも……)


 一也は、三朗たちの保護者で在り続けてくれている。

 命の緒を、故郷を滅ぼした仇に握られながら、自らの意志で戎士の任を担い、命じられるままに『役』をこなし、普段の生活の中でも、黒衆や八手一族の理不尽や嫌がらせから弟妹を庇い、護ってくれている。


 だからこそ、三朗と二緒子は、早く強くなろうと約束したのだ。家族の誰かが鬼堂家の下で戎士の責務を果たさなければ生きていけないなら、自分たちでそれを引き受けられるようになろう、と。


 兄が毀れてしまう前に。

 その重荷に、潰されてしまう前に。


 ――けれど。


「三朗は、今日の初陣で思わなかった? 独りじゃ怖い、って」


 心に隙間風が吹いた時、それを見計らったかのように、二緒子が小さく呟いた。


「私は思った。去年の『役』で、目の前で人が妖種に食べられるのを見たの。失敗したら私もああなるんだって思ったら、怖くて怖くて手も足も動かなかった」


 立てた膝頭に、姉の顔が伏せられる。


「それでも何とか走れたのは、兄様が居てくれたから。万一の時は絶対に助けてくれるって知っていたから。それじゃ駄目なのに。そうやって頼ってしまうから負担をかけるんだって、分かっているのに」


 二緒子の肩が小さく波打って、更にぎゅっと両膝を抱き寄せた。


「『役』の度に、何度も考えた。私は、兄様が居なくても、独りで妖種に向かって走れるだろうかって」


 できなければならない、と分かっている。


 けれど、何度考えても、『できる』と胸を張ることができなかった。


「ごめん三朗、こんな泣き言。やっぱり駄目ね、私……」

「何言ってんだよ」


 心臓がぎゅっと握りつぶされるような気分になる。

 それでも、三朗は精一杯のいたわりを込めて、首を振った。


「いいんだよ。泣き言なんて、いくらでも言ってくれて。姉上は、兄上や四輝しきの前ではいつも無理して笑ってんだから。俺にまで恰好つけることはないんだよ」


 昼間の酷い笑顔を思い起こしながら、両の拳を握りしめる。

 あんな顔で笑わせるぐらいなら、泣いてくれる方がずっと良かった。


「怖くて、当たり前だよ」

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