10 斗和田・喪失の光景ー2

「――降りてこい、斗和田の化け物ども!」


 朝陽が徐々に角度を変えていく。


 その鮮烈な光の下、三朗は二緒子におこと二人、高い樹上で手を握り合ったまま、動くものが何もなくなった崩壊の光景を、ただ呆然と見つめていた。


 そこへ、怒鳴り声が響き渡った。


 ハッと視線を投げ落とせば、二十人近い男たちが木の周囲を取り囲んでいた。


 全員、髪を角髪みずらにして、檜皮ひわだ色の上下を纏っている。

 中心にいるのは、黒ひげを蓄えた四十代の男だった。こちらを睨み上げてくる金壷眼にもその全身にも、殺気立った猛々しい気配が漂っている。


「大人しく降りて来ないなら、撃ち落とすぞ!」


 語尾に、ばしっ、ばしっ、という音が重なった。

 数人が、自身の人差し指と親指の間に神力ちからで編んだと思しき糸を張り、そこに石塊を挟んで引き絞ると、弾弓の要領で飛ばしてきた。


 着弾の衝撃で、すぐ足下の枝が折れて弾け飛び、近くの幹が大きくえぐれて木くずが飛び散った。

 至近でそれを浴びた二緒子が、悲鳴を上げて身を縮める。

 その様子を見上げた男たちが、ささくれ立った嗤い声を上げた。更に二度、三度、撃ち放たれた石塊が顔や身体のすぐ近くを奔り抜ける。


 三朗の胸奥に、灼熱が弾けた。

 怯える姉と弟に覆いかぶさりながら、恐れよりも怒りが勝った視線を下に向けた。

 その時だった。


「お止めなさい、子供相手に!」


 鋭い声が響いた。


 下の男たちが、ざわっと揺れた。

 そこに現れたのは、涼やかな目元が特徴的な、二十歳になるかならぬかの青年だった。

 同じ角髪、同じ檜皮色の上下を纏っているが、石塊を撃ってきた男たちに同調するのではなく、逆にその中の一人の肩を掴み、突き飛ばすようにして押しのけた。


「――何を甘いことを言っている、伊織いおり


 黒ひげの男が、余裕のない血走った表情で、その青年を睨んだ。


「あれは子供じゃない。斗和田とわだの一代という名の化け物だ。手足の一本も撃ち抜いておかねば、危なくて仕方がないぞ」

桧山ひやま殿、その台詞、我らの一代目の先祖たちにも言えますか」

「なに……」

祖神そじんは違えど、同じ真那世まなせでしょう? 退がって下さい。子供相手に恥さらしな真似を止めないなら、この場は私が預かります」


 ぴしりとした口調で二回りは年長の黒ひげの男を窘めると、青年は他の男たちを木の根元から遠ざけ、頭上にいる三朗たちを見上げてきた。


「斗和田の竜神の御子らですね? 私は、八手やつで一族族長、針生はりう長十郎ちょうじゅうろうが末弟、伊織と申します」


 淡々とした口調だった。勝利に驕る様子も、殺気だった刺々しい空気も、敗者をせせら嗤う蔑みの気配も、何も無かった。

 だが。


「君たちの兄上と神和かんなぎ一族は、我らの主公しゅこうに敗れました。だから、君たちがそこでそうしていても、助けに来る者は、もう誰も居ません」


 だからこそ、その恬淡とした口調が突き付けてきたのは、抜き差しならない現実だった。


「私たちについて来て下さい。大人しく従うなら、着替えや食べ物も用意します。一晩、雨に打たれた後でしょう? 特に、赤子に冷えは毒だ。早く暖めてやらなければ、取り返しのつかないことになりかねない」


 三朗の胸郭の奥で、心臓が引き攣った。

 無意識に巡った視線が、同じように巡って来た二緒子の視線を捕らえる。

 互いに、自分自身の顔に登ったに違いない表情を、相手の顔に見ていた。


「――君たちの兄上が何と仰っていたか、聞いていたでしょう?」


 青年の声音が、僅かに変わった。

 怒りや憎しみではなく、痛みと哀しみを凝らせたように。


「生きろ、と言っていたでしょう? 今の君たちにとって、その為の唯一の道は、我々と共に来ることです。八手一族本家の名にかけて、危害は加えないと約束します。だから、降りていらっしゃい」


 三朗と二緒子は、恐怖と絶望に飽和し、もはや泣くことすらできない顔を、再度見合わせた。そして、ほぼ同時に機械的に視線を傾け、自分たちの腕の中で丸くなって眠っている四輝しきを見つめた。


 言葉での相談はなかった。

 ただどちらからともなく頷き合って、のろのろと樹上から降りていくことを選択した。


 そうして、ぬかるんだ泥土に足裏をつけた時、三朗たちは、家族と故郷に続いて、自由をも失ったのだった。


 ただ一つ幸いだったのは、伊織と名乗った青年が、約束を守ってくれたことだった。

 同族たちの憎悪とも嫌悪ともつかない視線を自らの身体で遮りながら、三朗たちをまとめて荷車に乗せ、急場の飢えを満たすための兵糧丸ひょうろうがんや濡れた身体を拭く為の乾いた布を渡してくれ、四輝の為にと山羊の乳まで手に入れてきてくれた。


 そうして、荷車で運ばれて連れて行かれたのは、五里ほど離れたところにある最寄りの村だった。


 しかし、三朗たちも知らない訳ではないその村の人々の姿は一人も見えず、ただ、甲冑を纏って弓矢を背負った人間の武士たちや、檜皮色の上下を着た真那世の男たちだけが往来を行き交い、家々の前にたむろしていた。


 その中、三朗たちは三人だけで、村外れの一軒家に押し込まれた。

 板敷きの六畳一間に猫の額ほどの土間がついているだけの小屋だったが、裏手には厠と井戸があり、六畳間には小さいながらも囲炉裏が切られていた。


 その周囲は常に監視され、厠と井戸以外で外に出ることは許されなかった。


 ただ、監視者たちが小屋の中に入ってくることはなく、伊織だけが一日に一度やって来て、少量の雑穀や兵糧丸などの食料の他、替えの衣や四輝の襁褓むつきまで届けてくれたので、三朗は二緒子と共に、とにかく四輝を護ることだけに意識を傾けた。


 山羊の乳で煮潰した雑穀の粥を食べさせ、囲炉裏の火で沸かした湯で身体を拭いてやり、夜は三人で川の字になって眠った。

 四輝が母を求めて泣けば、二緒子と交代で抱いて、一晩中でもあやした。


 そうして、その日その日を生き抜くことだけを考えていれば、何も想わずに済んだ。

 居なくなってしまった家族のことも、喪った過去も、これから自分たちがどうなるのかという不安も。

 だから、唯一小屋を訪れる伊織はおろか、二緒子との会話すら雑事の手順や分担の相談だけになり、笑うことも怒ることも、泣くことすら一度も無いまま、ただ時間だけが過ぎていった。


 そうして、十日ほどが過ぎたある日――その男が、三朗たちの前に現れた。


 幽閉された一軒家の戸口が前触れもなく引き開けられた時、三朗と二緒子は、四輝と共に、その戸口から一目で見渡せる六畳間の囲炉裏端に居た。突然の物音に驚いて振り返ると、小屋の戸口に、銀灰色の髪と猛禽のような眸を持つ、四十代そこそこの男が立っていたのだ。


 そして。


「――二緒子、三朗、四輝」


 その横に、黒衆の術者たちに両腕を取られた一也いちやがいた。

 疲労困憊の態で、顔からは血の気が引き、その神気しんきは異常なほど衰えていた。

 だが、自分たちに向けられた眼差しに滲んだ深い安堵と、呼びかけられた声に満ちる慈愛の響きは、疑いようもなかった。


「あー」


 真っ先に声を上げたのは、炉端でお座りをして、玩具代わりの木の板を叩いていた四輝だった。長兄を見つめて嬉しそうな声を上げ、満面の笑顔になると、紅葉の両手をぱちぱちと叩いた。


「兄様?」

「兄上!」


 呆然自失は、一瞬だった。


 次の瞬間、二緒子と三朗は、我先に土間へと飛び降りていた。

 短い距離を、空を跳ぶように走って、兄に飛びつき、しがみついて、その命の鼓動と温もりを確かめた瞬間、揃って悲鳴のような声で泣き出した。


 十歳と九歳で、突然、命と姉弟以外の全てを奪われた。

 敵意と憎悪だけを漲らせる侵略者たちに囲まれ続けた。


 恐怖も不安も言葉にならないほど大きかったけれど、それでも、まだ何も知らず、わからない小さな弟だけは護らなければと、懸命に気を張り詰め続けていた。


 そんな三朗と二緒子にとって、兄が生きていてくれたという事実は、天地がひっくり返るほどの狂喜と安堵をもたらすものだった。

 そして、そんな二人を、飛びつかれた勢いで土間に両膝をつきながらも、一也はしっかりと受け止め、抱きしめてくれた。


 だが。


「斗和田の小童こわっぱども」


 再会の歓喜は、冷酷な現実を突きつける声によって、霧散した。


「わしは鬼堂きどう興国おきくに。五百余年の昔、御間城みまきの帝に従って、南方の朱鳥あけとり一族、西国の亀蛇きだ一族、畿内の白良はくら一族ら、名だたる真那世まなせの大国を討ち滅ぼした神狩かがり一族が御三家の一、鬼堂家の主だ」


 左眼に真新しい眼帯を掛け、残った右眼に冷たい炎を燻らせながら、戸口に立ったままの男はそう言った。


「お前たちのことは、生かしておいてやる。そこの赤子にも、成長の為の時間と場所を与えることを許してやろう。その代わり、お前たちは、このわしに一代の神力ちからを捧げることを務めとせよ。我が命に従い、我が戎士として、人の世の為に働くのだ」


 一也は、その男を見ようとはしなかった。


 逆に三朗と二緒子は、そんな兄の腕の中から、困惑と混乱の表情で視線を上げた。


 揃って、咄嗟には、男が何を言っているのかわからなかった。

 だが。


「もし、お前たちが役に立たなかったり、身の程知らずにもわしに背いたりした時は――」


 視界に、酷薄そのものの眼差しが映る。

 同時に、男は右手を持ち上げ、掌を上向けた。

 そこに現れたのは、淡い蒼銀の光に縁取られた、繭玉くらいの大きさの珠だった。


「嘘」

「――え?」


 二緒子が先ほどとは違う悲鳴を上げ、三朗もまた一拍遅れて愕然とした。


「嘘ではない」


 少年少女の驚愕を嘲笑うと、鬼堂興国はその珠を掌の中に握り込み、自分の爪先を、表面に軽く食い込ませて見せた。


「っ!」


 その瞬間、一也が鋭く呼吸を引いて、腰を折った。

 不意の激痛に強張った身体に、食いしばられた歯の軋みと苦痛を堪える幽かな呻きに、心臓が凍った。


「――やめて!」

「――やめて下さい!」


 兄を襲った厄災の正体に気付くと同時に、二緒子と三朗は絶叫していた。


「わかったな?」


 命の中枢に直接加えられた暴虐に耐えている一也と、そんな兄に左右からしがみついた少年少女を見下ろして、鬼堂興国は冷ややかに嗤った。

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