10 斗和田・喪失の光景-1
頭上には漆黒の天。
鳴り響く地鳴り。
「――逃げろ」
その中で、自分たちを庇って、たった一人で襲撃者たちに立ち向かい続けていた兄が、最後の力を振り絞るようにして叫んだ。
岸壁の下では、
その中で、一年前に一度見えたきりだった、蒼銀にも白金にも漆黒にも見える鱗に覆われた長大な竜身が、大きくくねった。
天に向かって伸びる双角が、燐光をまとってたなびく白いたてがみが、その端から淡い光の粒子に変じて、消えていく。
「鄙の田舎術者の一族ごときが、よくもわしの邪魔をしてくれたな」
呆然と見上げることしかできずにいた九歳の三朗の聴覚に、赫怒と屈辱にまみれた男の呻き声が届いた。
「もう少しで手に入れられたものを。
父神に向けられていた執着の眼差しが、怒りという新たな感情を乗せて注がれてくる。
立ち尽くす三朗へ。傍らで、まだ生まれて半年の弟、
そして。
「生きろ」
目の前に立ちはだかり続けてくれていた兄の背が、初めて揺れた。
「四輝を頼む。生き延びろ。お前たちだけでも!」
語尾に、蒼銀の雷光が重なる。
地を穿ち。闇を切り裂いて。
鮮烈な光輝が、二緒子と三朗めがけて殺到しようとしていた、
「――
遠くで誰かの絶叫が轟いた。
見開いた視界の中、光と闇とが交錯する。
断末魔の絶叫が跳ね、今まさに三朗たちに掴み掛かろうとしていた男たちが一瞬で炭化し、地に転がった。
瞬間、三朗の手足は勝手に動いていた。
硬直している姉の手を掴んで、殆ど身動きできない状況に追い込まれていた兄が、それでも死力を振り絞って崩してくれた包囲網の隙間へ、飛び込んだ。
だが。
追手を振り切って、
空が割れ、山々が砕け、その裂け目から大瀑布となって躍り出た漆黒の濁流を見た。
「斗和田の湖が、溢れた⁉」
「こっちへ来る!」
相次ぐ衝撃に頭も心も真白に近かったが、それでも二緒子と二人、死に物狂いで手近にあった大樹の枝に飛びついた。
助け合いながら必死で頂き近くまで登り、怯えて泣き続ける赤ん坊の四輝を間に挟んで、幹にしがみついた。
「あっ!」
不意に、二緒子が小さな声を上げた。
風に小袖の袂が煽られる。その弾みで、袂に入れていた小さなでんでん太鼓が落ち、逆巻く濁流の中に消えて行った。
「
二緒子が唇を震わせた時、荒れ狂う波濤が山の稜線を駆け下り、三朗たちが避難した大樹の根本へも襲い掛かってきた。
どん、と突き上げるような衝撃と共に、樹齢千年はあろうかという大樹が大きく撓む。
二緒子が悲鳴を上げて四輝を庇い込んだ。
同じ恐怖に心臓を鷲掴みにされながらも、三朗はその上に覆いかぶさって、死んでも離すまいと木肌に爪を立てた。
目と鼻の先を、巨大な岩が、まるで軽石のように流されていく。
へし折られた木々がまだ立っている木々の幹にぶつかり、そこへ後から後から土砂が積み重なって、新たな破砕音を響かせる。
天が哭いている。
地が吼えている。
轟音と共に全てを呑み込んでいく濁流は、始原の時より共に在った真神を奪われた斗和田の湖の怒りであったか、慟哭であったか。
どちらにしても、やっと十歳と九歳にしかならない二緒子と三朗に、それを鎮める術はなかった。
ただ必死に互いの手を握り合い、
泣き疲れて意識の糸が切れたのか、四輝の泣き声が聞こえなくなる。
幹にしがみつき続けている両手の指の感覚が無くなってくる。
目の前が白く染まり、次に黒く染まり――そして、ふと風雨の途絶えを認識した。
おそるおそる顔を上げた視界に、東の稜線から顔をのぞかせた太陽の光が映る。
その光が、漆黒に染まっていた空を透き通るような蒼に変えていき、闇に沈んでいた周囲の様子を浮かび上がらせていった。
咄嗟の避難場所に選んだ大樹は、最後の最後まで雨と風の怒りに耐えきり、子供たちを護ってくれていた。
だが、周囲の木々は大半がへし折られ、倒れ、地面ごと抉られて、岩や土砂と共に積み重なり、惨憺たる有様となっている。
そして。
呆然と巡らせた視線が、山の斜面の先を見通した時、三朗の心臓は束の間、動きを止めた。
そこに、三朗が九年間親しんできた故郷はなかった。家も、田畑も、神社も、全てが消えていた。見えるのは、見渡す限りの広範囲に黒々と横たわる、厚い水の澱みだけだった。
***
『
よって、一階の座敷には窓というものがなかった。
月明かりも星明りも届かなければ、日が落ちると部屋の中は真っ暗になる。
据え付けの行灯に火を入れることも当然禁止されたので、三朗は二緒子と共に兵糧丸の夕食を終えると、早々に兄を挟んで横になった。
その呼吸の音は、早く、浅かった。
暗闇だけを見つめながらその幽かな音を聞いていると、胸奥に不安と恐怖が忍び込んでくる。このまま息が止まってしまうのではないか、と。
眠れないまま、何度も寝返りを打っていると、二緒子が起き上がる気配がした。
暗闇を透かして見ると、一也の傍らから身を乗り出して、額に手を当てている。
「熱、出てる?」
「うん……」
声を潜めて問いかけると、二緒子はひっそりと答えて、兄の胸部に両手を添えた。
その手が、淡い朱色の光を帯び始める。
「姉上、兄上の不調は、病や怪我や呪詛なんかとは違うから、
「うん、わかってる……」
ぎこちなく指摘したが、二緒子は手を引こうとはしなかった。
心配で、不安で、無駄だとわかっていても何かせずにはいられない――そんな気持ちが伝わってきて、三朗は口を噤んだ。
「あなたは寝ていていいのよ」
「眠れないよ。とても」
二緒子が一也の枕元に腰を落とす。
胸の前で両膝を立て、両腕で抱え込む。
起き上がって、三朗もその横に座り、同じように両腕で両膝を抱えた。
「三朗」
しばらくの沈黙の後、二緒子がひっそりと呟いた。
「あの時のことを覚えてる?
「うん……」
「兄様は『質』の重荷を背負ってくれた。だから、
「うん」
僅かに目線を上げて、三朗は、まだそう遠くはない過去へ想いを馳せた。
「勿論、覚えてるよ……」
あれは、
朝は突き抜けるような青空が広がる良い天気だったのに、当たり前だと思っていた日常が急転した時を境に急速に黒雲が立ち始め、日暮れと同時に雨が降り出した。
その豪雨の中で、三朗と二緒子は、自分たちに命と神力を授けた父神の消滅を見、家族の、同胞の、故郷の最期を目の当たりにした。
だが、それは、始まりに過ぎなかったのだ。
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