番外編:俺たちをあの世界から解き放ってくれる人
「さようなら」
オリヴィが俺たちの元から去った時、世界が終わったと思った。いや違う、俺の世界が終わったのは、正確にはもう少し前のことかもしれない。
あれは王宮から屋敷に戻る路でのことだった。馬車の窓からぼんやり外を眺めていた俺は、こちらに向かって歩いて来る男女に目を留めた。平民風の服を着ているが貴族ということが明らかな立ち居振る舞いだった。
身分を隠すくらいだ。人目を忍んでの逢瀬だろうに、二人は何の後ろ暗さも感じさせず、仲睦まじく楽しそうに話をしていた。俺が誰かとあんな風に心から会話を楽しめたのはいつが最後だろう。思い出せるのは、まだ、ジェイドとオリヴィと共に庭を転げまわっていた頃くらいだ。
うらやましいと思った。しかし馬車が二人とすれ違う寸前に女性の顔を見た俺は、頭を殴られたような衝撃を受けた。
「止まれ!」
大声をあげて馬車を止めさせた。馬が抗議の鳴き声をあげている。慌てて扉を開けて転がるように出た先には、オリヴィと見知らぬ男がいた。
全てが終わった今でも、オリヴィがルイ・ジルウォーカーに向けていた笑顔が脳裏から離れない。あれは彼女が家族と俺たちだけに向けていた笑顔だ。
あの笑顔を見た時点でもう、俺は負けを悟っていたのだと思う。
ジェイドも後に語った。ルイ・ジルウォーカーの正体に気が付いて出入りを禁止しようとした時、オリヴィは当然のようにあの男を選んだと。
「俺を追い出してまで、あの男との交流を続けようとしたんだ」
気づいた時にはもう負けていた、そうつぶやいていた。
連れ立って歩く二人に会った後もそうだ。あの男は、自ら素早く醜聞を広げ、釈明に追われた俺は彼女を直接連れ戻す事にまで手が回らなかった。その間にオリヴィの姉が借金と支援を返却してしまい、俺たちは切り札を失った。
ルイ・ジルウォーカーの手腕は鮮やかだった。
オリヴィが去った後、浅はかな企みを暴かれた俺は憑き物が落ちたように、全てに対して関心を失った。そもそも、俺は深く考えるのが苦手で、策謀はいつもジェイドの担当だった。俺がジェイドを謀ろうなんて、はなから無理な事だった。俺は、やるべきことを淡々とこなすだけの木偶人形になった。
オリヴィとの離婚を成立させ、ジェイドと一緒にあの男に報告に行った時にも、何も感じていなかった。ジェイドの言うがままに動いていただけだ。
「わざわざ二人そろって報告に来るなんて、お前たち本当に面倒臭いよ。顔なんて見たくないんだから、手紙を送るとか、人に報告させるとか、会わなくて済む方法が色々あるだろう。これだから育ちのいい奴は嫌なんだよ」
口では迷惑だと言いながらも丁寧にもてなしてくれた。
「もともと、あなたの縁談を横取りしたんだ。申し訳ないことをした」
謝る俺とジェイドに不愉快そうな顔を隠さない。
「何だよ、謝るなよ。嫌な奴のままでいてくれないと、後味が悪いじゃないか」
そうして『面倒だ』と何度も言いながら、俺たちの面目が立つ方法を考えてくれた。
王子との結婚を『恐れ多い』と怖がった幼馴染を助けるために結婚した。
その幼馴染は、元々進めていた縁談相手のルイ・ジルウォーカーに想いを寄せていた。
ずっと想い合っていた二人のために離婚して、再婚を快く祝ってやる予定だ。
こういう美談に仕立て上げる、と言うのだ。
「王子の立場が微妙だけど、これが精一杯だ。いいか、ちゃんと口裏を合わせろよ?」
なぜ、と驚く俺たちに、ますます不愉快そうな顔になったルイ・ジルウォーカーは続ける。
「だって僕の可愛い奥さんのオリヴィが、お前たちの事を心配するんだから仕方ないだろ。お前たちの事なんてどうでもいいけど、僕を心から愛する可愛い奥さんのオリヴィが悲しむのは嫌だからな。
いいか、僕とオリヴィはずっとずっとずーっと想い合ってた、って事にするんだからな。これは略奪愛じゃなくて、純愛なんだからな」
(まだ奥さんじゃない)
という思いは口に出さなかった。ジェイドは少しだけ腑に落ちないという顔をしていた。
ルイ・ジルウォーカーの自由な振る舞いは、俺たちにはまぶしすぎた。
正直に言うと、この温情はありがたかった。必死に詳細を聞き出そうとする両親や親族が煩わしかったし、この言い訳は、今回の醜聞の毒をある程度は薄めてくれるはずだ。
「この前、可愛い僕のオリヴィの姉さんがいるの国に行って来たんだ。いい所だった。知ってるか? あの姉さん『異国の王族』って肩書と、自分の美貌と、婚家の資産を上手く使って、化粧品と美容の事業を興して大成功してるんだ。たくましいと思わないか?」
化粧品と美容の事業。確かに姉妹の中でも一番の美人だった。自らを広告塔として上手く立ち回る姿が想像できる。
「それは、すごいな」
久しぶりに笑った。ジェイドも笑っていた。
「お前たちもさ、外国に行っちゃえよ。あんな重苦しいカビでも生えそうな家を飛び出して、外に出てみろよ」
ルイ・ジルウォーカーにとっては、世間話の中で出た一言だったはずだ。でも、俺たちはその言葉に深く魅了された。
「外国の話を聞きに行かないか」
これは、俺たちにとってルイ・ジルウォーカーの所に行こうという意味になった。俺とジェイドはオリヴィと最後に話をしてから、その話題については一切触れていない。ルイ・ジルウォーカーが話してくれる外国の話は、話したくない事が多い俺たちの亀裂を少しずつ埋めてくれた。
「何だよ、懐くなよ! 何で来るんだよ。お前たちなんて嫌いなんだからな。仲良くする気なんて無いんだからな」
悪態をつきながら、毎回もてなしてくれる。俺たちが問うままに外国の話をしてくれ、分からない事は次に訪問した時には、ちゃんと調べておいてくれている。
「絶対に、俺の可愛い奥さんのオリヴィには会わせないからな」
これは本当だ。一度も会わせてもらっていない。そして、もう本当にオリヴィはルイ・ジルウォーカーの妻になっている。
俺はいつしか、外国に行くことを夢見るようになっていた。だからジェイドが言い出した時もそれほど驚かなかった。
「なあ、俺たち本当に外国に行かないか」
ジェイドは初めて本心を語ってくれた。
「はっきり言っておくが、今でも、お前の頭には枯れ草が詰まっているとしか思えない。俺はオリヴィを異性として見たことは一度も無い。あの子は幼い頃から守るべき妹で、弟のお前と同じくらい大切な存在だ」
だけど、と続ける。
「あの家でオリヴィと一緒に暮らすのは楽しかったんだ。初めて家族が出来たみたいで、温かい気持ちになった。
母親が死んでヒューズワードの家に引き取られてからずっと、俺にはお前しか味方がいなかった。いつも気を張っていて、家で安らげた事なんてなかった。
本邸を出てあそこで暮らして初めて、あんなくつろいだ温かい時間がある事を知ったんだ。多分、お前はまだその幸せを知らない。お前の浅はかな行動は、それを知る機会を失ったんだ。それは自業自得だな」
ジェイドとオリヴィが想い合っている、何でそう思い込んだのかは今となっては分からない。ただ、ジェイドがオリヴィに勉強を教えて二人で笑い合う姿を、少し離れた所から見るのが好きだった。この大切な二人がずっと、俺から離れなければいいのに、そう思っていた。二人が夫婦のように暮らして、俺はそれを見守る。あの時は、それしか3人が幸せになれる方法が無いと思った。
あの二人が一線を越えるには、オリヴィを深く深く傷つけて俺を共通の敵だと思わせる必要があると思った。そして⋯⋯二人が結ばれて幸せになった後なら、許してもらえるんじゃないか、そう思った。
今になって考えると、自分でも頭に枯れ草が詰まっているんじゃないかと思う。『そんなの、おかしい』彼女が言うのも当然だ。
「もう、お前に気を遣うのも、一族に気を遣うのも馬鹿らしいとしか思えないんだ。俺は疲れた。
ルイ・ジルウォーカーを見てみろよ。自由に生きている上に、俺たちの大切なオリヴィまで手に入れたんだ。うらやましくないか?」
ジェイドは、明るくすがすがしい顔をしている。ジェイドは既にもう解き放たれている。
「お前、俺の方が優秀なのに、自分が跡取りだって事を気にしてたんだろ。実はな、俺も思ってたんだよ。俺の方が優秀で跡取りに向いてるって」
幼い頃から、明らかにジェイドの方が優秀だった。誰もが分かっているのに、はっきりと言わない事は余計に俺の心を傷つけていた。
「残念ながら、家長の地位も公爵の地位も、俺には全く魅力が無い。面倒なだけだ。でも俺は、それに縛られてるお前を助けることは出来るって思っていた。何たって俺は優秀だからな」
「何だよ、それ⋯⋯兄さんが優秀なのは、嫌になるくらい本当の事だけどな」
ジェイドは俺の目をしっかり見て言った。
「なあ、カルロ。俺と外国に行こう。ジルウォーカーにそそのかされたわけじゃないけどさ、少し前からちょっとした額の金を準備してたんだ」
ジェイドは、彼らしくにやりと笑う。
「俺たち、この家の為にもう十分働いたと思わないか? 跡取りなら、掃いて捨てるほどいる一族の中から誰か選べばいいんだよ」
俺は思わず吹き出した。
「兄さん、何だかルイ・ジルウォーカーに似てきたな」
外国に行くと告げても、ルイ・ジルウォーカーは、あまり驚かなかった。
「言うとは思ってたけどさ、お前たち、すぐに騙されそうで怖いんだよな」
特にお前!と俺に向かって言う。
「お前は物を考えるのは向いてないよ。考えるのは兄さんに任せて、自分の頭には枯れ葉が詰まってるって覚えておけよ。えっと、無駄に行動力はありそうだから、それは活かすといいかもな」
枯れ葉じゃない、枯れ草だ。ジェイドは苦笑している。
ルイ・ジルウォーカーはいつものように『面倒だ』と言いながら、俺たちが行こうとしている国で、誰を頼ればいいか、どうすればいいか、を細かく教えてくれて友人知人への紹介状を用意してくれる。
「可愛い僕の奥さんのオリヴィに、嫌な知らせは伝えたくないからな。困ったら絶対にすぐ連絡して来いよ」
オリヴィと結婚したことで、彼女の元夫と元義兄の面倒まで見る事になり、本当に面倒な事だろうと思う。
でも、俺もジェイドも、オリヴィと同じだ。俺たちをあの閉塞した世界から外に連れだしてくれるこの男に心底惹かれてしまった。多少は申し訳ないとは思っている。でも――
「他人に甘えるというのも、悪くないな」
俺はジェイドにこっそりと耳打ちした。ジェイドも『王族の誇りなんて屑みたいなものだ』とにやりと笑う。
新天地への夢を胸いっぱいに膨らませた。いつか俺も一緒に夢を追いかけてくれる伴侶に出会う事が出来るだろうか。安らぐ家を持つことが出来るだろうか。
その時にはきっと、初恋の女の子と笑顔で再会出来る気がする。
初恋相手との結婚で地獄をみたご令嬢は悪妻になりたくて奮闘する 大森都加沙 @tsukasa8omori8
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