戦い続けたのは誰が為

 迩千花が我に返ったのは、身を襲った衝撃と床になぎ倒された衝撃を感じての事だった。

 手にしていた扇は弾き飛ばされて彼方にあり、痛みと苦しみに顔を歪めながら何が起きたのかと身体の上にあるものを見上げたならば。


 そこにあったのは、迩千花の身体に伸し掛かり喉首に喰らいつかんとする巨大な獣だった。

 無論、普通の獣ではない。尋常ではない大きさのそれは怨念にて形作られた、巨大なこの世ならざる狼だった。


 狼と悟った瞬間まさかと思ったけれど、違う。これは織黒ではない。

 同じように呪いを帯びているけれど、何故かしら通じる何かを感じるけれど、これは純粋な『悪意』であり『憎悪』だ。

 遥かな彼方にあった呪いに、迩千花を害そうとする意思が重なってできた、迩千花に仇為す為だけに生まれたものだ。

 何故かそれだけは、迩千花にもはっきりと感じ取れた。

 獣の足が押さえつける場所から血の気が失われていくのを感じる。今は何とか渾身の力で抗っているけれど、血の気と共にその力も失せつつある。

 触れられている場所から、じわじわと何かが身体に沁み込んでいくような心地がする。

 意識が途切れたら、恐らく自分は二度と目覚める事はないだろう。


 いやだ、と思った。

 一度はあれ程終わりを望んだというのに。

 少しばかり境遇が恵まれたものに変わっただけで何と浅ましい、と嘲笑う思いはあるけれど。


 死にたくない、嫌だと今は思うのだ。

 このまま、黒い真神を置いていくのは。

 このまま、あのひとに、孤独な戦いを続けさせるのは。

 もう戻らない日々だとしても、彼らがあのままなのは、嫌だ――!


 恐慌状態が際にある迩千花には、それが何の事なのかわからない。けれど、明確に「嫌だ」という意思だけはあった。

 視界も意識も徐々に薄れていくなか必死に抗い続けた迩千花は、強大な力を持つものがその場に現れた気配を感じた。

 より強くて鋭い牙を持つ、頼もしい獣が現れたのだと知る。抑えつける力が消失し、温かく大きな腕が自分を抱き寄せたのを感じて。

 しこく、と名を呟いたのを最後に迩千花は意識を失った。




 黒い焔は迩千花に襲い掛かった獣だけを過たずに捉え、灼いた。

 しかし、灰と化して地に落ちたと思いきや二匹に増えて見せたのだ。寸分たがわぬ姿の一匹がその場に音もなく現れる。

 その場に満ちた呪怨の靄が、一匹、また一匹と獣を生みだし続け、生じた獣は次々と迩千花を狙って地を蹴った。

 舌打ちしながらも、迩千花を腕の中にしっかりと抱いて織黒は襲い来る獣へと休みなく攻撃を見舞う。

 だが、何度焼き払おうとも呪いの獣は蘇り続け迩千花を狙って襲いくる。その数は刻を追うごとに増え、織黒達を取り囲んでいる。

 また一つ投げ飛ばし、鋭き爪で切り裂き、燃やし尽くす。

 獣は悲鳴すらあげずに転がったが、直ぐに立ち上がると怨嗟の瞳を織黒の腕の中の迩千花へ向け、じりじりと距離を詰め始める。

 切り裂かれたものは分かたれた一つが一匹となり、二匹となった。塵と化したものとて再び形を為して立ち上がる。

 どう打撃を与えようと、次から次へと立ち上がり襲い来る。しかも質の悪い事に、獣たちは連携を取る事を覚え始めていた。

 降り注ぐような連撃からも、織黒は迩千花を守り続けた。どれ程獣の爪が、牙が彼を掠めたとしても、腕の中の迩千花に毛ほどの傷も生じない。

 織黒の不意を突く事に成功した一匹が、黒狼の祟り神の腕に食らいついた。

 牙が突き立った腕からは紅が幾筋も伝い流れ落ちるけれど、表情ひとつ変えずに織黒は無造作に腕を振るい弾き飛ばす。


「喰らいたくば幾らでも俺を喰らえ」


 獣の唸り声を思わせる低く重い声で、織黒は獣たちを見据えながら言い放った。

 呪いと怨嗟から為る悪しきもの達を相手に露程も怯まずに、むしろ圧倒するほどの威容を以て織黒は続ける。


「元より呪いと在り、呪いを喰らった身だ。何を恐れようか」


 織黒は堕ちたとされる祟り神である。封印の間呪いと共に在り続けたが為、元よりその身は呪いを帯びている。

 永き眠りから覚めた今、怒りを覚えれば裡なる暴虐が抑えきれなくなりそうにすらなる。

 けれど、それを止めてくれるのは腕の中にある温もりだ。

 何にも代えがたい、愛しい唯一無二の存在だ。


「迩千花は渡さない。髪の一筋たりとも呪いなどに喰わせるものか」


 知能など持たぬように見える獣たちは僅かに退いた。その場にある存在の中で最も獰猛である者は咆哮する。


 ああ、そうだ。

 自分はその為に、呪いと戦い続けたのだから――!


 一度は怖気づいた様子だった獣たちは、それでも徐々に攻撃を再開し始める。

 織黒は言葉のないまま、それらを葬り続けた。

 誰も言葉を発する事のない空間に、空を切る音、焔の渦巻く音、何かを砕くような鈍い音だけが響き続ける。

 これでは本当にキリがないと表情を歪めた織黒の耳に、誰かが駆けてくる足音が聞こえる。

 振り向かずとも誰がその場に足を踏み入れたのか、織黒は察した。漸くお出ましか、と心に皮肉すら呟く。


「一体これは……」


 困惑の呟きが織黒の耳に届き、閃光と共に呪いの獣が幾匹かが吹き飛び霧散した。

 荒々しくその場に飛び込んできたのは築だった。

 尋常ではない空気と淀んだ禍々しいものが満ちる空間に顔を顰めながらも、織黒の腕の中の迩千花が身動きしない事に蒼褪める。

 だが、すぐに気を失っているだけだと察したのか安堵の息をついた築は、次いで織黒を睨みつけ叫んだ。


「貴様の呪いが呼んだのか!?」

「……寝言は寝て言え。誰が好き好んで迩千花を危機に晒すか」


 舌打ちと共に苦々しげに織黒は言いながら、また一匹獣を叩きのめす。

 その様子を見た築は返答に顔を顰めたものの、今は言い合いをしている場合ではないと判断したのだろう。

 すぐさま手元に印を結んでは雷にて敵を撃ち据え、荒れ狂う暴風を呼んでは刃と為す。

 その猛攻を潜り抜けようとする者達は狙いすましたように放たれる焔に焼かれ塵と化す。

 築が攻撃の手を緩めたと見せかけると織黒の追撃が襲い掛かり、織黒が躱せば築がそれを追おうとする者達を撃つ。

 それぞれが、それぞれの動きを利用し緩急つけて襲い来る数多の獣たちを迎撃していく。

 誰かこの光景を見た者があったあら、余程気心の知れた、お互いの戦い方を知り尽くした者同士のような動きだと感嘆の息を零しただろう。

 そして、何故か二人の口元には何時しか笑みらしきものすら浮かんでいる。戦いに高揚したのか、それとも……。


 しかし、ふと築の動きが止まる。

 織黒が訝しげに向けた眼差しの先、築は強張った表情のままある一点を見つめていた。


「……なぜ、ここに……」


 茫然と呟く築の視線は、織黒のやや後方に転がる檜扇に据えられていた。

 振り返るようにしてその扇を見た瞬間、織黒は奇妙な感覚に襲われる。


 白と黒。二匹の狼が巡る意匠としては風変りな扇。

 感じたのは不思議な懐かしさ。脳裏を過る、それを手に幸せそうに微笑む女の慕わしさ。もう戻らない温かな時間の、象徴……。


 織黒が胸に湧き上がる何とも言えぬ感情に目を細めた瞬間、築の鋭い叫びが耳を打った。


「織黒! その扇だ!」


 築もまた扇を見る眼差しには複雑な色が見え隠れする。

 しかし、その言葉にて織黒は悟る。この異様な場を作り出した元凶が、あの扇なのだと。


「その扇に『あの呪い』の残滓が仕込まれている!」


 築の叫びと織黒の咆哮はほぼ同時だった。

 織黒が放った焔は扇を捉えて見る見る内に焼き尽くす。焔に直撃された扇は瞬く間に燃え上がり、灰となり床に落ちた。


 元を断たれた災いは忽ち消え失せ、何事もなかったかのような静寂が戻って来る。

 二人の男は苦く盛大な溜息を吐き出す。

 織黒は腕の中の迩千花の様子を確かめた。

 些か抱く力が籠ってしまっていた事を心配したものの、少しばかり蒼褪めており苦しげであるが命に関わるような怪我などは見当たらない。

 同じように迩千花の無事を確かめて安堵した様子だった築だが、直ぐに地に落ちた灰の前に膝をついて険しい顔で観察し、指先をそちらへと向ける。

 築が地に撒かれた灰へ向けて複雑な印を結ぶと、最後に僅かに残った呪いの果てがふわりと浮き上がり宙に線を引くように動き出す。

 何かの元へ導こうとでもいうかのような動きである。


「このような事をしでかす心当たりは、一人しかない」

「奇遇だな、俺もだ」


 怨嗟による呪いは確かに迩千花の命を狙っていた。

 迩千花を目障りに思う者であり、迩千花が消える事で最大の得をする者。

 その中でこれ程の事を仕出かす力を持つ者となれば、おのずと答えは限られる。

 二人の脳裏には驕り高ぶった笑みを浮かべる少女の姿が浮かんでいた。

 築は道を示す灰を追う為に一歩踏み出しながら織黒へ肩越しに振り返ると、低く告げた。


「この場は迩千花を任せる。私は元凶を引きずり出してくる」

「……あの女は必ず迩千花の前で報いを受けさせる」

「勿論だ」


 言い置いて築は駆けだしていく。

 残された織黒は、改めて迩千花の様子を確かめる。

 顔色は変わらず芳しくない。呪いの獣に直接の傷を負わされたわけではないが、生命力を吸い取られているのだろう。表情にも苦痛の色がある。

 何時もより少しばかり弱弱しい呼吸に眉を寄せた織黒は、一呼吸おいた後にゆるやかな仕草で迩千花に口付ける。そして、自分の持てる生命の力を吹き込んだ。

 ややあって、静かに顔を離すと迩千花の様子を再び確かめる。

 生気を分け与えられた迩千花は少しばかり血の気を取り戻し、苦痛の色の濃かった表情は穏やかなものに転じていた。

 漸く大きな安堵の息をついた織黒は、意識を失い力の抜けた迩千花の身体をしっかりと抱き締める。


「ひとつ、取り戻した事実がある……」


 暫しの沈黙が満ちた後、それを破ったのは織黒の独り言めいた呟きだった。

 ひとつ大きく息を吐く。目を伏せて遠き何かに思いを巡らせるようにしてから、再び迩千花に眼差しを落す。


「お前を今度こそ守る為に。……お前にもう一度出会う為に、俺は呪いと戦い続けていたのだな……」


 欠落していた記憶が部分的に戻ってきた。 

 自分は、封印されている間、戦い続けていたのだと。

 一筋の光も見えぬ、何方を見ても漆黒の闇の底にて果てぬ戦いを続けていた。

 彼を喰らい完全な禍々しい存在へと堕とそうとする呪いに抗い続けてきた。

 いつか必ず、という想いを唯一つの支えとしながら、気が遠くなるほどの歳月をただ戦い続けていたのだ。


 ――必ず、彼女の元に戻ると。そして、今度こそ絶対に守ってみせると。


 織黒が封じられたのは遥か過去の話であるという。

 迩千花がその時代から生きている筈がない。守りたかった者の生まれ変わりという事なのだろうか。

 いや、違う。

 この迩千花は、間違いなく織黒が守りたいと願った存在そのものだ。

 迩千花の中に、輪廻の浄化など経ていない、変わらぬものを感じる。織黒の中にはそれは確信として存在する。

 ならば、何故迩千花はこの場所に、この時代にある? 迩千花は何者であったのかもまだ思い出せない。

 分からない。未だ記憶は欠けたまま、失われた刻はまだ多い。恐らくその中に真実は眠るだろう、自分がここまで迩千花に焦がれる理由が。


 けれど、今は。


 再び織黒は沈黙し迩千花を見つめていたが、ややあって迩千花を抱き上げて立ち上がり歩き出す。

 迩千花を休ませてやらなければならない。それに室内は嵐でもあったのかと思う程の惨状だ、片づけるように命じる必要もある。

 腕の中に確かに温もりが存在する事を心に噛みしめながら、織黒は足早にその場を後にした。

 



 築が元凶――真結の元を訪れた時、見瀬の屋敷は大騒ぎだった。

 真結に纏わりついた呪いの残滓が彼女に対して牙を向き、苦しみ悶える真結を前に見瀬の家人は窮していた。

 見瀬の主は築を追い出そうとしたものの、彼から事態を説明されるとたちまち顔色を失くした。

 娘がそこまで考えのない事をするとは思っていなかったようだ。

 一族の祭神の妻へと命に関わる程の呪いを仕向けた事が露見した真結は、一時は命を以て贖うべしと糾弾された。

 殊に織黒の怒りは凄まじく、見瀬の家ごと滅ぼしかねない程の勢いだった。

 しかし、迩千花が命まではと言い添えた事と父母の必死の懇願により、生涯幽閉の処分にて落ち着き、その身は見瀬の屋敷の片隅にある庵にて生涯禁足を命じられた。   

 玖珂の見張りが常につき、無論女学校も退学となったとの事。

 迩千花は、泣きわめいて許しを請う真結を見てもなんの感慨も湧かなかった。

 この先の人生を閉じられた真結を哀れとも思わなかった。命を狙われた事に対しても、ああやはり、と無感動に思うだけだった。


 ――ただ、あの扇が失われてしまった事が、何故だかとても哀しかった。

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