白狼と黒狼


 誰かが嘆いている。

 哀しい程に嘆き、そして声にならぬ声で叫んでいる。

 私はただ、もう一度笑って欲しかっただけなのだと。

 それだけなのに、どうして、と彼は自覚なき慟哭を続けている。

 わたしを内に守ってくれた存在に、呼びかけたくても、わたしの声は届かない……。



 先祖代々の品が収められている、玖珂家の蔵。そこに一心不乱に何かを探す少女の姿があった。

 見瀬の長女・真結である。

 人目を避ける術を纏っているのは後ろ暗い目的があるからだろう。それも当然の事である。

 彼女がいる場所は幾つかある蔵の中でも特に重要な、歴代の長に纏わる品々が収蔵されている蔵である。

 幾つもの木箱や行李をあけて、只管に真結は『それ』を探し続けた。

 そして、動きがふと止まる。何かを探り当てたらしい少女は『それ』を丁寧な仕草で持ち上げる。

 手に探し当てた物を持ち、これだと真結は笑った。

 それは、凄絶に美しい、何処か狂気じみたものを感じさせる笑みだった。

 何故かはわからない、けれども真結にはそれは彼女が求めていたものだと分かるのだ。

 その品の中が秘める禍々しいものすら、真結にとっては輝きに映る。

 これがあれば、と真結は爛々と輝く目でそれを凝視しながら、笑う。

 これがあればあの目障りな女を今度こそ排除する事が出来るのだと、少女は時の向こうから来る暗いこころのままに、嗤った。

 もう、お前の風下には立たぬと呟いた真結は、少女らしからぬ長き時を経た女の雰囲気を纏っていた……。




 迩千花はその日、住まいである離れにて何をするでもなくぼんやりと過ごしていた。

 人とはどれほど大きな変化があっても、時間がたてば順応していくものなのだと溜息を吐きながら思っていた。

 迩千花の日々の暮らしは、今では食べるもの着るものにも事欠く日々が嘘だったような変わりようである。

 大勢に傅かれ、何も言わずとも膳は整えられ、新たに誂えられた質の良い着物を纏う。

 かつて異能を失う前はこのように暮らしていて平気だったのだろうが、今の迩千花には些か落ち着かないものだった。

 しかし、時が経つにつれそれに対する違和感のようなものも収まってきている。

 蔑まれ忌まれる存在から丁重に扱われる身分へと劇的に変わり、日常に自分を只管に溺愛する祟り神が居るという事にも、今では大分慣れた気がする。


 織黒は相も変わらず迩千花を過剰なまでに愛し慈しむ。

 僅かな時でも離れる事を厭い片時も手放さず、側にある時は壊れ物に触れるような優しさを込めながらも腕に抱いて過ごしたがる。

 口数が多いほうではない迩千花が話す事であれば、何であろうと目を細めて聞き入り、もっと声を聞きたいとせがむ。

 愛しいと隠す事なく告げる織黒に、何故こんな私などをという戸惑いは消えないけれど、自分の中の何かが変わり行くのを感じていた。

 何かが灯り少しずつ裡が温かくなっていくような、踏みしめる大地が確かになっていくような、不思議な感覚。それが何なのかは、迩千花には分からない。


 迩千花への寵愛深き反面、織黒は迩千花以外の人間には苛烈なまでの態度で臨む。

 迩千花が少し眉を潜めただけで焔を以て追い払われた人間は両手の指で足りない程だ。おかげで誰かいる時に迂闊な表情は出来ぬと気を張る事が増えた。

 かつては、その陰気で能面のような顔が気に入らぬと罵倒され、或いは暴力を振るわれたが、今も違う意味で表情に気を使わねばならない。

 けして同情しているわけではない。被害を受けた人間から逆恨みされ、無用な敵を作りたくないだけだ。


 織黒の記憶は戻らぬままに時は過ぎた。

 しかし、自分にどんな力があるのか。祀られるものとして何を望まれ、それを如何に振るえばよいのかという事は分かりつつあるようで、祭神としての織黒の影響は目をみはる程に大きくなっていた。

 織黒は迩千花を介する事さえ出来れば恵み多き偉大なる祭神であった。その恩恵を受けるようになった玖珂は往時の勢いを取り戻しつつある。

 だが、時折織黒は自身の内に潜む残虐さに引きずられそうになっている様子を見せる事がある。

 大抵の場合は迩千花の呼びかけに鎮まるが、目にした家人たちはやはりあれは呪われた祟り神であると囁いているらしい。

 迩千花はそれを思えば口惜しげに表情を歪める。

 織黒が呪いを帯びているのは事実だ。それが祟り神とされる所以だろう。

 けれども、あの美しい真神の本質は、そうではないと思う。

 かつて緋那が口にした疑問を、織黒と過ごす日々を重ねるうちに迩千花も思うようになっていた。

 あの優しい男は、本当に祟り神なのかと。仮に本当にそうであるならば、何故にそう堕ちたのかと……。

 されど、その様な事は欠片も気にせぬ母は、かつてのように裏から国政に関与する事すら狙っている様子である。

 揺れる世情を抑えて発言力を強めつつある軍部の将校が、最近姿を見せる事が増えているらしい。

 迩千花達のもとへはまだ訪れていないが、母はそれとはなく引き合わせたい者達が居るという思惑を感じさせている。

 大陸をも視野に入れる者達には、人ならざる力であろうとも他を圧倒する強大な力はさぞ魅力的に映るのだろう。


 迩千花は唇を噛みしめた。

 嫌だ、と思ったのだ。織黒が政治的な思惑に利用されるのも、戦の道具として扱われるのも。

 わたしは、もうあの優しい真神を人の薄汚い思惑の駆け引きに巻き込みたくないと、願っていたのに……。 


 そこで迩千花は我に返り目を瞬く。

 私は今何を、とやや早くなった鼓動をおさめようというように胸に手を添える。

 このところ、考え事をしているうちに何か遠い時の彼方を思っているような、今ではない時自分ではない誰かの思考を辿っているような気になる事が増えた。

 忘れてしまったという過去が戻りつつあるのかと思ったけれど、その時間に織黒の存在は無かった筈だ。

 誰か他の大切な……それこそ、兄の築について悔いる事でもあるのだろうかと思うけれど、違う気がする。

 分からない事はそのまま言い知れぬ何かとして迩千花の中で渦巻き続ける。心の騒めきが収まる事を知らずに、迩千花を不安な気持ちにさせる。

 いけない、と迩千花は溜息をつく。

 このような心持ちでいては、また顔に出てしまう。

 それでなくても、織黒は迩千花の心の揺れにはひどく敏感なのだ。

 そろそろ午睡から目覚めるであろう織黒にまた心配させてしまう、と迩千花は無理やりにも思考をうち切った。


 水でも飲もうと歩き始めた迩千花は、ふと視界に入ったものを見て盛大な溜息を吐き出す事となる。

 次の間には、もはやそこには収まりきらぬほどの袱紗包みや蒔絵の箱といったものが山積みになっていたのだ。

 増えている、と声にならぬ呻きをあげてしまう。

 迩千花の元には連日豪華な贈答品が届けられるようになっていた。

 建前としては尊き祭神と奥方様への捧げもの、つまりこれらは全て織黒と迩千花へのご機嫌伺いの為の付け届けである。

 織黒はやはり捧げられる品物には全く興味を示さず、迩千花の気が向くものがあれば受け取るがいいという。

 始めこそ何とか角を立てずに、と受け取っていたが最近では受け取る事すら気が重く、うんざりして贈ってこないようにと触れを出したものの効果は芳しくない。

 届いた品は築があれこれと采配してなるべく迩千花の目に直接触れぬようにしてくれてはいる。

 築には、迩千花の世話に加えて余計な仕事を増やしてしまい申し訳なく思っている。

 優しい兄は、お前が気を病む事ではないと微笑んでくれているけれど、最近では数が数であるので管理の手が届ききらない状態である。

 采配の目をすり抜けて運ばれてくる品だけでも次の間はもはや占拠されてしまっていた。

 品物はそれぞれに質は確かであり、目を楽しませてくれる見事さである。しかし、その裏にある思惑が透けて見えすぎるのだ。

 迩千花の目には煌びやかな品々が淀んだ何かを放っているように見えて、自然と見る顔は強張ってしまう。

 しかし、これも織黒の居る処では見せられない。

 一度、迩千花が辟易したといったのを露わにしてしまったが為に、品々を一瞬にして灰燼に帰してしまった事があるのだ。

 勿体ないと言いたいわけではないが、それを作るために費やされた職人の努力や時間を無駄にするのは本意ではない。

 故に、築に頼んで求めるものの元に行くように采配してもらっている。


 もう一度溜息をつきながら、迩千花は積み上がった品物を見つめる。

 ふと何かが視界を過ぎった気がして目を止めた。それはそこにあるものの中では比較的簡素な装飾の施された小さな包みだった。

 煌びやかな中にある質素なそれが気になった迩千花は、そっとその包みを取り開いてみる。


「檜扇……?」


 中から現れたのは檜扇だった。しかもかなりの年を経ていると思しき品である。

 造り自体はしっかりしているものの、少しでも力を込めれば折れてしまうのではないかという感じがある。

 骨の一本一本に施された細工はかなり精緻で美しいものであり、使われている材もかなり上質なもの。

 明らかに過去に貴人が手にしていたのだろうと思われる扇であるが、変わっているのは描かれている意匠であろうか。

 流麗な筆致で描かれているのは、草花や人物などではない。


 ――二匹の狼である。雷を纏う白い狼と焔を纏う黒い狼が宙を巡るようにしている様子が描かれているのだ。


 意匠としては些か変わっているし、女性の持ち物として言えば更にである。

 だが、施された繊細な細工は女性が持つのに相応しい優美さ。

 迩千花は不思議に感じた。この扇は誰が何のために誂えたのだろうか、そして何故この扇がここにあるのかと。


「この檜扇は、どなたから……」


 贈られてきた品物は築が誰からであるのか添え書きを付けておいてくれるのだが、この扇にはそれがない。

 恐らく使用人の誰かが築の目を盗んで置いたのだろう。

 確実に自分達の付け届けが迩千花達に届くように、使用人に小金を掴ませる者も増えていると聞く。

 ただ、その場合きらきらしい美辞麗句に満ち溢れた書簡が添えられているのが常であるが、この扇には何も無い。

 送り主の分からぬ扇を手に迩千花は思索に耽る。その扇を手にしていると、不思議と心和む気がするのだ。

 何故この扇を手にとる気になったのだろう。歴史の品である事は間違いない。

 しかし、由緒ある品だったら他にもあるし、これより見事な扇だって今までに贈られてきた。それなのに、何故この扇だけこんなに……。

 訝しく思うものの、扇に対して不思議と惹きつけられている自分に気付く。

 ふと、ふわりと郷愁を帯びた風が吹いた気がして、迩千花は目を瞬いた。気のせいかと思いかけたが、風のそよぎの中に確かに何かが聞こえたのだ。


『……らしいといえば、らしいのだが』

『おおよそ、お前のような身分の女人が持つには相応しいとは』


 その場には迩千花以外誰も居ないのに、男の声が聞こえる。二つの声は、苦笑いの雰囲気を帯びているけれど、優しい。

 それに応えるのは、喜び含んだ女性の声だ。

 ああ、誰かが話している。

 知らないはずなのに、何故こんなにも懐かしいと思うのか。

 もどかしく思えども、その顔は朧げであって見る事が出来ない。


『わたしはこの扇がいいのです』


 女性は二匹の狼が巡る扇を手にした女性は、扇に頬寄せるようにして微笑む。

 そして、僅かに戸惑う二人の男性に向き直りながら、心からの想いを紡ぐ。 


『だって、わたしの一番大切なもの達を描いてあるのだから……!』


 知らないはずなのに。誰の事かも、何も分からないはずなのに。

 泣き出したい程の想いが胸に満ちて苦しい。

 その言葉が哀しい程に、狂おしい程に、懐かしい――。

 迩千花は言葉なく、扇を手にしたままぼんやりと遠くを見つめているようだった。

 しかし、意識が不思議な追憶に注がれる余り、迩千花は気付けなかった。


 ――手にした扇から零れはじめた悪しきもの……只ならぬ邪気放つ呪詛に。





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