二つの狭間に揺れる
室内が半壊状態となってしまった離れの修繕の間、迩千花は織黒と共に母屋の一角に居を移していた。
迩千花としては本当に気が進まない事だが、自分はあの蔵でいいとして、織黒にもそれを強いるのは不本意だ。
なるべく父母と顔を合わせないように客間として用いられている場所を、人の出入りを限った状態にしてもらっている。
築は真結があの扇を何処から持ち出したのかを調べてくれた。
あの扇は、どうやら蔵に封じられていた古の長・寿々弥の遺品の中から持ち出されたらしい。
寿々弥は存命の頃から随一の異能を誇り、生き神とまで称されたその名は迩千花とて聞いた事がある。
半面、長として采配についてはあまり優秀ではなかったのだという。
その時代においては優秀な補佐であったという妹の名の方が広く公に知れ渡っていたらしい。
その話を聞いた時、織黒が顔をしかめて低く唸っていた。
理由を聞くと、本人も知らぬうちの事だったらしい。
声をかけられて我に返った織黒は、聞かされた己の様子に怪訝さを隠しきれなかった。
何ぞ不愉快に思う事があったのか。もしかしたら、失った過去に触れる何かが……。
織黒は寿々弥を知っている筈だ。言い伝えによれば、織黒は彼女を害しその魂を喰らったが為に祟り神に堕ちたというのだから。
何故と問いたい気持ちはある。貴方は本当に寿々弥を喰らったのかと。
織黒を知れば知る程、その様な行いに出る筈だないと思う。万が一本当にそうしたとして、何か理由がある筈だと。
迩千花を慈しむ心に戸惑いはまだあっても、偽りを感じる事はない。
誰かをここまで守り愛しむ事が出来る優しい真神が、何故にそのような恐ろしい出来事と共に封じられてきたのか。
知りたいと思う。しかし、それは過去に限った事では無くなってきている。
小さなことでもいい、織黒の事を知りたい。好むもの、嫌うもの、心安らぐこと、何でもいいから知りたいと思う。
些細な事であっても何か知る度に、胸が高鳴る。
自分でも戸惑いを隠せない、築以外の存在について心を向ける事もなければ、ましてや知りたいと思うなど。
関心を抱くだけ無駄と、何も感じないようにしてきたのに……。
迩千花、と声をかけられる。
見れば、何時の間にか彼岸花の奥庭へと足を踏み入れていた。織黒が様子を窺うように覗き込んでいる。
そうだ、今日はあの事件以来訪れる事が出来なかった為に、緋那の顔を見に来たのだ。もう大丈夫だからといくら言っても聞かない織黒と共に。
歩みを進める途中で思索に耽りすぎてしまったのだ。気づかわしげな織黒に笑って見せてから、迩千花は庭の彼岸花の中央に眼差しを向ける。
そこには、迩千花の大事な友が居た。
『迩千花!』
「ごめんね、緋那。心配させて……」
緋那は迩千花の姿を認めた途端、飛びつくように迩千花に抱き着いた。
現ならざる腕で迩千花を抱き締め、ただただ迩千花が無事である事を喜びんでくれる。
涙ぐむ様子を見て、友を随分心配させてしまったと心が痛んだ。
織黒は緋の少女が迩千花の無事に安堵する様子を静かに眺めていた。
そう、織黒の眼差しは確かに緋那の姿を捉えている様子だ。
「……織黒には、緋那が見えるのね」
「むしろ他の者が見えぬ事のほうが理解できぬ。仮にもこの家は異能者の家系であろうに」
此処に来る前に、緋那については織黒に説明してあった。迩千花にしか見えぬ秘密の友である花精であると。
こんなにはっきりと存在しているのに、と呟く織黒は至極不思議そうな様子である。
緋那は驚いた様子だった。無理もない、迩千花以外に自分を見る事が出来る存在と会ったのは初めてなのだから。
恐れている様子はない。
『良かったわね、迩千花! 綺麗で強い、素敵な旦那様ね!』
「緋那……」
朗らかに、全力で喜んでくれている様を見れば、思わずどう返していいものか分からなくなる。
恐ろしい祟り神と恐れられる相手である事など全く気にした様子がない。
見た目相応の年頃の少女のようにはしゃいでは、迩千花をからかっている風でもある。
そうだ、緋那は疑問を抱いていたのだ。
織黒が本当に祟り神と呼ばれる存在であるのかと。そして、織黒はきっと迩千花を守ってくれると……。
迩千花を守る事が出来る存在であると信じた相手を、忌むべきものとはどうにも信じられない様子であった。
「……何故か、聞きおぼえがある気がするな。お前の声には……」
少女達の微笑ましいやり取りを無言で見つめていた織黒が、ふと口を開いた。
私? と首を傾げて見せる緋那に眼差し据えつつ、何かを思案するような表情である。
迩千花はふと、緋那もまた過去を持たないのだと思い出す。
織黒は緋那を知っていたのだろうか。そして緋那もまた、織黒を。
迩千花の知らぬ、織黒を……。
不意に胸に苦いものが満ちた気がした。
それが何かは分からなかったけれど、迩千花の知らない織黒の過去に緋那が居たかもしれないと思った瞬間、胸に痛みが生じた。
たまらなく、友が羨ましいと思ってしまった。浅ましい、と打ち消そうとするけれどなかなかそれは消えてくれない。
緋那は黙り込んでしまった迩千花を覗き込み、不思議そうな顔をしている。
何とか表情を元の通りに繕うと、迩千花は緋那に何でもないとだけ返した。
迩千花の惚気を聞きたいとばかりに、緋那は楽しそうに暫し質問攻め。
口元に笑みなど浮かべながら迩千花と緋那を見つめていた織黒だったが、ふと奥庭を見回し呟く。
「曼殊沙華、か……」
迩千花は織黒を見上げる。
曼殊沙華とは、この庭を埋めつくすように咲く彼岸花の異名である。
花びらの降る吉兆に、天の花と語られる名前だ。そのめでたき謂れに反して、この屋敷においては恐れるものが多いのが皮肉な事だが。
「この庭が、酷く懐かしく、切なく感じる……」
迩千花の胸の鼓動が跳ねた。
それは、迩千花もまたこの彼岸花……曼殊沙華の庭に感じるのと同じものだから。迩千花と同様の想いを、織黒もこの庭に抱いたというのだろうか。
この庭に存在した祠に封じられていたから、という訳ではなさそうだ。それなら、抱くのは負の感情である気がする。
迩千花の知らぬ遥かな過去、この奥庭に何かがあったのかもしれない。
織黒が封じられた時代からこの土地に玖珂の一族と屋敷は存在した。その頃のこの庭にも、同じ様に紅い華が咲いていたのだろうか。
迩千花の知り得ない、織黒の過去――。
ちり、と再び胸に小さな痛みを感じ思わず迩千花が俯いた瞬間、緋那が大きな声をあげた。
驚いた迩千花と織黒が緋那を見ると、緋那は何かを重なり咲き誇る彼岸花を書き分けて取り出す。
『……あの祠は消えてしまったけど、これが庭の片隅に落ちていたの』
万が一にも他の人に見つからないように隠していたのだという。緋那は丁寧な手付きでそれを迩千花の手に載せる。
それは今にも崩れそうな程に古いうえに、端々が焦げついてしまっている紙片だった。恐らく何かの古文書の断片であろうと思しきものだが……。
墨で記された文字はあまりに古く掠れて消えそうだったが、それでも何とか読み解こうと試みる。
そして、迩千花は凍り付く。迩千花の様子を怪訝に思った織黒がそれを覗き込み記された文字を目にしたならば、織黒もまた言葉を失った様子である。
――真神二柱……玖珂の祭神たる久黎と織黒の……
「二柱……祭神……? 久黎様と、織黒……?」
読み取れたのはそれだけ、あとは最早読み取る事など叶わない。しかしそれだけでも、二人に衝撃を与えるのには充分すぎるものだった。
記された言葉が示すのは、あまりに予想外の内容だったから。
「俺が、玖珂の祭神であっただと……?」
「そんな事、全く伝えられてない……! 言い伝えでは、久黎様が唯一の祭神だって……」
戸惑いのあまり掠れた声で呟く織黒に、同じ様に戸惑いを露わに迩千花は言葉を紡ぎかけては絶句する。
これが何を記した書物の断片であるのかは分からない。それが真実であるのかも、何を後世に残したかったのかも、最早知る術はない。
ただ、その内容が正しいとすれば。
織黒は祟り神として封じられ眠りにつく前、今と同じように玖珂の一族に祀られ尊ばれる存在であったという事だ。
一族には伝えられていない……語り継がれた事とは相反する事実。
けれど、何故か迩千花は確信がある――これこそが真実であると。
織黒は、何かを取り戻しかけているのだろうか。顔を顰め、何処か遠くを見つめている。そこにある何かを手繰り寄せようとしているかのように。
迩千花も言葉を失い、緋那はそんな二人を心配そうに見つめている。彼女もまた何処か呆然としているように見える。
祭神は二柱居た。その一柱は玖珂がずっと祀り続けてきた久黎。そしてもう一柱が祟り神として久黎に封じられた筈の織黒。
失われた過去、忘れられたもう一人の祭神。
書き換えられた歴史、祟り神に堕ちたとされる黒の真神。
白の狼と黒の狼、祟り神に害されたという長の持ち物だった不思議な檜扇。
真実の要であるのは、恐らくかつて一族を統べたという女性……。
その事実に思い至った時、迩千花は小さく胸に痛みを感じた。
もしかしたら。もしかしたら、織黒は……。
一際強い風が吹き抜け彼岸花の花弁を揺らし、辺りには赤い漣が打ち寄せる。
迩千花を呼びに来た築が奥庭に足を踏み入れるまで、三人の間が再び言葉を取り戻す事は無かった――。
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