悪意の礫
迩千花は当然の流れではあるが、女学校を去る事となった。
元々望んで通っていたわけではないので感傷のようなものはない。
詳細を明らかにするわけにはいかないが、嫁いだという事になっているのだから学び舎を去るのは致し方ない事である。
迩千花は、その日築に伴われて学長への挨拶にやってきた。
織黒は屋敷にて留守居である。大層不満顔であったものの、直ぐに帰るからと宥めて出てきた。
あれだけ様々な意味で目立つ存在についてこられても騒ぎにしかならない。
どうせ形ばかりの挨拶を済ませればそのまま帰宅する心算である。
一人では無論外出許可など下りず、織黒はかなり難色を示したものの築が付き添いと決まった。
久方ぶりの兄と二人きりの時間であった。しかし、特にお互い口を開かず沈黙と共に歩みは進む。
言葉はなくとも足を運び続ければやがて目的である学び舎へたどり着く。
見慣れた校舎に足を踏み入れてもさして感慨はわかない。この場所には楽しい思い出よりも苦く色褪せた思い出ばかりであればそれも致し方ない事である。
目当てである学長の元へ行くために迩千花が一歩踏み出しかけた、その時だった。
「すまないな」
築が僅かに目を伏せながら突然謝罪を口にしたのである。迩千花は思わずきょとんとした表情になってしまう。
こうして外出に付き添ってくれている兄が、自分に何を詫びる必要があるのかと怪訝そうな色が表情に浮かんでしまった。
それを見た築は、少しばかり苦笑いを浮かべて続けた。
「迩千花は、学問は嫌いではなかっただろう?」
言われて、迩千花は咄嗟に否定の言葉を返せなかった。兄には見抜かれていたのかと少しばかり戸惑いを覚える。
この女学校には未練はなくても、学ぶという事にも未練がないと言えば嘘になるからだ。
同級生たちが良い殿方に見初められるのを望み、学問は嫁入り道具の一つとでも思う中、迩千花は学ぶ事を楽しんでいた。
自分に良縁などないと諦めていたのもあるが、純粋に何かを学び、新しい知識を得る事を楽しいと思っていたのだ。
古びた教科書や本の頁を大事にめくり、そこに新しい何かを見出す度に不思議と心が弾んだ。
まるで遠い昔に辿った道筋を辿るようで、失くした何かを思い出すようで。
「学ぶ事はお前にとって良い事だから。出来るならば続けさせてやりたかったのだが……」
「嫁いでも学校に通えるなど聞いた事がありません。仕方ない事です、お兄様」
真神である織黒との婚姻は全てを公に出来るものではない。
当然詳細は伏せる必要があるものの、両親は上機嫌で良縁が定まったと吹聴して回ったらしい。
迩千花が結婚したという話はすっかり知れ渡ってしまっているのである。
そして既婚者が学校に通う事など出来ない。迩千花がこの度女学校を退学するのはもうどうしようもないのである。
そもそも織黒の妻になる事自体を良しとせず、未だに認めぬと宣言する築である。
その為に迩千花が諦めなければならない事があるのが我慢ならないらしい。その表情は苦渋に満ちている。
兄は何時も迩千花にとって良い事や方向を模索してくれる。そして最善へと導こうとしてくれる。
覚えていない過去でもそうだったのだろうか。手を引いて、迩千花が惑わず良い方向へ行けるようにと願ってくれていたのだろうか。
迩千花が傷つく事の無いように守りながら、少しでも温かで明るい道を歩けるようにとずっと心を砕き続けてくれていたのだろうか……。
長男でありながら妹に従えと言われても文句の一つも言わず、心から迩千花を愛し守り続けてきてくれたという築。
その長く迩千花に尽くし続けてきてくれた心を感じれば感じる程、何故か迩千花の心に生じるのは複雑な何かである。
外を知らぬ方が幸いな籠の鳥が浮かぶのも、築が費やし続けた歳月を哀しく想うのも何故と思う。
価値らしき価値を持たぬ身を慈しんでくれるだけでも感謝するべきなのに、何故と……。
尚も何か言いたげだった築を見つめつつも、話題を討ち切るように迩千花は歩みを早めた。
形ばかりの挨拶は直ぐに済んだ。学長の他に挨拶したい相手などいない、迩千花はそのまま帰途につこうとした。
迩千花の歩みを止めたのは、聞き覚えのある少女の声だった。
「あら、迩千花お姉様。ごきげんよう、こんなところでお会いするなんて」
「……学長先生にご挨拶に来ただけよ。もう帰るわ」
大きな溜息をついて振り返ると、そこに居たのは予想通り、真結だった。
相変わらず流行りを取り入れて装い、美しく在る事に余念がない従妹は、口元に笑みを浮かべているがお世辞にも友好的とは言えない眼差しを向けている。
花のようと称えられるであろう笑みは、迩千花には毒華にしか見えない。
真結はわざとらしく迩千花の周りを見回していたかと思えば、肩を竦めた。
「織黒様は一緒ではないの? それとも、もう愛想を尽かされてしまった?」
迩千花と築は揃って渋面となってしまう。
真結が迩千花に怨嗟の声をあげると同時に、織黒の美貌に魅せられている事は伝え聞いていた。
最初こそ役立たずに祟り神なんてお似合いと笑っていたらしいが、織黒が強大な力を持つこの世のものと思えぬ程に美しい男性であると垣間見るや否や地団太を踏んだという。
再び迩千花の風下に立たされたことも相まって、良からぬ企みをしているとも聞いてはいたが……。
二人の沈黙を反論できないのだと踏んだのか、更に調子にのった様子の真結は上機嫌に続けた。
「さぞかし、身の丈に合わない境遇を心地悪く思っているでしょう? わたくしが代わってさしあげるわ」
「え……?」
一瞬何を言われたのか理解に困り、言葉を失った。隣で築もまた絶句しているらしい空気を感じる。
無邪気とすら言える微笑みに純然たる悪意と欲を潜ませて、真結は更なる毒を紡いでいく。
「お姉様のようなつまらない方なら、あの方はきっと直ぐに飽きてしまわれるわよ」
ころころと鈴を転がすように笑いながら、告げる真結に躊躇いはない。
迩千花が異能を尊ぶ一族の中では役立たずであり、価値のない存在であると。
祭神となった祟り神の寵愛故に不相応な扱いをされている、つまらぬ存在であると言いたいらしい。
織黒の存在がなければ、己が迩千花よりも優位にある事を未だに確信している様子が見て取れる。
「だから、わたくしが織黒様の妻になるの。お姉様はそうね……可哀そうだから適当な相手を紹介してあげるわ」
皆もそれが良いと言っているわ、そうあるべきなのよ、と己の言葉が正しいのだと疑っていない様子にもはや迩千花は嫌悪を隠しきれなかった。
また、奪おうというのだろうか。
迩千花の大切にしていた物、大切にしていた者、それに築。
そして今、真結は織黒を迩千花から奪おうとしているのだ。
真結の言う『皆』とは真結の両親を始めとする見瀬の者達。
見瀬は、あれほど祟り神と忌む様子を見せながら、内心では織黒の力を自分達がいいようにする事を目論んでいる。その為に、真結を織黒の妻に据えようというのだろう。
身の丈に合わない、迩千花には過ぎた相手であると言われればそうかもしれないと頷く自分が居る。
迩千花は力をもたない、織黒に捧げられる何も持たない、貧相な小娘だから。
でも、それでも。
築が真結を諫めている声が聞こえるが、真結がそれを聞き入れる様子はない。むしろ反発し、迩千花に返事を迫る有様である。
今までであれば固執する事なく頷いていただろう。どうせ真結の言う通りになるのだから、しがみ付いたほうがより辛い。
諦める事には慣れている筈だ。それなのに、迩千花は唇を引き結んだまま。是を口にする事も頷く事もしなかった。
望む返答を返さぬ迩千花に苛立った真結は、眦を吊り上げ忌々し気に迩千花を睨みつける。
「迩千花お姉様のような異能も何もない役立たずより、強く美しいわたくしのほうが織黒様の妻として相応しいもの!」
驕りに満ちた言葉は、見えぬ礫となって迩千花を打った。
どうせ今の恵まれた境遇は身に過ぎたもの、いずれは取り上げられるもの。
強く美しい存在の傍らには相応の存在があるべきであり、それは自分ではない。
そう自分に言い聞かせてきた。しかし、それでも迩千花は是を口にできなかった。
自分の中の何かが、それだけは口にしたくないと拒むのだ。
あの時折不器用さを垣間見せる事のある神が向ける優しい眼差しを、否定するような事を口にしたくない。
裡にそんな強い感情があったのかと驚く迩千花に、更に真結が何かを叫ぼうとした時だった。
「……姦しい女だな」
「織黒……!?」
その場に呆れを含んだ低い声が響き、三人は弾かれたようにそちらを見る。
そこには、散々名を口にされた祭神が腕を組み渋い表情で佇んでいるではないか。
落ち着いた色味に柄の着物を纏う姿は、些か美しすぎはするが普通の人間の青年に見える。
耳も尾も見当たらない。不思議の力にて隠して人を装っているのだろう。
思わぬ登場に目を見張る一同に歩み寄ると、織黒はごく自然に迩千花の肩を抱く。
そして、織黒は真結を一瞥し僅かに顔を歪めると嘆息する。それはまるで、見たくもない煩わしいもの、つまらぬものを見たとでも言いたげな様子であった。
明確に自分を蔑む意図を感じて矜持が傷ついたのか、真結は怒りに頬を染めて尚も迩千花に何か言い募ろうとした。
「それ」にいち早く気づいたのは築だった。
瞬時に顔を蒼褪めさせると、焦りを露わに真結の腕を掴み、強く引きながらその場を去らせようとする。
「真結、やめろ。いいからこちらに……」
「築お兄様! 何をするの!? 私はまだ……」
真結は最後まで言い切る事が出来なかった。
黒焔が縄のように真結に絡みついたかと思えば、瞬く間に全身を絡めとり、その細い喉首を締め上げた。
着物や肌が焦げた様子はないけれど熱は感じるようだ。あつい、と言いたいようだが首に圧がかかっているから切れ切れにしか聞こえない。
織黒の意による焔は首を締め付けたまま、徐々に真結の身体は地より浮き上がり始める。
足をばたばたさせながら藻掻く真結を見据える織黒の瞳には、他の言葉を奪う程に激しく暗い怒りがあった。
「お前のようなものが、迩千花の代わりになどなるものか。分を弁えろ」
沸々と煮えたぎるような激情を底に潜ませた、魂を凍てつかせる程に鋭い言葉に、己が言われたのではないと分かっていても迩千花は凍り付く。
しかし、すぐに我に返ると織黒を制するようにその袖を強く引く。
あのままでは真結はいずれ死んでしまう。迩千花はそれを望まない。かけるべき言葉が見つからぬまま、迩千花は必死に織黒に縋った。
迩千花の意思を読み取ったらしい織黒は、鼻を鳴らして悶える真結を一瞥する。すると黒焔は消え、少女の身体はその場に投げ出された。
咳込む真結を見て迩千花は少しだけ安堵の息をつく。受けた苦痛は小さくない様子だが、生きてはいる。
ただ、その目には驚愕と恐怖が宿り、顔は形容しがたい感情で埋めつくされている。
顔色を失くしその場に膝をついた真結を、築が立ち上がらせ、半ば引きずるようにその場から連れ去っていく。
声を失ったかのように何も言う事の出来ぬまま、目を見開き茫然としたままの真結は抵抗することなく姿を消した。
その場二人だけになってから漸く、迩千花は大きく息を吐き出すと掠れた声で言葉を紡いだ。
「何も、あそこまでしなくても……」
止めなければきっと最悪の事態に――織黒は真結を殺していただろう。
そのあまりに迷いのない容赦のなさに、迩千花は思わず愕然とする。
織黒に過ぎた行いだったと悔いる様子は欠片もない。当然の報いだったと思っている様子は感じ取れるけれども。
迩千花の血の気が引いた顔に気付いて少しばかり苦々しげに眉根を寄せるものの、嘆息交じりに告げる。
「……あれは、お前にとって良くないものだ」
迩千花は何かを言いかえそうとしたが、思わず口をつぐんでしまう。
確かに、真結には今まで数々の辛酸をなめさせられた。
憚ることなく迩千花を常に蔑み、遊び代わりに虐げては笑う。
迩千花の大切なものを、彼女を苦しめる為だけに奪っては楽しんでいた。笑みを浮かべながら生かさず殺さずいたぶり続けた。
辛く苦しい日々を無かったものに出来るほど迩千花は人間が出来ていないし、真結を許せる日は来ないだろうとすら思う。
しかし、だからといって死ねばいいとまでは思わない。
複雑な迩千花の心の裡を感じ取ったのか、織黒は一度何かに思いを巡らせるように瞳を伏せる。
「今も昔も、あの女は……」
どういうこと、と迩千花は不思議に思った。
織黒が眠りから目覚め顕現したのはつい先頃の話であって、それ以前については知らぬ筈だ。誰かが話して聞かせたのだろうか、それとも……。
「俺はまた守れずに……何もできずに悔いたくない……」
織黒は誰かに言い聞かせるように呟く。
迩千花の事すら今の織黒の意識の中には無いのではないかと思う程に、遠くに思いを馳せているのではと感じた。
真結と迩千花の事だけではない何か。
織黒が失った過去にある、彼にとって大切な何か。その何かについて心から悔いている、それだけが伝わってくる。
しこく、と迩千花が無意識のうちに小さく呟くと、弾かれたように織黒は我に返り、迩千花へと眼差しを向けた。
「だからお前を行かせる事には反対だった。俺を置いて、何があるかわからぬ外にいくなど……」
真結に対してあれ程冷酷な面を見せたとは思えない、少しばつが悪そうな不貞腐れた様子を覗かせる織黒に迩千花は苦笑する。
置いていかれて拗ねた子供のような表情は、そういえば留守居を頼んだ時にも見せていた。
左程長く屋敷を空けていたわけではないのに、迩千花が居ない事に堪えかねて出てきたらしい。
祭神らしからぬ、というよりも子供のような振舞いに、どう言葉を紡いで良いものか。
そんな迩千花を見ていた織黒は、不意に迩千花を横抱きに抱え上げる。
突然の事に悲鳴をあげかけたが何とか堪えた。問うような眼差しを向けたなら、織黒は帰るぞと短く告げる。
築がまだ戻っていないのにと抗議しても知らぬ顔。奴なら勝手に戻るだろうと言い放つと、風を纏って宙を蹴り、真神は迩千花を抱えたまま空を駆けた。
風を切る感触に目を細めながらも、迩千花はひとつの物思いに沈む。
――織黒は失った過去に誰か大切な存在が居たのではないだろうか、と。
そのひとを守れなかったからこそ、迩千花を守ろうとしているのではないだろうか。
そのひとの望みを叶えられなかったからこそ、代わりに迩千花の望みを叶えたいのだと。
迩千花を代わりにして、悔いる過去を取り戻そうとしているのではないかと……。
けれども、それを口に出して問う事が出来ない。不思議な確信が口を閉ざす。風が言葉を飲み込み、迩千花は沈黙を纏う。
与えられている全てが誰かの身代わりだとするならば――。
仕方のない事、当然の事。
数々の想いが鬩ぎあう迩千花の中に、最後にのこったこころは『さびしい』という想いだった。
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