希から忌へ


 その日、迩千花は織黒と共に表の庭園を歩いていた。

 かつては表庭に足を踏み入れただけで叱責され罰を受け、下男にすら口ぎたなく罵られるばかりであったから、足を向ける事も無くなっていた。

 美しい花々がどれ程妍を競っていようとも、見る事が出来ないものなら最初から無いものと思って考えぬようにしていた。

 それを織黒との何気ない会話の中で織黒が知る事となる。

 ある時、朝餉が終わると織黒は迩千花を伴い表庭へと足を踏み入れた。抜けるような青空が美しい晴れの日の事であった。

 庭を任された庭師は大層腕が良いと聞く。鮮やかではあるが品の良い配色の花々が絶妙な調和を以て咲き誇る様を見て、迩千花は目を細め感嘆の息をつく。

 けれども、迩千花にとっては緋那のいるあの彼岸花の庭のほうが余程好ましいと思う。


 かつて、しあわせな気持ちであの場所を歩いた。

 私がいて、織黒がいて、そして……。もう一人、そうもう一人誰かが居たような気がする。温かな陽射しに照らされた紅い花の中、三人。

 他愛のない話をしながら、笑みを零しながら。とても満ち足りた、もう戻らない懐かしく愛しい……。


 そこで、迩千花は我に返って目を瞬く。


(今のは、一体……)


 まるで意識だけが時を駆け抜けたような、不思議な感覚だった。

 覚えがない筈の出来事をまるで我が事のように感じ、自分が自分ではなくなったような……。

 ふと隣を歩んでいた織黒を見つめる。心配させてしまったのではないかと気がかりで。

 織黒は今の迩千花の異変には気付いていなかったようだ。庭の景色に、何処か遠くを見つめるような眼差しを向けている。


「……こうして美しい庭を目にしても、あの奥の庭こそ好ましいと……懐かしいと思うのは何故なのだろうな」


 思わず目を見開いて織黒を凝視してしまう。

 彼もまた、この趣向を凝らした庭によりもあの赤い花の庭を好ましいと。そして、あの庭を懐かしいという感覚を覚えたというのか。

 自分が感じた何かを、織黒もまた感じたのだろうか。そうだとしたら、それは何故か。

 何かを語り掛けたくても、言葉は形として紡がれてくれない。もどかしさに迩千花が思わず唇を噛みしめてしまった時。

 聞き覚えがあるけれど、叶うならば聞かずに過ごしたいと願っている声がその場に響いた。


「迩千花、庭を見ていたのですか?」

「お母様……」


 頑張りはしたものの顔が曇ってしまうのは最早仕方ない。可能な限り顔を合わせずに居たいと願う相手がそこにいるのだから。

 見ればその少し後方には父もいるではないか。揃って上辺だけの笑みを取り繕っているのが良くわかる。

 織黒の機嫌を損ねぬようにと最大限に留意しつつも、迩千花に語り掛ける笑みにはちらりと蔑みが滲む。

 娘が醒めた気持ちで母を見すえている事には気付かぬまま、或いは気づいていても知らぬまま、母は迩千花に語り掛ける。


「織黒様とは仲睦まじく過ごして居るようで何よりです。……良い知らせもそう遠くない内に期待できるかしら?」


 その言葉の意味を迩千花が理解する前に、母は迩千花の両肩に手をやると、耳に口元を近づけた。

 傍目から見れば、母が娘を抱擁したように見えただろう。

 けれどその腕の感触が迩千花には異質すぎてざわりと寒気を覚える。

 まるで鎌首を擡げる毒蛇にでも捕まったような心持ちだ。

 身を強ばらせる娘の様子など意に介した風もなく、母は暗い愉悦を宿した声にて囁く。


「……力ある存在が相手であれば、それが祟り神であろうと構わないもの」

「は……?」


 迩千花の表情が凍り付く。

 母が囁いた毒が、言葉の意味を理解していくと共に迩千花に染みわたっていく。

 この人は、まだその様な事を。怒りや様々な感情が綯交ぜになり、迩千花の裡は一瞬にして荒れ海のようになる。

 言い返さぬ迩千花に気をよくしたのか、毒蛇のような女は更なる毒を愉しげに注ぐ。


「よくよくお仕えして情けを頂いて、早く子を為しなさい。祭神の子であれば力ある女児が生まれるでしょう」


 気持ちが悪い、気持ちが悪い、気持ちが悪い。

 迩千花の心を埋めつくすのはその言葉だけ。

 薄笑いを浮かべながら、心の底から醜悪な願いを口にできるこの人が、それを是としているであろう父も、本当に。

 かつて禁忌を犯せと強いた母は、尚も迩千花に女児を産む事を望むのだ。

 過ちを悔いる事も省みる事もなく、我が身に非があるとはけして思わずに。

 それこそが正しい事だと信じて疑わず、迩千花に血を繋ぐ道具であれと言い続けるのだ。

 言い返したいけれど、虫が全身を這いずりまわるような嫌悪感と吐き気を抑えるので精一杯。

 今すぐこの戒めを拒絶したい、そう願った時に不意に肩にかかる圧が消失する。

 織黒が無造作に迩千花から母を引きはがしたのだ。その勢いのあまり母は地に倒れこみかけたが、父が咄嗟にそれを支える。

 父が息を飲む音が聞こえ、転倒は免れたものの母はあまりの事に茫然と織黒を見つめている。

 おそらく非難したいのであろうが、それを口にすればどうなるかが分かり切っているために飲み込まねばならない。

 言葉こそ紡げないし平静を装おうとしているけれど、その瞳には怒りや苛立ちが隠しきれていない。


「……迩千花の気分が優れない。……速やかに去ね」


 無言の抗議に精一杯の父母に対して、感情の欠片も感じさせぬ酷薄な声で織黒は告げる。

 冴え凍るその声音に打たれたように二人の肩がはねたかと思えば、二人は喉元を抑えて苦しみを露わにしながら震え始める。


「聞こえないのか? 去ねと言っている」


 迩千花を片腕で抱き寄せながら、織黒は尚も告げる。司るのは焔なれども、その声音は万物を凍えさせる吹雪を思わせる。

 そして異能を持たぬ迩千花にも分かる、この場の空気が重く歪み始めた事に。

 父母が織黒の言葉に従わずにこの場に留まり続ければ、それは尚も重く二人を圧し潰す程のものとなるであろうことも。

 何かしら母が言葉を発したのは分かったが、何と言ったのかまでは聞き取れなかった。顔色を失くして母は身を翻して駆け去り、父も動揺露わにそれを追う。


 迩千花は母の気配が消えても暫く荒い息を繰り返していたが、少しして漸く息が出来た。

 抱き締める腕の温もりを感じれば、身体の強ばりが解けていく。

 身体を駆け巡っていた嫌悪感と吐き気は徐々に消え失せていく。

 徐々に迩千花の顔色が戻ってきたのを確かめながら、織黒は嘆息交じりにふと問いかけた。


「何故ああまでお前ではなく、お前の子に固執するのだ」


 やはり聞こえていたのだ、と迩千花は心の中で苦々しく思う。

 血族の恥を晒したようで気分が重いけれど、迩千花はひとつ息をついて遠くを見つめるような眼差しで言葉を紡ぎ始めた。


「私は最早役立たずですが、私の子であればもしかしたら強き異能を有して生まれてくるかもしれないと思っているのです」


 一族を繋げる長としての責については迩千花とて理解する。

 けれどもあれは最早妄執の域だ。人の理すら失くし、何の為にそれを為すのかすら失った成れの果て。

 かつて思いのままにした栄華を再び我が身に取り戻す事に取りつかれた、浅ましいものだ。


「三年前から私に子を産ませる事に躍起になっていました。不快に思っても、今更です」


 大きな溜息と共に紡がれた言葉には、深い苦渋の響きがある。

 あの出来事さえ起こらなければ、全ては恙無く在ったのだろうか。

 母は変わらずに、迩千花もまた不遇に暮らす事なく、何もかも良いように。


「……三年前に何があったというのだ」


 黙したまま聞いていた織黒が問いを口にする。疑問に思うのも無理ない事かと思った迩千花は目を伏せて過去について言及し始めた。


「三年前、私は祭祀に失敗したそうです」


 我が事を伝聞のように言う様子に、織黒が怪訝に思ったのが感じ取れた。しかし迩千花はそのように語るしか出来ない。何故ならば――。


「……その時より前の記憶がないのです」



 迩千花には三年前以前の記憶はない。故に全ての情報は伝聞によるものだ。

 迩千花はかつて強き異能を持って生まれたが為に、一族の全てから祝福され尊ばれていた。

 直系の長女として、祖として名高い寿々弥の再来とも呼ばれる程の異能者が生まれたのだ。父母の得意は推して知るべし。

 大勢に傅かれ父母からも大事にされ、将来を嘱望されて育った迩千花は、成長するにつれて目覚ましい才を見せた。

 見瀬の真結もまた強き力を持つけれど、やはり本家の迩千花には叶わぬと人々は囁いていたという。

 一族の人々の期待を一身に背負った迩千花は、三年前のある日、本来であれば長が務める祭祀に臨んだ。

 迩千花ほどの才と力があれば不足はあるまいと思われたその時、異変は起きた。

 祭祀を始める為に迩千花が祭壇の前にたち、儀を始めようと力ある言葉を紡ぎ始めた時だった。

 一瞬にして空は黒雲に覆われ暴風が荒れ狂い人々をなぎ倒し、祭壇は降り注いだ雷によって打ち壊され、迩千花はその場に投げ出された。

 祭祀は続ける事が出来ずに中断する事となり、意識を取り戻した迩千花は一切の異能と記憶を失っていたのだという。

 朧気に残る過去の断片はある、けれどそれ何の意味があるだろう。

 迩千花にとって更なる向かい風となったのは、それ以降祀っていた神が沈黙した事だ。

 一族の誰が呼びかけても、どれほど強い異能者が働きかけようと、その日以来祭神からの応えは無かった。

 祭祀にて起きた凶事に次ぐ更なる凶事に人々は震え、やがて震えながら口を開く。

 人々は迩千花が祭祀に失敗したが為に、祭神が一族を見放したのだと声高に叫んだ。

 迩千花は異能を失い役立たずになったばかりか、祭神まで失わせた忌まわしき存在だと称するようになった。


 そうして迩千花は、寵児から忌むべき存在へと堕ちた。

 天国から地獄とでも言うような転落である。

 だが、迩千花の中には地獄しかない。天に在った頃、一族の期待を背負い栄光の中にあった日々については覚えていないから。

 しかし、それでいいとすら思う。そんなもの、半端に覚えていても辛いだけだから。

 全てを諦める事によって、迩千花は自分を守ってきたのだから――。



 迩千花が語り終えると、二人の間には静寂が横たわる。

 織黒が何と感じたのか迩千花には知る事が出来ない。故に迩千花は何も紡ぐ事なく織黒の反応を待つばかり。


「……授かるならば、いずれ子は望みたい」


 沈黙を破り、織黒は呟いた。思わず見上げた先には、苦笑いの中に優しい眼差しがある。


「だが、今は望まぬ。……お前の心が定まらぬうちは、求めぬと決めた」


 織黒は眠る時に当然の事として迩千花を腕に抱いて眠る。

 男性と同じ床で眠るという事に当然ながら慣れておらず、最初こそ胸がわざめき眠れぬ心地がしたものだ。

 けれどそれだけだ。夫婦であるといいながら、今に至るまで織黒が迩千花を求めた事はない。

 安堵する一方で、価値なき自分ではやはり足りぬのではなかろうかと思う事もあった。だが、違うのだ。


「お前が望まぬ事を、俺は一つとて強いたくない。お前がお前の望む通りに在る事、それが俺の望みだ」


 迩千花が望まないから、それをしない。織黒の行動の理由は至極簡単であり、理解の難しいものだった。

 ここまで、迩千花の望みを、こころを慮ってくれた相手は居なかった。

 何故そこまでと思う。私になんか、そんな価値なんかない。自分はもう何も返す事ができないのに。


「……戻るぞ」


 織黒は迩千花の肩を抱いたまま静かに歩き出す。肩に触れる手は、先程感じた母の手の感触を拭い去ってくれるほどに温かだった。

 期待してはいけない、何時しかこの大いなる存在である男性も自分から去るだろう。この手の温もりとて何時かは失うのだ。

 自分には何も無い、何も残らないのだから。自分はそういう存在だから。

 けれど。


(今、ほんの少しだけ……)


 少しの間であっても、あたたかさに心を委ねたい。それだけは許して欲しい。

 裡にて呟いた迩千花は、こころに小さな何かが灯ったような気がした……。


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