兄というひと
再び二人だけにはなったものの、先程までの甘やかな空気は消えてしまっている。
痛い程に重々しい沈黙が満ちたが、それを破ったのは盛大な嘆息だった。
「……お前の兄でなければ早々に消し炭にしてやるものを」
心の底から忌々しいと思っている事を少しも隠さずに織黒は吐き捨てるように言う。
それは冗談でも例えでもない、織黒の本心であろうことを感じ取った迩千花は、思い切って問いかける。
「どうしてそんなにお兄様を目の仇にするのですか。確かに、お兄様の態度は問題ですけれど……」
迩千花も少しばかり築の態度はおかしいと思う。
築は温和で思慮深い性質であり、平素は誰に対しても穏やかで丁寧な対応を崩さない。
それがどのような相手であっても同様だった。だというのに、織黒に対しては先の通りである。
そして、対する織黒の築への態度もまたおかしいと思うのだ。
確かに兄の態度は不快であろうと思うけれど、どうにもそれだけではない気がする。
他の人間に対しては有象無象に対する煩わしさを感じているのだと思う時はあるが、築に対しては間違いなく築を築と認識した上で嫌悪を露わにする。
「……あの男を随分大事に思っているようだな」
迩千花の問いに、織黒は顔を顰めて言葉を返す。問いの内容に機嫌を損ねたのが明白である。
問うた迩千花に対しての不快ではなく築に対する不快を深めた空気を察して思わず息を飲むけれど、迩千花は意を決して続けた。
「お兄様は……昔から私を大事にしてくれて、優しくて。私の、大切な方な……」
迩千花が異能を失くした事で周りの全てが敵となり迩千花を苛む中、唯一築だけは違った。
かつて迩千花が跡取りとして扱われていた頃、築は迩千花に仕えるように命じられていたそうだ。
それなのに不満に思う事もなく、むしろ重圧を背負わされた妹を気遣い優しく世話を焼いてくれていたという。
真結に仕える事となった後も何かにつけては迩千花への気遣いを見せる兄を、迩千花は突き放した。
優しく思慮深い築、ただ一人迩千花を愛し慈しんでくれる大事な兄、だからこそ迩千花は築に冷たい態度を取り続けた。
そうしなければ、完全に奪われてしまうから。
真結は跡取りと目されるようになってから、様々なものを迩千花から奪っていった。
それは着物や道具といった物であり、友であった少女達であり、そして大事な兄であり。
迩千花が大切に思えば思う程、高らかに笑いながら真結は迩千花からそれを奪っていく。
かつては奪われる度に哀しく思い泣いたものだが、今はそれすら出来なくなった。
奪われて辛いなら大切に想わなければいい。
大切に想うものを作らなければ、奪われても辛くない。愛さなければ、失っても痛くない。
大事に思うほどそれを遠ざける。思わなければ奪われない。
本当に大切な、迩千花にとっての心のよすがを本当に失わない為に。迩千花は築を冷たく突き放してきた。
それでもあの優しい兄は、迩千花を慈しむ事を止めなかった。変わらず迩千花の光であり続けたのだ。
「信じられぬな」
迩千花の物思いと言葉を遮るように、織黒は言う。
その真意を問うように見つめる迩千花の眼差しの先で、織黒は吐き捨てるように続ける。
「あれが妹を見る目か。兄が、あんな瞳で妹を見るものか」
そこにあったのは、心の底からの嫌悪と敵意。まるで恋敵や仇敵に向けるかのような、激しく暗く燃え盛る……。
何故兄にそのようなものを向けるのか。そのような事を言うのか。
血を分けた兄が自分をどのような目で見ているというのか。あんなに、優しく穏やかに見つめてくれているというのに。
織黒の目には、築の眼差しがどう映っているのだろうか……。
怪訝そうに織黒を見つめながらも、ふと思い出す。
そういえば緋那も以前、築に対して忌避を口にしていた事があったと。
『迩千花のお兄さんと思っても、何というか……笑顔が胡散臭いのよ』
優しい人なのだろうとは思うけれど、と緋髪の少女は肩を竦めたものだった。
見えぬ筈だから構わないと思うのに、築が庭に足を踏み入れると緋那は顔をしかめて消えてしまう。まるで築と顔を合わせたくないというように。
兄はどうにも人ならざる者から嫌われているような気がする。
そういえば優れた術者ではあるものの幽世の存在を使役する術を使うのを見た事がない。得手ではないのかもと思った事はあったが……。
もしかしたら人ならざる存在との相性が悪いのかもしれない。その性質故に、織黒や緋那に倦厭されているのかも。
緋那に考えを巡らせたとき、あの騒動の後初めて話した時の事を思い出す。
あれは、身体に大事が無い事が分かったあと、密かに床を抜け出して会いにいったときの事だった。
顔を見せてすぐに現ならざる身体で抱き着いてきたかと思えば、迩千花が無事であった事に安堵した緋那は安堵に涙を滲ませていた。
迩千花は改めて緋那を見つめる。
実の身体を持たない庭を覆うように咲く彼岸花にも似た紅の髪と瞳を持つ少女は、花の精であるらしい。
曖昧な言い方になるのは、少女自身も自分について正しく把握していないからだ。
気が付けばこの庭にいて、屋敷の移ろいを見つめていたという。
迩千花が明るい場所から転落してから初めて棘を含まぬ言葉をかけてくれたのが緋那だった。
自分に何が起きたのか分からぬまま、仇でも見るような人々に、投げつけられた境遇に、ただ泣いていた。
そんな自分を何時の間にか覗き込んでいた少女に気づいて、とても驚いたのを覚えている。
『何故か、昔から知っている気がするの。他人事とは思えないっていうのかしら』
微笑う少女は、そう言って手を差し伸べてくれた。
冷たい心の礫ばかりぶつけられて傷つききっていて、最初は自分に差し伸べられた手を信じられなかった。
でも、戸惑いながらもその手をとった。本当に触れる事は出来なかったけれど、その手がとても温かに感じた。
花精の少女は、名を持たないと言っていた。
呼び名がないと不便であるからと名付けを求められ、迩千花は彼女に緋那という名を与えた。
緋那は満面の笑みを浮かべてくるりと踊ってみせたものだった。
何時しかすり減るような辛い日々、気が付いたら奥庭にて緋那と語らうようになっていた。
人に見咎められれば緋那も、彼女との時間も失ってしまう恐れはあった。
しかし、どういう訳か異能者揃いの家中の人々の誰一人として彼女を見る事も、声を聞く事も出来ないのだ。
緋那の姿を見る事も聞く事も、出来るのは何故か迩千花だけ。
故に彼女は、迩千花にとってけして奪われずに住む、唯一人の友であるのだ。突き離さずとも失う事のない、大事な心の拠り所だった。
その緋那だけは唯一織黒との事を祝福してくれた。手放しで喜んですらいるようだった。
『迩千花を守ってくれる存在が現れた事が素直に嬉しいの』
その喜びように戸惑いながら、相手は祭神に封じられ眠りについていた祟り神であるのにと口にした迩千花に友は言った。
あの方は迩千花を絶対に守ってくれる、そんな気がすると。
緋那もまた織黒について詳しく知る訳では無い筈なのに、何故かそれだけは確かだと思えると言った。
織黒が迩千花を求める心は確かであり、守りたいという願いは真実であると何かが告げるのだという。
存在が呪いを帯びているのは本当のことであるけれど、人に仇為す存在であるのか。あれは何か理由があるのではないだろうか。
そして、あの方は本当に祟り神なのか、とも口にしていた……。
「迩千花?」
「あ……。ごめんなさい、考え事を……」
整えられた膳に視線を遣りながら織黒は迩千花を覗き込む。食べないのか、と言いたいらしい。
織黒がそういう言うという事は食事に害はないということだ。
そもそも、食膳を整えたのは築である。毒など盛る筈もない。
織黒は普段人のとるような食事はとらない。時折気が向いたら迩千花と共に食する事もあるし、酒を求める事もある。
だが、大概は温かな普通の食事に思わず頬を緩める迩千花を慈しむように見つめている。何かを噛みしめるような、幸せそうな表情で。
迩千花はいただきますと言って、箸をとる。
心に渦巻く疑問は消えないけれど、見つめる視線を温かく、そして些かくすぐったいと思いながら食事始めたのだった。
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