祭神の寵愛


 誰かが悲しんでいるのを感じた。

 もう一度。もう一度会いたいのだと誰かが声にならぬ声で叫んでいる。

 自分を守る誰かが、呼んでいる。

 もう一度、どうか、と……。

  



 その日から迩千花は祭神である織黒の妻として遇される事となった。

 散々疎んじて虐げてきた相手が、一転して神に鍾愛される貴人である。

 それまでは蔵に追いやっていたものの、もうそのような場所においておくわけにはいかないと家中は大騒ぎである。

 急ごしらえではあるが物置代わりとして使われていた離れを改装し、そこが二人の住まいとなった。

 母屋でなくていいのか、祭神をそのようなところに……という声があったが、父母と同じ屋根の下で暮らしたくないという気持ちが消せなかった。

 どう丁寧に扱われようと不快に思う者達の視線に常に晒されるような場所で息が付けようはずがない。

 迩千花が良いといえば、織黒から異論が出る事はない。そもそも、左程住まいに拘りはない様子である。

 使用人達は丁重な物腰で接してはいるけれど、どこか罰が悪そうなのは隠せていない。

 今まで迩千花を虐げてきた分だけ、迩千花を溺愛する織黒の意趣返しが恐ろしいのだろう。

 織黒に一瞥されただけで飛び上がる程に怯え、青白い顔をして震えながら事あるごとに平伏する。


 しかし、一族全てが織黒を祀る事を是としてわけではなかった。

 異を唱えたのは、まず見瀬の者である。

 祟り神を祭神とするなどと言ってはいるものの、本音としては迩千花が祭神の妻となり玖珂が勢いを盛り返すのを警戒しているのは明白である。

 殊に真結の怨嗟は凄まじいものがあるという。

 迩千花が立場を失くすことで我が世の春を謳歌していたのである。祭神の寵愛にて往時の勢いを取り戻されたらほしいままにしていた栄華は危うくなる。

 現に迩千花が織黒の妻となったと聞いて、早々と鞍替えするものとで出ているという。

 迩千花にとっては、どうでもいい事だった。煩わしい、放っておいて欲しいとしか思えない。

 自身を取り巻く環境の激変に慣れる間もなく、次から次へと迩千花と織黒へ謁見を願い出るものが後を断たなかった。

 あまりに鮮やかに手のひらを返して迩千花に取り入ろうとする者達の攻勢で迩千花は疲弊していた。それは、遂には離れに近づく事が一時制限されるようになる程。

 見え透いたお世辞で迩千花を持ち上げ、己の利己的な願いを叶えさせようとする者達の思惑は分かりやすすぎる程に醜悪だった。

 迩千花は酷い吐き気に襲われる事が度々あり、織黒はそんな迩千花を守るように傍らから離れず繊細な手付きで背を撫でてくれた。それは酷く心が落ち着き安らぐ感じがした……。


 激動の日々が慌ただしく過ぎ去った後の、ある昼下がりの事である。

 迩千花は非常に困惑しながら、勇気を振り絞り織黒へと声をかけた。


「あの」

「何だ?」


 耳まで赤くなっていないかと心配になりながら声をあげるものの、織黒は何を問うのだと言わんばかりに鷹揚に視線を巡らせるばかり。

 現在、迩千花は織黒に横抱きに抱き上げられていた。

 載せられているのは胡坐を書いた織黒の膝の上、抱きかかえた迩千花を覗き込む織黒の眼差しに冗談の色はない。

 ただ、ひたすらに優しく温かな慈しみだけがある。


「どうして、このような状態に……」

「夫が妻を抱くのが、可笑しいのか?」


 少し前までは、迩千花は織黒に請われて彼の艶やかな髪を櫛けずり整えていた。

 その最中、不意に腕を引かれたと思えばくるりと身体が回転するのを感じ、気が付けば迩千花は織黒の腕の中に居た。

 戸惑いに声がやや震える迩千花に微笑んで見せながら、こうしたくなった、と耳元に降りる色気孕む囁きに胸の鼓動が跳ねる。

 愛しいと、言葉にせずとも眼差しが、声音がそれを伝えてくる気がして返す言葉が出てこない。

 手加減なしに甘やかし迩千花を翻弄すると同時に、迩千花に全力で甘えてもくるため迩千花の心は揺れに揺れる。

 ……時折、大きな犬にじゃれつかれている気がする事もあるが。

 何の裏もない全幅の信頼と愛情を真正面から向けられる事は、何処か迩千花を身の置き所がない心持ちにさせる。

 何故そこまでという理由がわからない。それなのに、喜びと共に受け入れてしまいそうになる。

 それは神としての何らかの力故か、それともこの男性故なのか、迩千花には分からない……。

 織黒がこのように無防備に隙を見せるのも、壊れ物を扱うような優しさや柔らかな眼差しを向けるのも、迩千花にだけ。

 迩千花以外の存在に対しては冷厳なる態度以て向い、祭神の名に相応しき威容を備えて佇む。

 言葉かけることすら憚られるような威圧感に、これは本当に同一の存在かと疑ってしまう程だ。

 胸の裡にほの暗い喜びが生じてしまいそうになる。それは多分独占欲とも言うべきもの。

 けれどもそれはあってはならない、知ってはならないものなのに。

 拒みたい、なのに拒めない。優しい声を、眼差しを、守るように抱き締めてくれる腕を。


 しかし、甘やかな雰囲気が一瞬にして掻き消える。そうかと思えば織黒の纏う空気が刃のように鋭いものへと転じる。

 一瞬遅れて迩千花はその場に二人以外の人間が現れている事に気づいた。


「迩千花を離せ、慮外者」

「お、お兄様……」


 何時の間にか築が入口から姿を見せており、織黒に対して冴え冴えとした眼差しを向けていた。

 手には食膳がある。昼餉を持ってきてくれたのだと知れる。

 しかし、築が織黒に対する態度はおおよそ尊ぶ祭神への態度ではないし、眼差しには敬意の欠片すらない。


 織黒を祭神とする事に異を唱えたのは、他の誰でもない迩千花の兄・築もであった。 

 築が反対するのは、織黒が祟り神である事、迩千花を贄に差し出したと同様の状況を憂いての事だった。

 両親に抗議しても聞かぬ振りをされ、それでも尚声を上げ続けている。

 玖珂の家人が揃って織黒の顔色を伺い迩千花にへりくだる中、今や祭神である織黒を祟り神と呼び異を唱え続けるのは築だけだった。


 築は迩千花の世話をする為に真結のもとから本家に戻されていた。

 迩千花はそれが、母が築を分家から取り戻す為にこじつけた名目である事を知っている。

 それを建前としない為か、迩千花たちの身の回りの世話は築が行っている。何よりも本人が迩千花の側仕えをする事を望んだのだ。

 すっかり自分の事は自分でする事が身に染み込んだ迩千花にとっては、人に世話を焼かれる事には抵抗がある。

 ましてや、兄に側仕えをされるなどとも思う。だが、拒絶しきれない。

 正しく言うと、迩千花の世話を築が行い、迩千花が織黒の世話を焼く。築は織黒の世話に関しては断固拒否しているからだ。

 迩千花に対してはひとつひとつの対応が繊細で優しすぎる程に優しい築だが、織黒に対しては時折迩千花の血の気が引く程に刺々しい。

 慇懃無礼とすら言えない、敵意を隠しもせず態度もぞんざいなのだ。祭神とて尊ばないという話ではない。もはや妹によりつく悪い虫のような扱いである。

 織黒もまた築が気に入らぬようで、他者に対するものよりも態度が露骨な嫌悪に満ちている。

 一触即発といった空気になる事も多々。二人の間に挟まれれば、迩千花は生きた心地がしない事しばしである。


「迩千花を自分のもののように扱うな、呪い狼め」

「迩千花は俺の妻だ。……夫が妻を愛でて何が悪いと?」

「そういう事にしておいてやっているだけだ、弁えろ」


 その場を目に見えぬ稲妻が駆け巡った気がした。

 迩千花は顔色を失くして身動きひとつできず凍り付いてしまっている。背筋を冷たい汗が一筋伝ったのを感じた。

 止めなければ、と思うのだが声を発する事すら出来ない。

 織黒はぐい、と殊更迩千花を自分に抱き寄せて見せながら、迩千花の前に膳を置くと整えていく築を睨めつける。


「不遜なその態度。迩千花の兄である故に目こぼしをしているだけだ。それを忘れるな」

「……祟り神の戯言など覚えていられるか」


 迩千花の顔色が更に無くなる程の冷酷な声音にも、築は少しも動じる事はない。

 迩千花に対して微笑みかけまた顔を出す事を告げると、織黒の存在を無視するかのようにその場を辞していった。

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