ファザコンは続く

朱々(shushu)

ファザコンは続く

 同じ血が流れる人間から愛されたい。

 これは傲慢なのだろうか、偽善なのだろうか。




 賑わうターミナル駅のなか目が止まったのは、やはり顔馴染みだったからのように思う。六十代手前なのにラフな若者のような身なりをする男と、腕を組み隣に並ぶ明らかに地味な女。一瞬で理解してしまったのは、自分の家庭環境もあると思う。


 その男は父親である。


 そして女は、父親が長年共に暮らす愛人である。


 愛人の顔は、ずっと見てみたいと思っていた。どんな顔をしてどんな顔で笑い、どんな仕草で父親の懐に入ったのか。

 だが真実を知ってみれば、なんてことのない地味な女だった。ブランドものなど一切興味のないような、男の三歩後ろを歩くような、勝手だがそんな第一印象だった。


 私は眼科に行く途中で、急いでいた。

 だが、そのふたりを見たときは、さすがに時が止まった。あの人たちは、きっと私に気づいていない。気づいていたらあんな様子じゃないはずだ。

 心を押し殺し、いつもとは違う道を利用して立ち去った。やるせない気持ちを抱え、なんとか眼科へ向かった。




 我が家は、昔から変わっていると思う。


 両親と私と弟ふたりの五人家族だが、父親とはまともに一緒に暮らした記憶がない。私が中学にあがる前には、父親は段々と家に帰ってこなくなった。突然帰ってこなくなるのではなく、徐々にフェードアウトしていくタイプだった。

「今日もお父さん帰ってこないの?」

「そうね、お仕事忙しいみたい」

 そんな会話を幾度か繰り返したが、だんだんと疑問すらなくなった。

 父は、私たち家族を、家を、捨てたのだ。

 と、こう話すとまるで父が父親の責務を投げ出したように見えるが実はそうではない。実家のローンも光熱費も食事代も携帯料金さえも、我が家にある全ては現在も父が払い続けている。


 年に四回、春夏秋冬を目安に家族五人で集まり、そこそこ値段のするお高い場所で食事会をする。私はこれを、「家族会議」と呼んでいる。

 集まったときに話すことといえば、近況の報告だったり、父と弟たちとの共通の趣味であるスポーツの話、最近あったおかしな話など、なんてことのない雑談ばかりだ。


 芯の喰う話は一切しない。

 これは、この家族会議が始まってから自然とそうなっている。

 未来の話、将来の話、自分の思い相談、老後のこと。

 父と共に暮らす、愛人の存在。


 それら全てを忘れ、忘れたフリをして、私たちは「家族ごっこ」をする。年に四回のパフォーマンスだ。

 家族会議は、現地集合現地解散が常だ。現地解散で私たちはタクシーに乗り、父はひとり外で私たちを見送る。タクシー運転手はいかにも、一緒に乗らないんですか?という顔をするが、父は乗らない。父には、帰る場所があるから。




 父の住居を、十年ほど知らなかった。


 知ったキッカケは、「ウチに来てバーベーキューするか?」という至極簡単な誘いだった。当時まだ大学生だった私は、友達数人と共に指示された場所へ向かった。なんてことはなかった。父の住む場所は父が経営する会社の二階で、改造に改造を重ねまくっていた。室内の謎なスペースに囲炉裏があった。


 父は私の友人に会えるのがよほど嬉しかったのか、囲炉裏で焼ける様々な食材を準備してくれていた。手際の良い父はずっと料理担当だった。


 その日は突然愛人の姿はいなく、だが、気配は充満していた。シューズボックスにあるヒール靴。キッチン横の棚にあるピンク色のマグカップ。


 あげく、まだ友人たちが来る前に私がひとり絨毯の上でまだ料理の準備を待っているあいだ、ふと、絨毯の先のくるっとしている部分に固い何かが手に当たった。

 なんだろう?と思ってそっと見てみると、それは女子ウケに良いブランドのグロスだった。オレンジ色寄りの、可愛いケースのグロス。


 絨毯の丸みに隠されたグロス。


 これは本当にここに忘れたのか? それとも見張られているのか? 試されているのか?


 私には、答えがわからなかった。


 そこで父に問い詰める勇気もなく、私はそっとそのグロスを自分のカバンに入れ、持ち帰ることを決めた。


 友人たちが集まってからは囲炉裏を中心に宴が始まった。新鮮な魚や海などの魚介類が、食欲をそそる。大学の友人という気のおける仲間だからか、ずいぶんとリラックスしてしまった。お酒の酔いもあったと思う。


 でもどこかで、あのグロスの存在が、頭の隅から消えなかった。




 家に帰宅してからは胃薬を飲み、大量の水を飲んだ。

「あ、おかえりー。芽衣子飲み過ぎ? 大丈夫?」

 一緒に暮らす、一人目の弟・悠一が声をかけてくれる。

 頭がぼんやりするなか、どうしても誰かに聞いて欲しかったことをぶつける。


「ねぇ悠。これ見て。これ、なぁーんだ?」


 私は父の家から持ってきたグロスを悠一の前でブラブラさせ、笑った。当然悠一は困った顔をしており、姉の言動を怪しく思っただろう。


「今日さ私、父の家行ったじゃん? つい見つけちゃって、持ってきちゃったぁー」

 悠一の目は丸くなり、心底驚いていた。

「え、それって、大丈夫なの? てゆーかなんで持ってきたりしたんだよ。そんなの芽衣子にはいらないだろ」


「いらないよ」


 自分の声に冷静さが戻る。


「いらないよ。いらないから、捨てるの」


 私は自室に入りゴミ箱を持ってきた。そして悠一の目の前で、ボンっと音を立ててグロスがゴミ箱に吸収された。

 悠一は、空いた口が塞がらないように見えた。

 こんな姉の行動が、狂気的に写ったのかもしれない。


「………」


「…芽衣子。着替えて、顔だけでも洗って、早く寝ちゃえ。それがいいよ」


 悠一は、いつも優しい。私の行動を責めないでいてくれる。その心地良さに、姉ながら甘えているんだと自覚する。

「…うん、そーする。悠一、おやすみ」

 着替えてメイクを落としてベッドに入る。

 私は何も悪くないはずなのに、ゴミ箱に入れたグロスを思い出しては、涙がボロボロと止まらなかった。


 なんでこんなことをしているんだろう。なんで持って帰ってきてしまったんだろう。後悔はない。けれど、味わったことのない悔しさと苦しさがあった。






「楢崎さーん。楢崎芽衣子さーん」

 眼科で順番を待っていたとき、当時のベッタリとした記憶が蘇った。おそらくあのときのグロス女と今日の女は同じだ。


 気持ち悪い。

 ただただ気持ち悪い。


 男親にこう感じるのは、娘だからだろうか?

 それとも私が、ファザコンだからだろうか?


 眼科ではコンタクトレンズの定期検診のため、予想以上に早く終わる。怖いのは、帰り道だった。もしまた鉢合わせしたらどうしよう。いや、どうにでもなれ。

 そんな心配も束の間、帰りは無事に会わずに帰宅した。


 グロスのベッタリとした記憶。今日見た地味な女の残像。それら全てが気持ち悪かった。父の性格なのか、男の性なのか。なんにせよ思う。


 気持ち悪い。

 気持ち悪い、気持ち悪い。

 気持ち悪い。心底気持ちが悪い。


 そんな人間が自分の父親であること、奴の血が私にも入っていることが恐怖だった。私ももしかしたら、真っ当に人を愛せないのかもしれない。途中で目移りして、本来の相手を悲しませるかもしれない。仮に子どもが生まれたとして、こんな親から生まれたくなかったと同じように思われるかもしれない。


 その全ての仮説が仮説じゃないような気がして、鳥肌がたった。

 私は、家族の呪いにかけられている。そんな気がして堪らなかった。


 帰り道の駅のホームでふと泣きそうになったことに、理由がわからなかった。


 父と暮らせない寂しさ? いや、違う。

 父が母以外の女を愛している不誠実さ? これは、そうだ。

 なのに家族ごっこを繰り返してること? これは、少しあてはまる。

 父の一番が、私じゃないことに納得がいかない?


「………」


 頭が混乱する。熱でも出たような、もしかしたら、知恵熱かもしれない。

 姉弟のグループLINEに連絡をし、最寄駅まで迎えを頼んだ。二番目の弟・修二が迎えに名乗り出てくれた。






 夜、夢をみた。


 あれはまだ私が小さくて、母は悠一を出産するため入院をしているころだ。

 父と家でふたりきり、緊張していたのを覚えている。


 生まれてくる子は男の子か女の子か、自分に出来るのは弟か妹か。私は私なりにぬいぐるみを用意したり、ブランケットを選んだりと、当時の姉っぽさを身につけていた。

「元気な子なら、それが一番いいよな」

 父は私を膝に乗せ、そんなようなことを言っていた。


「芽衣ちゃん、お姉ちゃんになるんだよ。優しくしてあげてね」


 そんなことも、言われた気がする。


 数日後、私と父は母の面会へ行き、生まれて初めて弟と対面した。

 弟は小さく儚げで、生命力に満ち満ちていた。その頃私がお気に入りで持ち歩いていたぬいぐるみと背丈がまったく同じで、ベビーベッドの横に寝かせたのを覚えている。

「今日からあたし、お姉ちゃんになるんだ!」

 そんな小さな責任感を胸に、私は弟の悠一を、私なりに守りたいと思った。


「芽衣ちゃん」

 父が、私を呼ぶ声がする。

 その音はあまりにやさしくて、柔らかくて、私が大好きだった父の記憶だ。

 当時は「パパ」と呼んでおり、一人娘の私は思う存分愛情を受け取ったと信じていた。

 でも実際は、父の「家族ごっこ」に付き合わされていたんだと思うと胸が軋んだ。


 父は若い頃に自分の父を亡くしており、自分すら「家族像」がわかっていない。だから結婚して、私たちに、理想の家族を追い続けたんだとすら思う。

 愛人を作って出て行ったのは、自分にも関わらず。


 母ひとり息子ひとりで育った父は、それはそれはやんちゃだったそうだ。売られた喧嘩は買い、売られてない喧嘩も買った。車の運転中にガードレールに突っ込んでも、傷ひとつなく生還した。悪運が強いのだろう。


 私がまだ一緒に住んでいたころ、父は現代で言う、いわゆるDVだった。

 気に食わないことがあれば怒鳴り散らし、皿を投げては割り、母を拳で痛めつけた。幸いなのか子どもたちである私たちに被害はなかった。だが、気が狂った母が、父のいない間に私たちに八つ当たりするときがあった。


 それが心底つらく、なんて無意味な時間だろうと毎回思っていた。


 こんな家に生まれたくなかったと心底思った。


 父は、固定概念に縛られない。

 縛られないがゆえ、道を逸れている。

 自分が正しいと本気で思っている。

 けれどその"正しさ"を信じる力に、私は憧れすらあった。

 あんなに傍若無人に振る舞えたら、人生はどんなに楽だろう。

 周りの目を気にしない生活は、心がどれだけ解放されるだろう。

 雑に生きている人間に、どうやったらなれるのだろう。


 目が覚めても眠った感覚がなかったのは、夢見が悪かったからだろう。






「芽衣子、なんか痩せた?」

 二番目の弟・修二に言われるまで、自覚はなかった。だがいざ体重計に乗ってみると三キロほど下がっていた。考え過ぎだと、すぐに思いついた。

「あんま気ィ張るなよ? 俺も悠兄も心配してるからさ」


 ふと思う。なんで悠一も修二も、こんなに真っ直ぐ育ったのだろうか。父があんな人で、グレてもおかしくなかったはずなのに。

 機嫌が悪いのは、私だけか。






 数週間後、今度は皮膚科に用があった。

 道筋は、眼科とほぼ同じ。


 もしもまた会ってしまったら、今度はどうなるか自分でもわからなかった。

 問い詰める? 胸ぐらを掴む? 説明を求める? いや、きっとどれもしないだろう。そんな勇気は、私にはない。私の勇気なんて、グロスを内緒で自宅に持ち帰り、捨てることだ。


 ありがたいことに行きの道では会わなかった。平日と休日の差もあったかもしれない。


 もし今度家族会議があるなら、私は父に糾弾するかもしれない。いや、やっぱり出来ない。私たちの「家族ごっこ」は、今も続いている。それどころか、あれについてまともに会話する勇気もない。


 結論がある。


 私は、父に、愛されたかったんだと思う。

 愛されてみたかった。父にとっての一番になりたかった。なのに軽蔑し、心底恨んでいる。こんな私は、矛盾しているだろうか。


 いつか私たちは、邂逅できるのだろうか。それすらもわからない。

 ただ今は、こんな形の家族もあるんだと、自分に言い聞かせるしか出来ないのだ。


「楢崎さーん。楢崎芽衣子さん、一番のお部屋にどうぞ」

 皮膚科で順番を待っていながら思いを巡らせていると、食道のあたりからぞわぞわした。


 あ、ダメだ。このままでは、泣いてしまう。


 歯を食いしばり涙を堪えて、私は一番の部屋に入るため立ち上がった。きっと他の患者よりも、立ち上がるスピードは遅かっただろう。

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