第2話 未読スルー②
声のする方に視線を向けると、本でできたタワーの間に、小柄な少女が膝を立てて座っていた。
制服の上にパーカーを羽織り、フードの下から白銀色の髪を覗かせている。
ネクタイはしておらず、シャツのボタンを上だけ少し開けて軽く着崩していた。
それはまるで、店先に並べられた西洋人形のようだった。整った鼻と薄い唇、大きな二重の瞳。恐らく、万人が口を揃えて彼女のことを可愛いと称するだろう。
「え、えーっと……」
突然のことで、上手く言葉を紡ぐことができなかった。
「聞こえなかった? この第二多読室は立ち入り禁止なの。ほら、わかったらさっさと出て行って」
「いや、でも鍵開いてたし、立ち入り禁止とか書いてなかったと思うけど」
「そうだね、ここは誰でも入室可能だ。けど、今は私が使っている。だから出て行ってくれ」
「意味がわからん、なんで多読室があんたに独占されてんだよ」
俺は困惑が隠しきれなかった。この奇妙な少女は、いったい何を言っているのだろう。
要するに、俺は招かれざる客のようだ。それがどうしてかはわからないが。
「この第二多読室は昼休みと放課後は、私専用のレファレンスルームなんだよ。つまり、君は立ち入り禁止というわけだ」
少女は突き放すような態度で、虫を払うかのように手を振った。
「いやいや、それで納得しろって無理でしょ。そもそもなんで私物化してるわけ?」
話が全く進まない。
すると、少女は目を細め、俺のことを舐めるように観察し始めた。
「……君、学年は?」
「え? い、一年だけど……」
「なら敬語使いな、私これでも二年だよ」
これでも、と言うことは自身の若干幼いフォルムに関してしっかりと自覚しているらしい。
「す、すんません……」
「そんなにここから出て行きたくない? もしかして、私のこと好きになっちゃった?」
「は? いや、違いますって! 俺、そんな簡単に人のこと好きになったりしませんよ!」
そりゃ、たしかにちょっと可愛いなとは思ったけどな。
多読室を占領する少女は、気だるそうにため息を吐いた。
「そう、残念。まあ……わかってたけどね、君は私じゃなくて本が好きなんでしょ?」
「……え?」
「今日日、秋津樹来の第一巻に興味を示す高校生なんていないよ。それを前にして目を輝かせてる時点で、君が本好きってのは考えるまでもないね」
「あー、そりゃそうですよね……」
秋津樹来は有名作家だが、教科書に載るレベルではない。要するに、その手のジャンルに特化した人たちにとっては有名というだけだ。
故に、俺は秋津樹来全集の一巻に心を奪われてしまったわけだが。
「けど、ごめんね。この部屋にある本は私が読むためのものなの、だから勝手に動かしたりしないように」
「なんですかそれ、私物ってことですか?」
「違うよ、全部この図書室で管理されてる本。メインレファレンスから持ってきたの、今週読む分の本」
「今週って、この量を?」
俺は改めて部屋の中を見渡した。積み上げられている本の数は、ぱっと見ただけでも何百冊とある。とてもじゃないが、これを一週間で読み切るというのは現実的じゃない。
「もちろん、昼休みと放課後は必ずこの図書室を利用して、毎日積読を消化している」
「積読って……あんたが買ってきたわけじゃないでしょうに」
「私はこの学校の生徒だから、この図書室にある本を読む正当な権利があるんだよ」
「じゃあ、俺にも同じ権利あってもいいんじゃないですか?」
「残念、先に私がキープしたのでダメです」
「せめて二、三冊にしてくださいよ」
「私の猶予は君より短い、そして歳上、普通は年長者に譲るべきだろう」
「いや、この量はどう考えても普通じゃないでしょ。なんかそれっぽい理由で誤魔化そうとしてますけど、絶対に認めちゃまずいですよ」
俺は当然反論を述べたが、少女はただ気だるそうにするだけで、聞き入れる気などは最初からない様子だった。
正直、この少女を無理に説得してまでこの第二多読室を使いたいわけでも、ここに積み上げられている本が読みたいわけでもない。
今すぐにでも引いて良かったのだが、俺は少し意固地になっていた。自覚していても、意識的に直せないほどに。
その時、俺の視界は少女がちょうど手に持っている一冊の小説が圧倒された。
「そもそも、貴重な本ばっかりこの第二多読室に持ち込みすぎなんですよ! 秋津樹来全集もそうですけど、今あんたが読んでるのだって、ヘシアン・ヘッセンの『車輪の下敷き』ですよね!」
「ん? あ、ああ……これか」
「しかもそれ、数ある日本語訳版の中でもヘシアンと面識のある
「え?」
「ヘシアンの『車輪の下敷き』は、十年前まで毎年のように別の翻訳家や作家による日本語訳版が発行されてますけど、三十年前にヘシアンを広めたとされる高田健一訳の一冊は、探して簡単に手に入るもんじゃないですよ!」
無意識のうちに、俺は若干声を荒らげながら『車輪の下敷き』について話していた。
途端に恥ずかしくなり、口元を手で隠す。
当たり前だが、目の前の少女すら少し引き気味である。
ヘシアンの書いた作品の中では『車輪の下敷き』が一番有名だが、それでもここまで知っているの人もそうはいない。自分で言うのもなんだが、異常な知識量ではあると思っている。
同じように別の本で内容以外について深く語ったところで、共感を持たれることはまずなかった。
「君……詳しいね」
すると、少女はゆっくりと立ち上がり、持っていた『車輪の下敷き』を胸の前まで上げた。
身長は俺の胸元くらいまでで、女子高生の平均身長よりも低い。中学生と思われてもおかしくないほどだ。
少女は、数秒足りとも逸らすことなく、じっと俺の方を見つめていた。
「ご明察。これは君の言う通り、高田健一が訳した一冊だよ。名前が入ってるから、誰が訳したとかはわかるだろうけど、そこまで詳しく語れるとは君も変わってるね」
少女の口元が緩み、表情が少し柔らかくなった。
「なら、こっちに積まれている本のシリーズは知ってるかい?」
ほっそりとした指先が向けられた方に目を向けると、同じ大きさの本が五冊ほど積まれていた。一番上のタイトルは『恐るべき大人たち』とある。
「えーっと、ジャン・ラシュディが書いた『大人たち』シリーズですね。たしかジャンが僅か一ヶ月で書き上げた作品で、ファンの間じゃ最もジャンらしさが出ているとまで言われている名作です」
「それも正解。二段目には次に有名な『真夜中の大人たち』もあるよ。私はこっちの方はあまり好きじゃないけど」
「わかります。ちょっと急に超能力とかが出て来て世界観がしっくりこないんですよね」
「そうなんだよ! テレパシーを使った政治的内容自体は悪くないんだが、いかんせん第一部の『恐るべき大人たち』の良さが活かされていないんだよね」
途端に、少女の目には活力が宿った。動きも機敏になり、一歩踏み出して俺に詰め寄る。
「君、さては相当話せるな」
「まあ、有名どころはある程度抑えていますので……」
俺は少し嘘をついた。有名作品はある程度どころかほとんど凌駕している。むしろ最近ではマイナー作品ですら新鮮味に欠けてきたところだ。しかし、今まで人に趣味の話をしてきた際に、俺は何度も失敗している。
つい、口が止まらなくなって周りを引かせてしまうのだ。故に、俺の体は自然とブレーキをかけていた。そのせいで、ある程度抑えているなどという嘘の混じった言い回しになってしまった。
「ふん、ある程度ねぇ……さっきから本のことになると不気味なくらい生き生きしていたが、本当にある程度なのかい?」
少女は煽るような口調と声色で、意地の悪い笑みを向けてきた。
これ、完全に見抜かれてるな。
「はい、すいません……嘘です。ある程度どころか知らない作品の方が珍しいです」
俺は大人しく頭を下げた。
すると、少女は手を伸ばし、俺の肩にポンッと置いた。
「気に入ったよ、君のこと」
「……は?」
「君ほど色々な作品に精通している生徒など、図書委員にだっていない。よし、特別にこの第二多読室の利用を許可しよう」
「特別にって、ここってあんたの私物かなんかなんですか?」
「あんたじゃないよ、私の名前は
「えーっと……榎戸燈画です、部活とか委員会には入ってません」
「燈画か……うむ、覚えたよ」
「あの、図書委員だからって、こんなふうに本を持ち込んで引きこもったりできるもんなんですか?」
「私は成績優秀な優等生だからな、ちょっとわがままを聞いてもらえるんだよ」
全然ちょっとのわがままではないような気がするんだが。
成績優秀という部分に関しても、正直なところ疑問が残る。人より知識はありそうだが、普段から昼休みと放課後に第二多読室の中にこもっていて、いったいいつ勉強しているのだろうか。
「それと、一応これでも人の役に立つ活動もしていてね。どっちかって言うと、そっちの貢献度が高いからここに居座れるって言った方がいいかな」
「へ、へぇ……そうなんですか」
「むむ、さては君、その顔は信じていないな」
鵜瀬先輩は不満そうに眉根を寄せた。
簡単に信じられることではないが、そうでもなければ図書室を私物化などできないだろう。この学校における権力者の娘、という可能性もあるが、それならもっと尊大に接してきてもおかしくない。
「人の役に立つ活動って、ちょっとざっくりしすぎじゃないですか? もっと具体的じゃないと……」
「まあ、その意見はもっともだね。待ってろ、早くて今日には私が必要になるはずだ」
「ど、どういうことですか?」
俺は頭の上に疑問符を浮かべた。
正直、何のことなのか想像もつかない。
その時だった、鵜瀬先輩は右手を前に出して俺を制止し、人差し指を唇の前で立てた。
部屋の中にノック音が響いていたのだ。
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