夏の認知症婆ちゃん

@kakakkka

夏の認知症婆ちゃん

 スーツ姿で俺が実家に戻って来た時、最初に目にしたのは、縁側で座椅子に座ってピクリとも動かない真っ白な長い髪を垂らした婆ちゃんの姿だった。


「お客さんかい」

「……何でいるの、婆ちゃん」


 案の定実家の鍵が開いている。一体いつの間に。

 色々と必要な物をホームセンターで揃えた帰りだったので、手が痛む。

 婆ちゃんをどうにかしなければならない思考を隅へ追いやる程度には、俺は忙しかった。まず荷物を片付ける方が先だった。

 車から荷物を下ろして、二階建ての古びた家に運ぶ。早々に父さんと母さんに挨拶を済ませて、リビングと呼ぶには古風過ぎる薄汚れた畳部屋に荷物を運んだ。


「ねえ婆ちゃん、何でここにいるの?」

「ええねえ、民子さん。わげぇ男っ子が客はええねえ」


 台所に向かって首を向けて、婆ちゃんは嗄れた声で叫ぶ。民子とは母さんの名前だ。

 いや、呼んだって来ないだろうよ。来たらびっくりだ、仲直りでもしたのか五回ぐらい聞きたくなる。なんて嫌味でも言ってやりたかったけど、俺の話なんて、この婆ちゃんにはもう何年も前から聞こえちゃいない。


「……居ても居なくても関係ないか」


 どうせすぐ、婆ちゃんが居なくなったことなんて気付くだろう。過去二回は似たようなことがあった。

 今日は火曜日、出来れば今日中に済ませたい。

 麦茶のペットボトルを買って来て良かった。埃だらけのプラスチックコップを簡単に濯いで、麦茶を注いでやる。座椅子近くのテーブルに置いたら、婆ちゃんはにこにこしていた。


「気前のいーい、おぎゃくさんだぁね」

「あー、どうも」


 俺は婆ちゃんのお礼を話半分に、作業に取り掛かる。天井に丁度いいフックがないことはよく分かっていた。

 実家は狭くて天井も低い。足場はテーブルで済みそうだ。

 テーブルに乗ってDIYを開始する。ロープを吊るせる棚を作らなければいけない。棚って呼んでいいのだろうか。

 丈夫な板を用意した。隙間はちゃんと残して、上手いこと釘を打ち付ける。

 カンカンカンカン、小気味良く鳴る音に少し気分が高揚する。楽しくなって来た。

 カンカンカンカン、鳴る度に婆ちゃんも左右に揺れていた。鼻唄は……何だっけ、赤い靴の女の子? タイトルは忘れたが、暗い暗い童謡だった筈だ。

 俺もそれに合わせて、金槌で釘を打ちつけた。

 両側を終えて、上手いこと棚が完成した。俺が試しに体重をかけてみても、外れる心配は無い。完成だ。

 さて、次は……スマホを手にして、電源を入れた。恐ろしい量の着信通知に辟易する。勘弁して欲しいので、機内モードにした。

 大丈夫、ポケットWi-Fiは届くのだ。

 アプリってのは、本当に便利だと思う。食事の注文が出来るアプリを開く中で、一応聞いてみた。


「婆ちゃん、食いたい物ある?」

「赤い靴、はいた……女の子」


 まだ歌ってるよ。異人さんに連れて行かれる気分なんだろうか。俺も異人さんに連れて行かれる予定だよ。どっちが先かね。

 じゃあ、その異人さんの飯にしよう。何より母さんも父さんも、俺が一番好きな食い物だ。


 程なくしてピザが届いた。チーズ多めのマルゲリータの香りが、薄汚い玄関中に広がる。

 味もマルゲリータは定番で、一番ハズレはない。俺も大好きだ。

 飲み物はコーラ、二人分。一人の最後の晩餐なのに、婆ちゃんがいるせいで台無しだ。まあ、一人より二人の方が美味いとは思う。……婆ちゃんってコーラ飲めるかな。


「麦茶以外も飲まない?」

「タダシさん、私麦茶以外飲まないって言ったわよね」

「俺タカシだよ」


 麦茶が空になった器に、コーラを注いでやった。婆ちゃんがストローという概念を知る筈がない、という偏見による俺の優しさだ。

 婆ちゃんが馬鹿正直にグラスを口へ運ぶ。

 瞬間、盛大に咽せた。


「ぉえっぼ、え゛っ……ああ、ああ!毒、毒を飲ませたぁ、毒!毒を、盛ったのよぉ!」

「ぶっふははははは!へっへ……ひひひ……」


 我ながら汚ったない笑い声が出た。毒みたいな色はしてるかもな。ただの炭酸だって言うのに。

 お気に召さないらしいので、俺が代わりに飲んでから、麦茶を注ぎ足した。俺の最後の間接キスが齢九十の女ってのも、冥土の土産に最高かも知れない。

 ピザを一口サイズに切って、紙皿に取り分ける。婆ちゃんは口に運んで目を白黒させていた。

 喉に詰まらせたらどうしよう。

 思わず身構えて食事する姿を眺めていると、ごくりと喉が鳴った後。


「んまぁ、なんだい、これぇ。初めて食べたよ」


 何と言うか、想像通り目を丸くしていた。眼瞼下垂が始まっている目が丸くなるほど、珍しい味だったようだ。


「ピザっていう外国の食べ物だよ」

「戦争が終わってほんに良かったねえ……はぁ、もう一生食えねえべなぁ」


 とりあえず気に入っているようなので、数切れを一口分に千切って置いておいた。

 ちりん、と小さな音がした。風鈴が鳴る。夏真っ盛り、このクソ暑い中で婆ちゃんとピザを頬張る。

 カレンダーを見る。もうそんな時期か。今夜の前に行くつもりだったが、改めて夏のお盆のを実感する。

 二切れ残した箱を袋に入れて、線香の箱と蝋燭の最低限の墓参りセットを用意した。車に放り込んでふと気づく。切り花も無いのは、流石に失礼だろうか。

 庭を見てみる。放置されていた朝顔の痕跡を見つける。蔦が絡まって薄汚いが、花が咲いてるからセーフだろう。適当にむしって、近くに向日葵も見つけた。これも持っていこう、茎の方からぶきっとむしる。


「婆ちゃん、おいでよ」

「デイサービスねえ、私もよく行ってたのよ」

「うん、行こう」


 杖、要らないだろと言いたくなるぐらいのしっかりした摺り足だった。助手席に乗るときは仕方がないので手を貸す。

 シートベルトを締めさせて、俺は車を発進した。

 窓を全開にすると温い風が入り込む。

 景色は変わり映えしなくて、養護学校と森と畑しかない田舎の景色が通り過ぎていった。ウインカーを忘れそうになるぐらい何も通らない。途中、黒猫が堂々と道を歩いていた。せめて走って通れよ。


 近くに車を停める。路上駐車は良くないが、車も通らないので少しの間だけ許されたい。

 墓地も相変わらずで、近くの小学校がよく見えた。

 あそこで過ごした六年間は、大して思い出がない。まあ、嫌な思い出と呼ぶほどでもない。初恋だった菊田先生は元気かな、なんてどうでもいいことを考えていたら、婆ちゃんは自らシートベルトを外した。


「婆ちゃん、シートベルトの外し方知ってたんだね」

「デイサービスはね、週に三日なの」


 空返事で、後部座席に手を伸ばした。花束と呼ぶには荒いそれと、ピザの箱と、墓参りセット一式。

 婆ちゃんの後ろに続いて歩けば、忘れかけていたうちの墓場に辿り着いた。婆ちゃんはゆっくり膝をついて手を合わせている。その場から動く気配はない。

 いいや、放っておこう。

 その間に、俺はバケツに水をくんで来た。その間も、ずーっと婆ちゃんは手を合わせている。

 紙皿にピザを二切れ置いて、アルミ製の簡素な花瓶には朝顔と向日葵を挿した。花瓶の中には水を足す。

 蝋燭を立て、ライターで着火する。火はゆらゆらと風向きに従い揺れていた。

 線香に火をつけてすぐに吹き消す。良くないらしいけど、別に婆ちゃんしか見てないから許して欲しい。

 線香を婆ちゃんに分けると、「ありがとうありがとう」と何度も礼を言われた。線香をあげる婆ちゃんが、墓石に向かって語りかける。


「タダシさん、そっちはどうですか。タケオったらねえ、めんこい女と結婚したんですよ。私ねえ、厳しくし過ぎちゃって。ふふ、少し嫌われてるの。私は民子さんの事好きなのよ。娘が出来たみたいで張り切り過ぎちゃった。そうよねえ、民子さんの卵焼きが甘いからって、私はちょっと怒り過ぎたわ。……タダシさんも、タケオも……しょっぱい方が好きだと思ってたから」


 俺は婆ちゃんの邪魔をしないように、墓石に水をかけるだけに留めた。

 父さんと母さんへの最後の挨拶も終えたので、俺はもう満足だ。

 婆ちゃんは、ずっとずっと、日が暮れるまで墓石に語りかけていた。

 

 足元が暗くなり始めた頃、俺は婆ちゃんの手を引く。


「暗くなりすぎると危ないから、もう帰ろう」

「あらぁ、ごめんなさいね民子さん」


 田舎の夏は、やっぱり涼しい。婆ちゃんの足元が怪しかったので、面倒になって背負うことにした。

 中身が入ってるのか疑わしいほど、骨っぽくて、軽い軽い身体だった。


 実家に着くと、婆ちゃんはまた座椅子に戻った。

 婆ちゃんが脱走してきたグループホームに一報入れると、俺はまた麦茶を用意した。

 これで迎えが来るまで、婆ちゃんの脱水は防げるだろう。


「じゃあ俺、そろそろ行くよ」


 今朝作った棚に、麻縄を引っ掛ける。何度引っ張っても棚は落ちてこない。我ながら頑丈に出来た。

 これなら人が一人首を吊っても支えてくれそうだ。


「先に行ってるね、婆ちゃん」

「タダシさん、行ってらっしゃい」


 俺はテーブルに立って、縄を首にかけた。婆ちゃんは、皺だらけの眼瞼に潰れた瞳を細めて微笑む。


「異人さんに、つれられて」

「行っちゃった」

「タダシさんが褒めてくれた歌なのよ。タカシも好きだったでしょう」

「らしいね、爺ちゃんには会ったことないけど」

「タダシさんに、タケオに、民子さんに、会わせてくれてありがとうねえ」

「父さんと母さんは、俺が会いたかっただけだからついで。気にしないで」

「ねえタカシ」


 テーブルの上で背伸びをする足が止まる。もう少しでテーブルから足が離れそうなのに。

 もう少しなのに、婆ちゃんの声がうるさくて集中出来なかった。


「タカシ、おかえんなさい」


 婆ちゃんが静かに微笑んだ。

 俺の足元がバランスを崩す。一気に縄に力が込められ、首を締め上げ。られることなく、棚ごと頭部に落ちてきた。母さんの拳骨を思い出すような、がつんとした衝撃。頭がめちゃくちゃ痛い。縄は首から先が解れて使い物にならなかった。


「おかえりなさい」


 認知症が進んだ婆ちゃんが、誰に向かって言ったのかなんて、そんなこと分からない。ただ婆ちゃんは、優しい父さんと同じような手付きで俺の背中を撫でた。しわがれて掠れた声は、何処までも優しく響いた。

 スマートホンの画面が光る。さっきグループホームへ連絡した時、機内モードに戻すのを忘れていた。画面には「今どこにいるんだ」の文字。「話がある」「話聞くよ」「無理すんなって言ったじゃん」友人や会社の同僚や上司から、次々とメッセージが送られて来ていた。ヴー、と間抜けな音を立てて振動する。着信だ。

 視界がじわりと滲んだ。婆ちゃんの姿がよく見えない。


「私より先に逝っちゃダメよ、タダシさん」


 細くて皮と骨だけになった腕が、あまりに温かくて。

 僕は少しだけ泣いた。



あとがき

2021年頃の再掲になります。

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