第12話 二人の欲望

 初めてキスをしてからというもの、キライトの表情が明らかに変わった。それは小さな蕾が花開こうと一気に膨らむような変化で、目の前にいるだけで触れたいと思わせるような何かをも漂わせている。

 そんなキライトに見つめられるだけで、ミティアスは意識が囚われるような錯覚に陥った。かつてキライトの祖国で淫らな下心に囚われた輩の気持ちが理解できるような抗いがたい色香さえも感じる。おかげでミティアスは日々欲望との戦いを強いられることになってしまった。


(いやいや、僕の下心は愛するゆえのものだから)


 誰に咎められたわけでもないのに、つい言い訳じみた言葉を口にしてしまう。こんな気持ちでキライトと接すれば、今度こそ襲ってしまうかもしれない。獣じみた欲望に負けてしまうかもしれない。

 危機感を覚えたミティアスは、“捕リ篭とりかご”で過ごす時間をほんの少し減らすことにした。一緒に過ごすときも距離に十分注意し、触れ合う時間も最小限にとどめる。

 それでも少し気を抜くだけで欲望に負けそうになった。ふとした瞬間にキライトから香ってくる花のような芳香に、どうしようもない劣情を感じてしまうことさえある。そんな自分を抑えるため、ミティアスは隣り合って座るときに少し距離を取ることや触れる回数を少し減らすことを心がけた。

 そんな状態がしばらく続いたある日、ミティアスはいつもより遅い午後の時間に“捕リ篭とりかご”へ向かった。いつもどおり前室にダンを残し、扉を開ける。


(あれ?)


 部屋にはシュウクの姿しかない。テーブルの前にもソファにもキライトの姿はなかった。

 昼寝の時間は終わっているはずなのにと思いながら、寝室と隔てている扉へと一歩近づく。その瞬間、背中をゾワリとした悪寒が走った。驚いて振り向くと、いつの間にかすぐ後ろにシュウクが立っている。

 相変わらず美しい顔をしているが、その目は氷のように冷たく何の感情も見て取れない。初めて目にする美しき侍従の酷薄な様子に、ミティアスは思わず息を詰めた。

 そのまましばらくじっと見つめあっていたが、口火をきったのはシュウクのほうだった。


「我が主人あるじは気持ちを塞いでおられます」

「え?」

「ミティアス殿下が何かされたのではございませんか?」

「え……?」


 シュウクの言葉にミティアスはひどく驚いた。前日もキライトに会っているが、変わったところはなかった。触れ合いこそ少なかったものの、落ち込んでいるような様子は見ていない。自分が何かしたのであれば、そのときに何かしら反応があったはずだ。

 動きを止めたままのミティアスをじっと見ながら、シュウクが言葉を続けた。


「大好きな人が遠くへ行ったら、好きじゃない?」

「……何だって?」

「昨夜、キライト殿下がおっしゃられた言葉です。大好きなミティアス殿下が遠くへ行ってしまったように感じておいでのようで、それは自分を好きではなくなったからなのかと、そう考えていらっしゃるようでした」

「いや、ちょっと待って、大好きなって、え?」

「すでにお気づきだったのではありませんか?」


 シュウクの言葉にミティアスは返事をすることができなかった。たしかにキスはされたものの、いまだに恋愛という意味でのキスだったのか確信が持てないでいたからだ。


(まさか、本当に愛情からのキスだったのか)


 自分が距離を取っていることに気づかれていたことにも驚いた。少し距離を取ってはいたが、キスをする前と同じくらいの距離は保っていた。自分から触れることは極力抑えていたものの、キライトから触れてくるのを拒んだこともない。そのことで「好きではなくなった」と勘違いされたなんて思いもしなかった。


(……どうしようもない失敗をしてしまったかもしれない)


 ミティアスは己の欲望を抑えることばかりに目が向いていて、自分の行動がキライトにどう受け取られるか想像していなかった。

 初めて好きになった相手とキスをしたのに、その相手が急によそよそしくなれば誰だって気になる。もう好きではなくなったのかもしれないと誤解するのも当然だ。

 キライトは周囲の感情に敏感で、自分の声色に反応することにも気づいていた。そのたびに気をつけなければと思っていたのに、キライトの心を慮ることができなかった。自分のことに精一杯で愛しい人を傷つけてしまった。

 ミティアスは寝室の扉を見つめた。扉の向こうにいるキライトを思い、「これでは恋愛下手などうしようもない男のようだ」と自嘲する。いや、実際そうなのだから言い訳もできない。


「キライト殿下のお気持ちに真剣に応えていただけると、そう思っておりました。しかしそうではなかったのかと、僭越ながら、己の内面にばかり目を向ける程度の御方だったのかと残念に思っております」


 シュウクから痛烈な言葉が投げかけられる。それは不敬とも取れる内容だったが、ミティアスは静かに受け止めた。

 シュウクの苦言は間違っていない。罰を与えられるかもしれないとわかっていても、主人思いのシュウクは言わずにはいられなかったのだろう。

 これまでのシュウクを思い返した。微笑みながらもシュウクの瞳の奥にはいつも心配の色が見えていた。自分の色恋よりもキライトのことを優先に考えていることにも気づいていた。自分の気持ちをうまく伝えられないキライトのために、そっと導いたり席を外したりと心を砕いてきたこともわかっている。

 そんなシュウクが寄せていた期待を、自分は裏切ってしまったことになる。


「……申し訳ない。僕はいまも昔も自分のことばかりだな。殿下のことが本当に大好きなのに……ここまで好きになったのは初めてなのに」


 思ったより弱々しい声に情けなくなった。ミティアスの口に自己嫌悪の笑みが浮かぶ。


「そのお言葉は、直接キライト殿下にお伝えください」


 そう言って美しい従者が寝室の扉へと視線を向ける。


「……いいのか?」

「はい。キライト殿下もお待ちだと思います。どうか……どうか、良きように導いてくださいませ」


 シュウクに促されて入った寝室はひっそりと静まりかえっていた。大きなベッドを見ると、中央がこんもりと盛り上がっている。いままでそんな寝方をしているのを見たことがなかったミティアスは、本当は自分が部屋に入ることを望んでいなかったのではないかと不安になった。

 ところが、そうではないことにベッドに近づいてから気づいた。


「……ミティアス様」


 目元から下を掛布で隠したままの言葉は少しくぐもっていたが、綺麗な瞳はキラキラ輝きしっかりとミティアスを見ている。そこには、わずかな期待と密やかな思いを混ぜているような雰囲気が漂っていた。

 ミティアスはベッドの端に腰掛け、努めて冷静にと心がけながら口を開いた。


「殿下、すみませんでした」

「ミティアス様……?」


 謝ると、宝石のような瞳が動揺するようにわずかに揺らぐ。それすら美しいと少しばかり見惚れてしまった。じっと見つめながらゆっくりと言葉を紡ぐ。


「僕はどうやら愚か者のようですね。あなたを自分の欲のままにしてはいけないと怯え、それなら少し距離を取ればいいのだと安易に考えてしまいました。決して殿下のことが好きではなくなったということではありません」


「嫌いになったわけではない」とは言えなかった。子どものように純粋なキライトに、「嫌い」という言葉を聞かせたくないと思ってしまった。

 そんな小さなことすら気にしている自分がおかしくて苦笑いを浮かべる。それに敏感に反応したキライトが眉尻を下げた。そんな小さな表情の変化でさえ愛おしくてたまらない。


「殿下のことが大好きです。大好きすぎて、またキスがしたいと思っているくらいです。そのくらい大好きなんです」

「……うれしい、です」


 つぶやいたキライトの目尻がうっすらと赤くなる。羞恥のような、それとは別の感情も込められているような眼差しに、ミティアスの脆弱な理性がグラリと揺れた。


(駄目だ、我慢するんだ)


 ここで欲望のままに振る舞っては今回の二の舞になりかねない。渾身の力で欲望に蓋をし、伸ばしそうになる手を何とか押しとどめる。

 そんなミティアスの内面など知るはずもないキライトが、掛布から顔を出しそっと口を開いた。


「わたしも、キス、したいです」


 気がつけば、小さな体をベッドに押さえつけるように覆い被さっていた。キスに慣れていない柔らかな唇を塞ぎ思う存分貪る。ただ触れているだけでは満足できず食らいつくかのようにキスをくり返した。

 小さく震える体が愛しくてたまらない。絡め合うことを知らなかった初心な舌を舐めしゃぶりながら、同時に体の線をなぞるように手を這わせた。

 幾分か肉づきがよくなってきたとはいえ、キライトの体は十八歳にしては細く頼りない。肉感的な女性やしなやかな筋肉を持つ青年が好みだったミティアスだが、いまは目の前の痩せて骨張った成長途中の王子にしか興味がわかなくなっていた。

 思う存分触れたい……そう思いながらも、これ以上手を出してはいけないとギリギリのところで踏みとどまる。名残惜しいと思いつつ唇を解放すれば、トロリと蕩けたキライトが潤んだ瞳でじっと見つめてきた。淫らで美しい瞳に見入っていると、濡れて赤みを増した唇がわずかに開く。


「……だが、……ず、して……」


 小さすぎる囁きはミティアスの耳にははっきりと届かない。それでも何かを訴えるような様子が気になり口元に耳を寄せた。小さく吐き出された温かな吐息に耳をくすぐられ、下肢にあらぬ熱が集まりそうになる。それを必死に押さえ込みながら耳元に意識を集中させる。


「ミティアス様のこと、考えると、……体がむずむず、します」

「…………はい?」

「体が、熱く、なります……」


 思いもよらない発言に、ミティアスの体は一気に欲望へと傾いた。何とか踏みとどまっていた理性がガラガラと音を立てて崩れていく。

 体を起こしたミティアスは、じっくりと観察するようにキライトを見た。潤んだ美しい瞳は濡れたように輝き、頬は真っ赤になっている。ゆっくりと掛布を剥がすと小さく震える華奢な体が現れた。少女が好みそうな寝衣が、よけいにキライトを可憐に見せる。

 首から肩、胸へと順番に視線を移し、愛しい人の体をこれでもかと見つめた。そうしてたどり着いた下半身を見た瞬間、ミティアスはドクンと鼓動が跳ねたような気がした。柔らかでゆったりとした布地を押し上げている小さな存在に気づいたからだ。


「キライト殿下……むずむずするのは、ここですか?」

「……っ」


 優しく触れたそこはたしかに熱くなっていた。それは間違いなく欲情している証であり、ヒクンと細腰が揺れたのは快感を得たからだ。顔を見ると気持ちよさと困惑が混じり合ったような表情を浮かべている。そんな初心な様子に、もしや自慰すらしたことがないのではと思ってしまった。


(いや、自慰という言葉すら知らないに違いない)


 灼けつくような目眩を感じたミティアスは、慌てて固く目を閉じた。これ以上の行為に及ぶことに自分はひどく怯えている。こんなことは初めてで、据え膳に二の足を踏むのも初めてのことだった。

 触れたい、貪りたい、貫きたい――そんな欲望と、大切にしたいという思いがぶつかり合う。懊悩するミティアスの耳に入ってきたのは、またもや予想外のキライトの言葉だった。


「ミティアス様、触って……」

「殿下、」

「大好きなら、触る、って」

「……あなたの侍従は、なんてことを教えているんでしょうね」


 華奢な手がミティアスの頬に触れる。


「あつい、です」

「興奮してますからね」


 なるべく怖がらせないようにしようと思っているものの、たぶん無理だろうなと予想した。それでも最大限努力しよう。ミティアスは目の前の肢体へと意識を囚われていった。

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