第11話 初めてのキス

 キライトの静かな質問責めは、その後呆気なく終了した。代わりに考え込むような姿を見せることが多くなり、たまに「好き」という言葉を小さくつぶやいたりもする。

 何かあったのではと心配するミティアスだったが、キライトの様子はただ考え事をしているようにも見えるため変に声をかけるわけにもいかない。シュウクも静かにしていることから、ミティアス自身もそっと見守ることにした。

 そうしたことがしばらく続いたある日、ミティアスが黒猫――先日の質問責めのときに初めてクロという名前を知った――の日向ぼっこを終えて“捕リ篭とりかご”へ戻ると、何やら真剣な顔をしたキライトがソファでじっとしている。どうしたのだろうかとシュウクを探したが姿が見えない。前室にもいなかったということはキライトの寝室の隣にある自室にいるのだろう。そう思ったものの、日中こうしてキライトが起きているときにシュウクがそばにいないのは珍しいことだった。

 気になりながらもキライトに数歩近づいたところで、腕に抱いていた黒猫のクロがピョンと飛び降りた。そのままトトトとキライトに駆け寄り、じゃれつくように足にすり寄る。そこで初めてクロの存在に気づいたキライトが、ビクッと体を震わせて驚いたように顔を上げた。


「ミティアス様……」


 ミティアスが部屋に入って来たことにも気づいていなかったようで、綺麗な両目が小さく見開かれる。


「どうかしましたか?」


 問いかけたが「何でもない」というように頭を小さく横に振った。しかし美しい瞳がわずかに逸らされたことに気づいたミティアスは、何かあるなと直感した。

 自分に知られたくないことなのか、それとも誤魔化したいことなのか。どちらにしてもミティアスにはおもしろくない。


(いや、隠し事なんてできるはずがない)


 まるで出来損ないの人形のようだったキライトは、ようやく人間らしい感情を取り戻しつつある真っ最中だ。“好き”という言葉の意味をようやく理解しようとしている段階なのに、隠すだとか誤魔化すだとかいったことを考えるとは思えない。

 それはミティアスにも十分にわかっていたが、それでも逸らされた瞳に不満のようなものを感じてしまう。

 自分にはすべてをさらけ出してほしい。自分にだけはすべてを明かしてほしい。そんなふうに思うのは我が儘で愚かなことだとわかっている。それでも隠し事をされているのではないかと思ってしまうほど、ミティアスはキライトの表情一つにまで心を奪われていた。


(……そうか、これが恋をしているってことなのか)


 信じているのに不安で、好きだからすべてを知りたくなる。これまで恋人だった大勢の人が自分に向けてきた感情の意味を、ミティアスはようやく実感として理解した。

 気づいた感情に少しばかり落ち着かなくなりながらも、キライトを怯えさせないようにと努めて優しい声音でもう一度訊ねる。


「何か困ったことでもありましたか?」


 その声にゆっくりと顔を向けたキライトが、紫色と淡い碧色の瞳で真っ直ぐにミティアスを見た。

 もう何度も間近で見てきたというのに、あまりの美しさに吸い寄せられるように見入ってしまう。ただこの瞳を見ていたい、美しい稀有な宝石を眺めていたい……そう思っていたミティアスの耳に、かすかに自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 ハッと我に返ると、キライトが何かを訴えるような表情をしている。


「キライト殿下?」


 まるで呼んでいるような表情に感じたミティアスは、ソファまで歩み寄り身をかがめた。すぐ目の前にある極上の瞳に意識を奪われそうになりながら、何か話したいことがあるのだろうと思ってじっと待つ。

 すると、そうっとキライトの顔が近づいてきた。やけにゆっくりと感じられる速度だからか、「あぁ、肌つやも随分よくなったなぁ」などと考える余裕すらあった。


(あれ……?)


 むにゅ、と、キライトの唇がミティアスのそれにくっついた。


(柔らかい)


 出会った頃はかさついて色も悪く、決して欲望を抱くような状態ではなかった。それがいまは瑞々しくふっくらしていて、生まれたばかりの姪の肌のような柔らかさを感じる。


(想像していた以上に柔らかい唇だな)


 そう思った瞬間、ミティアスの全身を快感にも似た何かが駆け抜けた。

 自慢ではないが、ミティアスはこれまで何十回、いや何百回とキスをしてきた。それこそ唇を噛んだり舌を絡めあったり、そんな淫らなキスも数えられないほどしてきている。

 それなのに、ただ唇を触れ合わせているだけで頭の芯が熱を持ったように陶然としてきた。唇の感触に意識を向けるだけで鼓動が忙しくなり、まるで初めてキスをしたかのようにどうしていいのかわからなくなる。

 唇を重ね、どのくらいの時間が経っただろうか。ミティアスにとっては一瞬のようでもあり随分と長くも感じられる時間だった。静寂と混乱を感じているなか、キライトがゆっくり離れたことでハタと我に返った。わずかに混乱しながらキライトを見ると、どこか不安そうな表情をしている。


「殿下、どう、されたんですか?」


 かろうじて出た言葉は間抜けにもそれだけで、声は緊張からかわずかに掠れていた。


「ぁ……」


 漏れ出たキライトの声は、あまりにも小さく頼りないものだった。その中には戸惑いだけでなく、わずかながらも後悔のようなものが混じっているように聞こえる。そのことに気づいたミティアスは、慌てて言葉を続けた。


「怒っているのではありません。急なことだったので、どうしたのかと思ったのです。……何かありましたか?」


 優しく問いかければ、キライトの表情がホッとしたものに変わった。それに安堵しつつ、ミティアスは何事が起きたのだろうかと考えた。

 色事のことなど知らないはずのキライトが、自らキスを仕掛けてくることは普通ではあり得ない。もちろんキスはうれしいが、それよりも何かあったのではと心配になる。


「シュウクが、……してたから」

「……はい?」

「シュウクが、大好きな人と、するもの、って……」


(なるほど、そういうことか)


 どういう経緯かはわからないが、キライトはシュウクとダンがキスをしているところを目撃したのだろう。それが何か尋ね、シュウクから「大好きな人とする行為だ」とでも説明されたに違いない。


(あの二人は、子どものような殿下の前で何をしているんだ)


 偶然見られただけかもしれないが、ダンがそういった目的で“捕リ篭とりかご”を訪れた可能性もある。それでキスを見られたのだとしたら油断しすぎだ。もしくはシュウクに迫られて唇を奪われでもしたか。どちらにしても油断していることに変わりはない。

 これでは、自分が我慢しながら清廉にあれこれ教えてきた意味がないじゃないか。ミティアスは、ここにいない二人に若干の憤りを感じていた。


(……いや、考えようによっては何歩も前進することになるのか)


 キライトがキスという大胆な行動に出たことは、ある意味大きな前進とも言える。それに先ほど「大好きな人とするもの」と言っていた。


(ということは、殿下は僕のことを“大好き”だと思っているってことか?)


 ぶわりと鳥肌が立った。願っていたことではあるが、本当に好きだと思ってもらえているとしたら……そう考えるだけで喜びに震えそうになる。


「駄目、ですか……?」

「え?」


 不意に聞こえてきた声に、慌てて視線を戻した。そこには再び不安そうにしているキライトの顔があった。


「しては、駄目ですか?」

「そんなことはない! ……いえ、ええと、問題ないというか、むしろ大歓迎というか……。あぁ、大丈夫、大丈夫ですよ」

「ミティアス様……」


 わずかに潤み始めた瞳にドキッとした。泣かれるのではないかと焦り、そのせいで言葉が強くなり怯えさせてしまった。


(僕は何をやっているんだ)


 国一番の色男がなんてことだと情けなくなる。それでもどうにかしなくてはとできる限り優しい笑顔を浮かべ、「大丈夫、大丈夫ですから」とくり返す。


「僕もキライト殿下のことが大好きですから、こうしたことをしたいといつも思っています。もしや殿下も、そんな気持ちになりましたか?」


 優しく問いかけると、キライトの頭がこくりと頷いた。それだけでミティアスは浮き足立つような心地になった。

 これまで満足に愛情を与えられることがなく、とりわけ色恋のことを知らなかったであろうキライトが、ようやくそういった気持ちになったのだ。これはもう、恋人の域に達したと言ってもいいのではないだろうか。

 そこまで考えたミティアスの脳裏に、ふと気になることが浮かんだ。


(いまのはもちろん、恋愛のキスだよな?)


「大好きな人とするもの」だと理解しているのなら恋愛のキスで間違いないはずだ。そう思っていても、これまでのキライトを思い返すと若干の不安を感じる。


(いや、どういう愛情でもうれしいことには変わりない)


 たとえいまのが家族に対する愛情から出たキスであっても、キライトが大きく変わったことには違いない。


(それに、どんな愛情も僕が与えたいと思っているのも本心だ)


 家族の愛情も恋人の愛情も、できることなら自分が与えたい。もちろん、その先のこともすべて自分が教えたいと考えていた。ミティアスは自分の中にある強烈な独占欲をはっきりと自覚した。同時に抑えがたい欲望も感じていた。

 そもそもミティアスは肉体的な接触をこれほど我慢したことがなかった。そんな自分が我慢し続けられるのは、キライトを本当に大切に思っているからで間違いない。

 おそらくダンが言うとおり、これが自分にとって本当の初恋なのだろう。それに初めての本気の恋に違いない。だから大事にしたい、怖がらせたくない、ゆっくりでもかまわない。

 そう思っているのに、どうしても情欲を伴う欲望が首をもたげてしまう。ミティアスの我慢の限界はとっくに超えていた。


(……少しくらいならいいんじゃないかな)


 邪な耳打ちにグラリと理性が揺れた。


「殿下、もっとキスをしませんか?」


 キライト自身がキスを望んだのだから、もう少し甘い唇を味わっても許されるだろう。それでもキライトを怖がらせないようにと、優しく優しくねだる。


「…………はぃ」

「……!」


 小さな声とともに縦に動いた頭に、ねだったミティアスのほうが驚いた。期待はしていたものの、本当に受け入れてもらえるとは思っていなかったからか鼓動が一気に早くなる。

 どうしようもない興奮と緊張に、ミティアスの手がわずかに震えた。


(なんでこんなに緊張するかな)


 よくわからない緊張に戸惑いながらも、ここで引き下がるわけにはいかない。小さく何度か深呼吸をしたミティアスは、艶の戻ったキライトの頬に両手を添えて優しく唇に触れた。


(なんて柔らかいんだろう)


 これまでしてきたどのキスとも違う。ただ触れ合わせているだけで、こんなにも気持ちがいい。ミティアスの欲望に小さな火がともった。

 柔らかな唇の感触を楽しみながら、ぷるんとした下唇を自らの唇で優しくむ。恋人のキスとしては初歩的な行為だが、初めてのキライトはこれだけで驚くかもしれない。そう思いながら、もう一度優しくむと細い肩がピクッと揺れるのを感じた。


(キスに反応してくれている)


 わずかでも反応してくれるのがうれしくて、今度は舌で唇の端から端までを舐めとった。くすぐったかったのか、それとも恥ずかしかったのか、「ん……」と濡れた声がかすかに聞こえる。

 初めて耳にしたキライトの艶やかな声に興奮したミティアスは、ついに唇の向こう側へと舌を差し込んだ。そこは温かく滑っていて、舌先に触れた歯列を舐めるとキライトの頭がピクリと揺れた。そのまま上顎をゆっくりと舐め、怯えたように縮こまっていた舌を絡め取れば、今度は華奢な上半身がヒクッと震える。

 キライトの初心な反応があまりにも愛らしく、ミティアスは相手が初めてだということをすっかり忘れてしまった。もっと気持ちよくなってほしい、もっと何かしらの反応を見せてほしいと思いながら熱心に口内への愛撫を続ける。

 気がつけば細い体を腕の中に抱き込み、キライトが苦しそうに眉を寄せていることにも気づけないでいた。わずかに胸を押し返そうとしているキライトの動きでようやくそのことに気づいたミティアスは慌てて腕から解放した。目の前では顔を真っ赤にしたキライトが荒い呼吸をくり返している。


「大丈夫ですか?」


 ミティアスの言葉はいまさらなものだ。ところが意外にも「大丈夫」という返事と共にキライトが顔を上げる。

 そこには目元を赤く染め、濡れた唇をわずかに開き、稀有な瞳をトロリと蕩けさせたみだりがましい王子の姿があった。これまで一度も見たことがない艶やかな表情に、ミティアスの喉がゴクリと鳴る。

 そのまま引き寄せられるように再びキスをしそうになったところで、ミティアスの中にかろうじて残っていた理性が「駄目だ」と警鐘を鳴らした。


(焦っては駄目だ)


 キライトはようやく恋に目覚めたばかりだ。いや、まだはっきりと自覚していないかもしれない。ここでガツガツと貪るようなことをしては、怯え恐れてせっかくほどけ始めた心を閉じてしまうかもしれない。あくまでもゆっくりと、ここはキライトに合わせて進んでいくべきだろう。

 なんとか己の欲望に打ち勝ったミティアスは、笑顔で愛しい人を見つめた。そうして下心を奥底に押しやった両腕で、親愛を伝えるように優しく抱きしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る