第10話 初恋

 翌日“捕リ篭とりかご”を訪れたミティアスは、今度は“好き”についてキライトから質問責めを受けることになった。


「クロが、好き。燈火ランプが、好き。花茶が、好き。……同じ好き?」

「ええと、そうですね。猫も燈火ランプも花茶も、殿下が好きなもので間違いないと思いますよ」


 ミティアスは問いかけが難しくなかったことにホッとしながら、猫を撫でるキライトを見る。小さな声で「クロが、好き」と復唱する姿は、まるで言葉を覚え始めた子どものようだ。


(あながち間違いでもないか)


 キライトはいま、忘れてしまった感情を覚え直している真っ最中なのだろう。もちろんそれには思う存分付き合いたいと思っているが、そろそろ難題を問われそうで不安になる。

 そう予想したとおり、不意に視線を上げたキライトが口にした質問はミティアスを大いに悩ませた。


「シュウクが、好き。ミティアス様も、好き。これも、同じですか……?」

「あー、それは、同じかもしれませんし、僕としては違っていてほしいというか……」

「……?」


 紫色と淡い碧色の瞳が答えを待つようにじっとミティアスを見ている。あまりに純粋無垢な様子に、ミティアスは己の欲望を混ぜて答えてしまいそうになるのを必死に押しとどめた。そうなると、今度はどう答えればいいのかわからなくなる。

 そもそもミティアスは、これまで“好き”ということについて深く考えたことがなかった。好きになればキスをし体を重ねる。それがミティアスにとっての“好き”のすべてだ。

 しかし純粋無垢なキライトにそんなことを言えるはずもない。言ったところで理解できるはずがない。


(これは難問だぞ)


 言葉で説明しようと考えてはみるものの、どう表現していいのかさっぱりわからなかった。じっと見つめるキライトの瞳に焦ったミティアスは、少しの期待を込めて振り返った。


(ダン……には聞いても無駄か)


 背後にいたダンは、側近らしからぬ悪い笑みを浮かべながらミティアスを見ている。そんな様子のダンが助言してくれるはずがない。諦めて隣に立つシュウクを見るが、こちらもにこりと麗しい笑顔を浮かべるだけだった。


「あー……、何か助言がもらえないかと思っているんだけど、その顔だと何ももらえないってことかな?」


 一応そう問いかけてみたものの、麗しい侍従はにこりと微笑み「余計なことを申し上げるわけにはまいりませんので」と答える。


「それに、殿下はミティアス殿下のお言葉で教えてほしいと願っておいでですから」

「いや、それがひどく難しくてね……」


 思わず眉尻が下がってしまった。王国一の色男とは思えない表情に、ついにダンが吹き出す。それをジロッと睨めば、そばで見ていたキライトがわずかに怯えたような表情を浮かべた。「しまった」と思ったミティアスは慌てて怒っていないのだと説明するが、それを見たダンがさらに声を上げて笑い出す。


「あっはっはっはっ! これが国一番の色男とは、いやはや何とも」


 再びミティアスが睨んだもののダンの笑い声はますます大きくなる。ついには隣に立つシュウクまでもが小さく笑い出し、そうなると両手を上げて降参するしかなかった。


「こっちは本気で困っているというのに、二人ともひどいな」

「はっはっは! は~、久しぶりに腹の底から笑いました。殿下には、なかなか強力な薬になっているようですね」

「ふふっ。ミティアス殿下にも、お可愛らしいところが、おありのようで……ふふ、失礼、しました」

「笑いながら謝られてもね……」


 目元を拭うシュウクに苦情を言い、ニヤニヤしているダンにはもうひと睨みする。まだ少し不安そうな表情を見せるキライトの艶やかな髪を撫でながら、何か反撃することはできないかと考えた。そうしてひらめいたことにミティアスの口元がわずかに緩む。


「二人のほうこそ、僕が思っているより仲が深まったみたいじゃないか。最近よく二人でいることには気づいているからな?」


 ミティアスの言葉に、ダンの頬がわずかにヒクリと動いた。その表情に内心「してやったり」と小さく笑う。

 ダンは名家出身ながら、下世話な会話も猥雑な噂話も平気な男だ。それこそミティアスの性に関する知識の多くはダンから得たもので、男娼に興味を抱いたのもダンの影響だった。

 そういう男なのに、どうしてか自分の色恋沙汰に触れられることだけは苦手にしている。案の定、ミティアスの言葉にダンの目が嫌がる色を見せた。小さく笑ったミティアスは、巻き添えになったシュウクはどうだろうと隣に視線を移す。


(こっちは変わらずか)


 いつもどおり麗しい笑みを浮かべたままで、シュウクが何を考えているかはわからない。


「ま、二人が仲良くしてくれるのは僕としても喜ばしい限りだけど」

「仲良くは、好きなこと……?」


 不意にキライトが言葉を発した。どうやら“仲良く”という言葉に反応したらしい。たしかに“仲良く”も“好き”の一種だなと気づいたミティアスが答えようとしたとき、キライトの瞳が侍従に向けられた。


「シュウクも、好き?」


 おそらくシュウクはダンのことが好きなのかと尋ねたかったのだろう。それに答えたのはシュウク本人だった。


「はい、殿下。わたしはダン殿のことが大好きなのです。殿下のことも大好きですが、それとは違う“好き”でございますね」

「違う、好き……」


 シュウクの返事に、キライトが再び考え始める。口元を指で押さえながら考える姿を微笑ましく思いながら、ミティアスは側近と侍従をちらりと見た。


(なるほど、尻込みしているのはダンのほうか)


 そのことをミティアスは意外に思った。二人の仲が深まっているように見えたのは本当だが、まだ恋人のような親しさは見られない。てっきりシュウクのほうが一歩踏み出せないのだろうと思っていたが、どうやら思い違いだったらしい。


(ダンに何か思いとどまらなければいけない理由でもあるのか?)


 ミティアスほどではないものの、若かりし頃のダンにはあちこちに恋人がいたと聞いている。それこそ相手は貴族の令嬢から同じ王宮騎士団の騎士までと幅広く、手広いところはミティアスといい勝負だ。相手が他国の侍従だとしても遠慮するとは思えない。


(もしかして家のことだろうか)


 ダンの生家ベラート家は、奥方が第一王子である上の兄の乳母に抜擢されるほどの名家だ。しかし次男であるダンは家を継ぐ必要もなく、貴族を辞め騎士になったことで結婚や子どもを期待されているとも思えない。


(ということは、やっぱり僕のことだな)


 おそらくあれこれ動いている理由を察しているに違いない。そのせいで周囲から目を離せず気が抜けないのだろう。そんなときに自分の色恋にうつつを抜かすような男ではなかった。


(こうなったらダンの幸せも一緒に手に入れなくてはな)


 ミティアスは兄のように慕う護衛側近の幸せをますます真剣に考えた。同時に、すでに気持ちが通じあっているであろう二人がうらやましくもなる。


「熱烈に思われているダンがうらやましいよ」

「殿下、」


 途端にダンが苦虫を噛みつぶしたような顔になる。すると、麗しい笑みを浮かべたシュウクが「わたしの気持ちはご迷惑でしたか?」と口にした。まさかの展開にミティアスは目を見開き、ダンはギョッとしたような顔になる。


「は?」

「ご迷惑ですか?」

「いや待て。そういう話ではなくてだな、」


 珍しくうろたえるダンに、ミティアスは笑いを堪えることができなかった。


「ぷ……っ。ぷはっ、ははは。なんだ、ダンは尻に敷かれているのか」


(それとも僕の目の前で言うことに意味があるのか)


 シュウクの思惑はわからないが、あえて挑発してきたと言えなくもない。いや、発破をかけていると言ったところだろうか。それもダンにではなく自分に対してだろう。


(何がなんでも僕とキライト殿下を結ばせたいんだろう。すべてはキライト殿下のためということか)


 心配しなくても手放したりはしない。そう思いながらシュウクを見ると、いつもと変わらない笑みを浮かべていた。


「熱烈に思われているようで、よかったなダン」

「殿下、笑いすぎかと」


 渋い顔をするダンがおかしくてさらに笑っていると、キライトが「ふぁ」と小さなあくびをした。「お昼寝にしますか?」と声をかけると、「はい」と眠そうな声で返事をする。そんな姿も愛おしく、ミティアスの口元に優しい笑みが浮かんだ。


 シュウクと寝室へ入るキライトを見送ったあと、花茶を飲んでいたミティアスは珍しく疲れたような表情を浮かべた。


「僕の気持ちは、ちゃんとキライト殿下に届いているんだろうか」


 しばらく答えを待っていたものの、ダンからは何の反応もない。チラリと視線を向けると、先ほどまでとは違った優しい笑みを浮かべている。


「どうかした?」

「いえ、思ったよりも殿下が真剣なようで、少しばかり驚いていました」

「僕はいつだって真剣だよ。……あぁ、違うな。いまの気持ちが真剣なんだとしたら、これまでの僕はたしかに真剣じゃなかった。ダンの言うとおりだ」


 これまでにもたくさんの恋人たちがいた。どの人もちゃんと好きではあったし大切にしていた。たとえ一夜限りの恋だったとしても好意を抱いていない人を相手にしたことはなく、気持ちを伝えるために贈り物もたくさんしてきた。「それでも」とミティアスは考えた。

 自分は本気で相手のことを好きになっていたわけではなかったのだろう。そのときは「この人が好きだ」と思っていても、すぐに別の人へと気持ちが移っていった。相手のことを考えて悩んだり困ったり、それなのにどこか幸せで楽しいのはキライトを好きになって初めて感じた。

 ミティアスは、姫だと思っていたキライトに好意を抱いていると初めて認識したときのことを思い出した。あのとき、これが恋なら楽しくもうれしくもないとがっかりした。愛だとしたらなんて気持ちが悪い現象だろうと勘違いもした。冷静に考えていたつもりだったが、本当に好きになることを知らない自分にすら気づいていなかった。そのことがおかしく、そしてかつての自分を思い返し苦笑いを浮かべる。


「きっと僕は大勢の人を泣かせてしまったんだろうな」


 もしキライトに別れを告げられたら絶対に立ち直れない。それを過去の自分は多くの恋人だった人たちに強いてきた。


「だから、これは僕への罰だ。でも、僕は諦めたりしないしキライト殿下のことを手放したりは絶対にしない」

「それでこそミティアス殿下です。わたしは殿下の味方ですし、どこまでもお供しますよ」


 そう言ってダンが碧色の目を細めて笑った。

 小さな頃からフラフラとしていた自分のことを、この優秀な側近は想像以上に心配していたに違いない。それでも見放すことなく仕えてきてくれた。そんな頼もしくもさといダンには、自分が考えていることなどすっかりお見通しに違いない。


「僕が考えてること、気づいてるよな?」


 調べ物の大半はダンに手伝ってもらっている。タータイヤ王国の諜報員を動かすときもダンに協力してもらった。いわく付きの土地への使者もダンが念入りに事前調査した者から選んだ。それで気づかないほど間抜けな側近ではない。


「はて、なんのことでしょう?」


 気づいていて知らんぷりをするところも優秀な側近らしい。そうしながら、自分が気づかないところであれこれ手を回しているのだろう。


「別に気づかれたところで僕は困らないけどね。それに、この先のことをわかったうえでシュウクとの距離を縮めていないんじゃないのか? そうでなければ慎重なおまえが簡単に落ちるとは思えない」

「さぁ、どうでしょうね」


 シュウクの名前を出しても表情を変えることがない。


「あぁ、もしよからぬことを考えているならば護衛側近としてお止めしますが」

「……狸め」


 毒づいたミティアスに、ダンがひょいと片眉を上げた。ダンは自分の護衛側近だが、何かしらに気づいたなら父王に報告する義務がある。だからこそ、全部わかっていて黙ってくれているのだろう。


「まぁいい。それにしても、真剣になればなるほど恋っていうのは難しいものだな」


 そう漏らすとダンが小さく笑った。


「そう何度も笑われると、馬鹿にされているのかと思いたくなるんだけど」

「これは失礼しました。殿下の様子があまりに可愛らしいというか、まるで初恋をした少年のように見えたので」

「初恋って、おまえなぁ」


 反論しようとしたものの、結局できなかった。


(そうか、初恋か)


 ミティアスには、これが初恋なのかどうかよくわからない。しかし自分のことをよく知るダンが言うのなら、きっとそうなのだろう。


(ということは、僕はこれまで一度も恋をしたことがなかったということか)


 散々色男ぶっていたというのに、恋かどうかすら気づけなかったとは情けない。そんな反省をしながらも、“初恋”という言葉に胸が昂ぶるのを感じていた。

 昔読んだ物語には“初恋は実らない”と書かれていたが、自分はそんな失敗を犯したりはしない。ミティアスは高揚する気持ちを抑えながら、ニヤリと笑ってダンを見た。


「僕のほうは当然うまくいく予定だけど、ダンも同じだろうね? 僕とキライト殿下のためにも、美しい侍従殿をしっかり手の内に収めておいてくれよ。あぁ、尻に敷かれたままでも構わないからな」


 そう告げればダンの頬がわずかに引きつる。しっかり反撃できたことにミティアスは満足し、心の中で感謝した。

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