第9話 大きな変化

 ミティアスはその日、いつもどおり朝から“捕リ篭とりかご”に来ていた。キライトと一緒に燈火ランプを眺めたり睡蓮の花を模した硝子の置物を見ているうちに、硝子と同じくらい輝くようになった銀髪に触れたくて仕方がなくなった。

 思ったら即実行に移すのがミティアスだ。さすがにキライトが怖がることはないだろうと考え、こうした触れ合いを増やしたいという下心も後押しをする。


「よく手入れをされているようで何よりです」


 そう言いながら、新しく作らせた櫛を手に銀髪をゆっくりと梳いた。この櫛はタータイヤ王家が好んで使うという鳥の羽の模様を螺鈿らでんで入れたもので、出来映えにはミティアスも満足している。

 毎日使うようにと言った香油が功を奏しているのか、くすんだ灰色にしか見えなかった髪は見事な銀色を取り戻していた。いまでは光が当たると薄紅色に輝くこともあり、その不思議な色合いにミティアスも笑顔を浮かべる。アンダリアズ王国では紅がかった金髪はたまに見るものの、紅と銀という彩りは見ない。あまりの美しさに、様々な美を見てきたミティアスでさえため息が漏れそうになった。


「綺麗に伸びてきましたね。……うん、サラサラとしていて、いつでもこうして触れたくなります」


 努めて優しく言いながら、梳いた横髪を小振りな耳にそっとかけてやったときだった。


「……っ」


 小さく息をのむような声と一緒に、ぴくりと肩が跳ねたのが目に入った。


「殿下?」


 これまでもミティアスからキライトに触れたことは何度もあったが、こんな反応を見せたのは初めてだ。一体どうしたのだろうかと、ちょうどキライトの正面にいたシュウクへと視線を向ける。


「シュウク?」


 そこには目を見張ったまま立ち尽くす美しき侍従の姿があった。これは何かあったに違いないと思ったミティアスは、目の前で固まったままのキライトの顔を横からそっと覗き込む。


(……目元が赤い?)


 陶器のように白く艶やかな目元が、ほんのり赤色に染まっている。初めて見る表情だが、ミティアスには羞恥を感じているように見えた。


「キライト殿下」

「……は、い」

「もしかして、照れているのですか?」


 優しく問いかけるとキライトの小さな口が少し開いた。しかし声が発せられることはなく、わずかに下を向いた頭がこくりと小さく動く。


「そう、ですか」


 そうではないかと予想してはいたものの、肯定されるとさすがに驚いた。チラッと見たシュウクも驚きのあまり動きを止めたままでいる。


「なるほど、恥ずかしかったのですね」


 わずかに俯いたままのキライトの横顔をもう一度じっくり見た。銀髪からのぞく真っ白な耳の縁が、ほんのり赤くなっているのがわかる。


(あー、これは何というか……)


 ただ耳の縁が赤いというだけでとんでもない色香を感じた。羞恥を見せるキライトの変化をうれしく思いながらも、ミティアスは「いつまで我慢できるかなぁ」と己の欲望と葛藤する。

 昼寝のためにキライトが寝室へ消えたあと、“捕リ篭とりかご”を出ようとしたミティアスに声をかけたのはシュウクだった。キライトについて話したいことがあるのだろうと思い、椅子に座り直す。


「あのようなお姿を拝見したのは久しぶり、いえ初めてでごさいました」

「そっか。これはいいことなんだよね?」

「昔のように感情豊かになられるのは喜ばしいことだと存じます」

「そうだよね。でも、急にどうしたんだろうね」


 シュウクの表情がわずかに変化したのをミティアスは見逃さなかった。


「何かあった?」

「……昨夜、キライト殿下から相談されたことがごさいまして」

「僕には言えないこと?」

「いいえ。ただ、わたしから申し上げてよいものか……」


 しばらく考える様子を見せていたシュウクが、ゆっくりと口を開いた。


「殿下から、ミティアス殿下の笑顔を見るとドキドキするのはどうしてだろうか、と問われたのです」

「え?」

「最近は触れられるとどうしてか緊張してしまう、ともおっしゃっておりました」

「ええと、それって」

「そのときも頬を染めていらっしゃいましたので、『ミティアス殿下のことを、どう思っておいでですか』とお尋ねしましたところ……」


 シュウクの言葉に、ミティアスの喉がゴクリと鳴る。


「『よくわからない』とお答えになられまして」


 期待していた淡い気持ちが一気に霧散した。


(まぁ、仕方ないか)


 ようやく感情を見せ始めたキライトに、いきなり恋だの愛だのを理解しろというほうが無理な話だ。

 キライトの過去を考えると恋愛や情愛を知っているとは思えない。多くの本を読んでいたと聞いているが、子どもが大人の恋愛本を読んでいたとも思えない。劣情を向けられ、そういった行為に及ばれそうになったことがあったとしても、行為の意味を理解していたとも思えなかった。


(恋愛や閨事に関しては、甥っ子たちより子どもだろうしな)


 そんなキライトが、初めて明確に羞恥というものを感じたのだ。自分に対してドキドキもしてくれているらしい。これは大きな前進に違いないとミティアスは考えた。


「殿下からは、このことをミティアス殿下に訊ねてもいいかといったことを聞かれましたので、それがよろしいでしょうとお答えしたところでございます」

「ええと、ということは……」

「どうか、我が主人あるじを良きように導いてくださいませ」


 そう言って美しく微笑む侍従の顔が、一瞬優秀な側近に見えた。


(ダンも一枚噛んでいそうだな)


 本気でキライトのことが好きなら自分で正面から挑めということに違いない。そんなダンの考えに、シュウクも間違いなく同調している。


(僕自身で心を開かないといけないんだろうってことは、わかっているんだけどね)


 なによりもミティアス自身がそう願っていた。しかし、自分に清廉な教師役など務まるはずがないこともわかっている。


(さて、どうしたものかなぁ)


 かつてない難題を前にため息をつくミティアスだったが、翌日からさらなる難題にさらされることになった。なんと、キライトから質問責めにされるようになったのだ。

 目の前にはますます可憐になったキライトが座り、純粋無垢な瞳でじっとミティアスを見ている。少し離れたところにはシュウクが立ち、隣には珍しくダンもいた。


(いつもは前室で待機しているくせに)


 チラッと見たダンの顔はいつも以上にニヤニヤしている。明らかに楽しんでいる側近に内心小さく舌打ちしつつも、ミティアスは笑顔を絶やさないようにと細心の注意を払った。


「ええと、胸がドキドキする、ということでしたか」


 ミティアスの言葉に、キライトがこくんと頷く。


「ミティアス様のそばにいると、……どきどき、します」


 頬をわずかに桃色にしながらそんなことを言われては、ミティアスの脆い理性はあっという間に崩れそうになる。それを必死に押しとどめて続きを促せば、キライトの瞳が清水に浸したようにキラキラと輝いた。


「触れると、もっと、どきどきします」


 言葉と瞳の様子に、グラリグラリと理性が揺さぶられる。


(もしかして、これまでフラフラしていた僕への罰か何かなのかな)


 そんなことを思ってしまうほど目の前のキライトは初心で愛らしく、ミティアスの劣情をやけに刺激した。


「どうしてか、教えて、ほしいです」

「あぁ、と、そうですね。ええと、殿下はどなたか好きな人はいらっしゃいますか?」

「好き……」


 考え込むキライトに、ミティアスはわずかな期待を抱いた。

 もしキライトが“好き”という感情を自覚しつつあるなら、ミティアスにとってまたとない好機でもある。“好き”がわかるのなら、その中に“特別な好き”があることに気づいてもらえるかもしれない。もしかすると、自分に対する気持ちが“特別な好き”だと気づいてくれるかもしれない。

 わずかな期待を込めながら待っていると、しばらく考えていたキライトがゆっくり口を開いた。


「……よく、わかりません」


(そんなに都合よくはいかないか)


 まずは“好き”がどういう気持ちか知ってもらわなくては。“好き”かどうかは、それから考えてもらえばいい。

 そう考えたミティアスは“好き”に近い言葉は何だろうかと考えた。そうして以前、キライトが口にした言葉を思い出した。


「では、大事な人はどなたですか?」


 今度はすぐに言葉が返ってきた。


「シュウクは、大事です」


(あー……また負けてしまったな)


 予想はしていたものの、どうにも切なくなってしまう。それでも“大事な人”がはっきりわかるのなら期待が持てると頭を切り換えた。“大事な人”を思う気持ちが“好き”だとわかれば、その先にある“特別な好き”もいつかは理解できる。いまはまだ美しき侍従に負けているが、そのうち真っ先に自分のことを“大事な人”と思ってもらえるようになればいい。

 それでも少し嫉妬していたミティアスの手に温かなものが触れた。


「ミティアス様も、大事です」


 予想外の言葉に、咄嗟に返事をすることができなかった。膝に置いた手に視線を落とすと、自分よりもずっと小柄な手が触れているのが目に入る。ゆっくりと視線を上げれば、美しい瞳がじっと自分を見ていた。


「……それは、ありがとう」


 ミティアスの胸にじんわりとした熱が広がった。シュウクが驚いたように息を飲んだのも、ダンが関心するように眉を動かしたのも目の端に映ったが、いまのミティアスにはキライトしか見えていない。


「僕もキライト殿下のことを大事に思っていますよ。それに顔を見るとドキドキしますし、こうして触れるだけで胸がキュッとします。これが好きということです」

「好き……?」

「殿下のことを好きだということです。僕は殿下のことが、とても好きなんです」


 そう優しく告げれば、キライトが不思議そうに瞳を瞬かせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る