第9話(ランドール)

 特別なもの。

 応接テーブルと対のソファ。片壁には鍵付きの書庫が設えられ、窓辺には部屋の主が使うデスクとデスクチェアが一式。一般的な生徒指導の教室。

 それは彼女が僕を見つけた日。


 特別なもの。

 客間の他人行儀な静けさに、品の良いアンティーク家具。普段使いされていないベッドやチェアは新品同様で、彼女が訪れる度に甘い香りが薄く残る。同じ時間、一定時間、しかし日課としての確定時間。

 それは身肉を串刺しにしてくるような鋭い視線。彼女に僕を見てもらえる、楽しい時間。


 特別なもの。

 つまるところ、それはエディット。エディット・ソロー。

「エディット、手伝ってくれないか」

 手を伸ばせば僅かに震えたか細い指先が手のひらに乗せられる。愛する恋人、愛する弟妹。愛する息子娘と、愛する孫。彼女に愛する相手が増えるたび、僕の言葉は彼女にとっての脅しとしての力を増していく。もちろんエディットが一人勘違いしているわけではなく、断ったなら他害の相手はきみの愛する対象だとはっきり意思を込め口にして、エディットは意図を正しく理解し僕の手をとる。その繰り返し。


 特別なもの。

 賢いエディット。愛らしいエディット。負けず嫌いの、やられっぱなしでいることを決して許さない、自尊心の高い僕のエディット。僕の特別。

 だからエディットは、こんな僕を嫌いになっただろう。僕だってわかっているのだ。エディットの屋敷で保護を受けたあの時が、今生の別れとしてこれ以上ない正解だったことくらいは。

 でも、仕方ないだろう。魔法の中で城を築いた。僕の生活基盤は自身の魔法の中で、その中では肉は腐らず、骨は風化せず、時間すら流れない。心臓こそ動いているが、老けず、外に出なければそうそう命は終わらない。権力者の寝室を用意するだけで、国が僕を殺さないと決めたのだ。首輪はついたが外に出してしまったんだ。そこできみを見つけてしまったんだから。

 エディット。恋をするよう世界を眺める可憐な瞳が見る世界とは、僕にとってきみを視界に入れて見る世界に他ならない。

 恋をするなど思わなかった。うんと年齢の離れた子だ。僕の中では人を殺すよりも重罪で、僕はきみが思うよりもずっと、自分の姿を客観視できている。恥の塊だと自覚できている。こうなると知っていたら仕事なんて受けずに潔く死んだはずなのに、君との逢瀬の地続きを得た僕は、愚かにもこうやってきみを脅し、きみに怯え、きみを愛してしまう。

 離れることを許さない。

――定期的に会いに行くよ。

 君の気持ちは優先しない。

――主導権の所有者は僕だ。

 愛していることは伝えよう。

――報われずとも構わない。

 可哀想なエディット。厄介なものに好かれ、それでも自分を失うことはない美しいエディット。叶うなら迷路に閉じ込めてしまいたいが、嫌われている上「嫌い」なんて口にされたなら向こう千年は引きこもらざるを得ないし、千年後にはきみはもちろんきみの子孫の血にすらきみは居なくなる。そんなこと耐えられないから一線を越えないように、僕は彼女に弱い僕で居ることにした。近くにあるためには何事も距離感と適切な脅しが必要だろう。


「エディット、事件だよ」


 愛する恋人、愛する弟妹。愛する息子娘と、愛する孫、ひ孫。僕は彼女にとって、憎たらしい彼女の怪物。彼女の愛は得られない。だとしても、彼女の手にしわができようが、彼女の背が縮もうが、僕らの肉体年齢が逆転しようが、今日も彼女に手を伸ばす。

 僕らは牽制し合っていた。片や僕、片や愛する誰かが酷い目に合うと知っているから表面上は穏やかな表情をして、心が傷つかない程度の言葉の軽口で脇腹を刺し合う。楽しい日々だった。それこそ遊んで暮らしているようなものだった。

 例えばそう、あれはエディットの娘が十歳になるころだったか。


「エレニアが、どうしてお母さんはおじさんの気持ちに応えないの、と聞いてきたの」

「彼女、僕を気に入ってるからね」

「お母さんは旦那さまを愛しているからよと、そう伝えたら、じゃあエレニアがおじさんと結婚するって」

「それは困っただろう」

「ええ、先生のせいでとっても困ったのよ」

「ごめんごめん。探偵業で人助けをしようが僕は反省なんて爪一枚分もしていない大量殺人犯だし、エレニアに優しくしているのはエディットの娘だからで、情こそ育っているがエレニアを愛おしく思っているわけではない。子どもには酷だがそう伝えてくれたかい?」

「言えたら苦労なんていたしません。あの人がエレニアに優しくしてくれるのはエレニアがお母さんの子だからよって言うでしょう?」

「うん。納得したかい?」

「まさか。泣いてジーンのところに家出してしまったわ」

「ははは、これまた人選が酷だね。可愛い困ったさんじゃないか」

「あなたの脅しが憎いわ」


 ほう、と息を吐き、僕の淹れた甘ったるいコーヒーを口に含む。僕は頬杖にはにかみ彼女の不貞腐れた表情を眺める。


「きみの人生から出ていくことはないから諦めてくれ。その代わり、きみが僕を拒絶しない限り、きみの大事なものは彼であっても庇護してあげよう。きみは誰にも陥落させることのできない城を手に入れた唯一の女王様だ」

「拒絶したら当てつけにわたくし以外に酷いことをするんでしょう? 本物の困ったさんはここにいるのよ」

「そうだね。僕の精神性はそこまで成熟していないから、まだまだ成長する余地がある」

「もう」


 迷路の中では時間の進みが違うと気付いたのはいつだったろう。親はいつの間にか老い、自分はいつまでも幼いままで。そんなだったから、周りと同じスピードで正しく、平等に老いることを受け入れられなかった。成長と共に減退するはずの残虐性は、今となってもそのまま存在しているようにすら思う。


「先生、あなた、本当は奪った命に反省などしていらっしゃらないのでしょう?」

「もちろん。その予定は生涯ないね」

「酷いひと。弱った瞬間恨みに呪い殺されますわよ」

「きみの瞳は幽霊も見えるんだったかい?」

「見えていたらあなたに見つかる前に隠れていたでしょうね。あなた、きっと多くの人に憑かれているから」

「違いない」


 彼女を辱しめるつもりも、虐めているつもりも、僕には一切その気はなかった。しかしどうしてだか、仲良くしたい子にほど人付き合いが下手になってしまうんだ。

 僕の楽しい日々に彼女はよく頬を膨らませ、唇を尖らせ、激昂を堪えながら優雅に微笑みを携える。淑女然としてありたい彼女は僕の前では実に表情豊かな女の子で、僕はそんな彼女が本当に、可愛くてたまらなかった。

――可愛いエディット。

「幽霊が見えたならよかった……」

 そう涙するエディットを抱きしめながら、役得に内心で微笑み、表情はしかし、焦ってもいた。

 ロドリック・ソーンが死んだ。

 彼女の夫は教師時代の生徒でもある。恋敵ではあったが、憎たらしいと思ったことはない。エディットの相手として不足はなかったし、彼は僕なんて足元にも及ばぬ程に彼女を愛していた。……エディットより先に亡くなるとは思わなかったが。

(エディットの死後、彼にエディットの頭髪だとか、洋服の切れ端だとか、残るものを貰うつもりだったのに。彼亡き後、彼女が死んだら、親族でもない僕はどうやって彼女の遺体に縋り泣けばいい?)

 五十を過ぎていたし、死別としては早くはない。平均寿命だ。つまり、エディットもそう長くはない。


 人を拐うのは、久し振りだった。


 エディットが寝たきりになり、一日の中で起きている時間はたったの数時間。街並みを模倣し、天候を設定し、眠っている間に連れ込んだものの、彼女の目にはそんな小細工は通用しない。


「……あなたったら」


 呆れ声は、僕の沈んだ顔を前に責めるような言葉を選ぶことはなかった。それどころか、死の手前にある彼女は僕が彼女の手を握ろうと、もうその指先を震えさせることもない。重ねた手を口元に、口付けしても許してくれる。

――最期だから、許してくれるのだ。


「泣いているの?」

「……きみが彼を想って泣いたようには泣くさ。慰めてくれるかい?」


 エディットは目元にシワを作り微笑んで、僕の目尻の涙ごと頬を撫でる。


「情は育てど愛しているわけではない、だったかしら。あなたのことは今までも、今も変わらずのうのうとわたくしの生活に入り込んできたことに対して腹立たしく思っているわ。……けれど、わたくしにも情が育ってしまったみたい」


 頬の手に、自分の手を重ねる。


「片目だけ、あなたにあげるわ」


 その言葉を理解するには数秒が、理解してからもまなじりがつり上がるまでに数秒必要で。声が出せるようになるまでに、いったい何秒、何分かかっただろう。

 固まってしまった僕にエディットは眉を下げ、してやれたわねといたずらを成功させた少女のようにはにかんでみせる。


「どうせ、あの交換の魔法使いはまだここのどこかにいらっしゃるのでしょう? 彼にわたくしとあなたの目を交換してもらうといいわ。その代わり、他の誰かに執着してはだめよ。わたくしが居ないからって、研究の続きをしてもだめ。誰かに酷いことはしないで。できる?」

「っも、ち、ろんだ! 僕がきみの願いに応えなかったことが、あったかい……?」

「あら。あなた、わたくしが促してもちっとも反省しないじゃない。いいことをしても誇らないから筋は通っていたけれど」

「そう……だったかな……」

「そうよ」


 身体の年齢が逆転して、彼女が生涯の相手を失って。それでもエディットの薄水色の瞳は美しいままだった。一度も愛されることはなかったが、その目が僕を映してくれるならどんな欲求も我慢できた。

 本当は研究を続けたかった。被験体本人と親族には便宜上小指の爪程度に悪いと思っているが、悪いと思っているからこそ他の被験体も見比べるために必要だったし、押収されてしまった研究レポートは秘密裏に医療関係者に流され他者の命を救っているらしいから、ああやって散った命も無駄にはならないんだなぁと関心だってした。(これを言うとエディットからの好感が下がるので言わないようにしていた。)

 僕は十数年かけて百以上の人間を殺した。そしてこの半世紀でそれ以上の被害者を助けた。なら今後数百年かけて、何人の人間を救うことになるのだろう。

 罰はいらない。贖罪する気はない。被害者には気の毒なことをしたと思っているがそれだけで、同じように助けた相手には運がよかったと、ただそう思うだけ。誰かの悪であっても胸をさいなむ罪悪感はなく、誰かの善となっても胸を張る肯定感はない。

 ただ僕は、きみの瞳に映っていたかった。許されないことをした罰なんていらないのだ。やってしまったことは仕方がない。責任を持とうともしないそういう幼児性を見透かす目で、ちゃんと最期まで僕を見ていてくれる。その目があれば、きみの居なくなった先でも、きみに嫌われない生き方ができると。そう、信じることくらいは、できると思ったから。

 彼女の言うとおり生かさず殺さずで閉じ込めていた魔法使いの力を使い、彼女の瞳を片方、僕のものと交換した。世界が輝いて見えるきみの瞳で世界を見る。これ自体に踊る胸はない。それでも、同じものを半分でも共有できていると思えたならば、死に体の心が確かに弾む。

 世界に恋したきみの瞳。きみを感じることに、幸福を実感できる。

 ただ、欲を言うならば。二度と叶わぬ願いではあるが。

――これはもう、僕の目だからこそ。


「……ああ、きみに僕を、見てもらいたいなぁ……」


 鏡の中の薄青の瞳に微笑みかける。

 僕は生涯、きみが恋しくて堪らない夜を過ごすんだよ、と。



 オンライン会議アプリで前任との事務的な引き継ぎを済ませ、就職先の探偵事務所の戸を開く。ドア上部に設えられたアンティークなドアベルがカランと鳴り響き、ややあって「いらっしゃい」と奥からひとりの老人が出迎えに歩いてくる。清潔に整えられた髪に、しっかりアイロン掛けされたベストにジャケット。歩行補助のステッキは持ち手に宝飾が施されセンスが光る。靴は磨かれた革靴。時代に取り残された老紳士の瞳は片方が薄青のオッドアイで、一目見た瞬間に感じたものは感嘆と拭いきれぬ恐怖心。

 魔法使いは長生きの爺さんと相場が決まっているが、この先生も例に漏れずの長生きで、二、三百歳に近いらしい。情報源の出所にも寄るが、それ以上の五百過ぎとかも聞く。つまり。

――くっそ、こえー。

 おとぎ話が現実だった旧世代の生き残りと言うだけで心は騒ぐ。そんなもん国宝だろう。その上実際に本人を前にしてみると魔法使いは人間ではないのだと、彼の纏う重苦しい雰囲気に圧倒された。国宝に相応しい人のかたちをした人外。怪物を前になんとか笑みを作ってはみたものの、いびつに口角がぴくついてしまったから正直ちょっと泣きたい。初対面失敗したわこれ。


「こんにちは。本日から前任に代わり、ランドール先生の助手として派遣されたエドウィン・ソーンです」

「ああ、なんだ、客じゃないのか」

「最近はあまり対面でお客さんは来ないからネットの問い合わせと電話対応がメインって聞いてました。先生自ら出迎えとかするんですね。今度から俺がしますよ」

「今日は僕しか居なかったから出ただけだ。次から任せる」

「は、はーい……」


 年頃の爺さんの機嫌ほどわかんないものはない。客ではなく新しい助手だと知れば紳士は穏やかだった表情をむっすりしかめっ面に唇を曲げ、事務所の奥のロッキングチェアに腰を下ろし揺れ始める。昼寝だ。老人の昼寝だ。俺と会話する気がまるでないのだ。ちょっともうめげそう。

 先生はそんな気難しい人だが、長生きの彼には今まで幾人もの助手がいて、その幾人もが試し残した、彼の機嫌をとるためのマニュアルがある。前任との引き継ぎ時、これだけは覚えておけ十項目を教えられたがその一番最初。最重要事項。目を褒めること。これをしない助手は一ヶ月持たず退職に追い込まれたとかなんとか言っていたのでさっそくノルマをこなすことにする。


「先生のお話は幾つか前任から伺ってたんですが、オッドアイなんですね。いやあ、青い目、めっちゃきれいですね」


――オッドアイの魔法使いとかフツーにRPGのラスボス感強すぎてこえーんだわ。

 本心はひた隠しにやや大袈裟に青色の方の目を褒める。「チッ」と老紳士の口から聞こえるだけでなんだかダメージを受ける舌打ちはあったが、先生は昼寝に閉じた瞼を開き、一度だけ眼鏡を外し、その目の色をじっくりと見せてくれた。


「こっちが自前。そしてこっちの薄青が――」


 エディット・ソローの魔法の瞳。

 大体の物事はこの目で見える。そう語る魔法使いも恋の前ではただの爺さんだ。死別してるらしいのでこの話は深くするべきではないらしいが。てか当たり前だ。なんで恋人の目がハマってるんだって話だ。魔法使いこえー。マジこえー。ゲームの世界~。


「ウィリー。うちの方針は前任から聞いているな?」

「ウィ……? あ、えと、はい。ペット探しから殺人事件まで幅広く、暇な時だけ受け付け中。要ネット見積りまたは電話調書、急ぎの場合は直接交渉可、ですよね?」

「よろしい。ほら、さっそく客が来たぞ。怪奇現象と殺人は受けていい。他はお前が動けるなら受けろ。僕は寝る。夕方に起こせ。その時に内容を聞く」

「え、え、え?」


 お客なんて来てないですけど? そんなまさかな、と思いつつ、事務所の窓から道路を見渡す。ひとり通りすぎ、ふたり通りすぎる。これで本当に来客があるなら怪奇現象はこの事務所内で起きてるも同然だろ。また通りすぎる。

 若干「まさか……」と緊張に胸を高鳴らせていたが、この通りのハズレくじだ。魔法使いも爺さんになればその力も耄碌するってことだろう。ほっと胸を撫で下ろしたところで道路に路駐でひとりの女性が車を降りる。

――まさかな。

 背筋にじわり、冷や汗が出る。

 女性は事務所の中の様子を窺うためか顔を上げ、そしてふと、俺と目が合った。気が、した。

――気のせい気のせい。え、マ?

 事務所の玄関口へと向かう女性に絶句する。いや仕事内容全投げされてる手前絶句なんてしてられないんだが、とりあえず、呟く。


「すげーな、エディット・ソローの魔法の瞳……」


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エディット・ソローの魔法の瞳 さかしま @sksm

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