第8話
「大事な話がある……」
あまりにも真剣な眼差しと気落ちした表情をしていたから、ベッドの縁に座る彼の隣へと居住まいを正し、手を繋ぎ指を絡め言葉を待つ。重々しく口を開く様子にただ事ではないと、身体は緊張に強張る。
「……長期任務だ」
「長期、任務……」
一般的な歩兵軍人として武力制圧の戦闘任務や警備任務、地域安全に関わるお仕事をしている、ということは理解していた。けれど、今までは首都での比較的穏和な任務がほとんどだった。それが結婚六年目にして、初めての長期任務。
――……長期任務でこんなにも暗くなるなんて。
若干の脱力感に襲われながら、まだ内容を知らないのだからと表情筋を引き締める。……引き締めたの、だけれど。
「国境に住み着いたドラゴンの、討伐……?」
「ああ。孤島から追い出された弱個体……と言っても人には驚異なんだが、数頭が巣を作ったらしい。繁殖される前に一掃する予定で、一ヶ月……長くて二ヶ月かかる。二ヶ月も……会えないなんて……」
「こんなに遠くの部隊も招集されるのね。火を吹くドラゴンなの?」
「……いや、報告によればただの知能の低い飛竜だそうだ。竜種は年々数が減っているから、各地から部隊を募っての実地訓練も兼ねてるらしい」
「そう……。わかったわ、いってらっしゃい」
どこかの国と戦争でもするのかとドキドキしてしまった胸を撫で下ろし、ほっと息を吐く。するとロディは「まさかそれだけか?」と驚きに見開いた目にあんぐりと開いた口でわたくしを凝視する。この反応は、もしかすると引き止めてほしかったのかしら? 首をかしげ、ロディの膝の上に座り両手を自身の背に誘導する。わたくしの胸とロディの胸板をぺたり重ね、キスの距離に目を合わせると、腕の檻はぎゅっとわたくしを閉じ込める。
つんと尖った唇が、構ってほしい子犬のように拗ねた声色でぽつりと呟く。
「心配してくれないのか? こういう時は怪我をしないようにだとか言うだろう」
「あら、当たり前にしているわ。でも怪我はして当然でしょう? いのちのやり取りだもの。実地訓練なんて言い方、好ましくないわ」
「そ、れは、そうだが……もっとこう……涙ながらの映画のワンシーンがしたかったんだが……思いの外真っ当で貴い言葉が返ってきて若干居たたまれなくなったな……」
根本的に俺が間違ってたのか? ひとりでもごもごとし始めたロディの頬をひと撫でし、うなじへと手を添えくすくす笑みを溢す。
「あなたは今まで通りに浮気せず、心変わりせず、わたくしを一番好きなままわたくしの元に帰ってきてくれるだけでいいのよ。両手足や瞳のひとつやふたつ、なくなってしまっていても受け止めてあげるから」
「いいのか? そんな半死半生、かなりサポートを頼むようになるが」
「ええ、いいわ。だから、突然現れた火吹き竜の炎で全身焼きただれた身体になったとしても、安心して帰ってきてね。あなたと子どもたち、それに使用人の方々全員くらい、わたくしが養ってさしあげる」
「心強いな、まったく」
「あなたの妻だもの。その代わり、絶対絶対帰ってきてね?」
背筋をぴんと伸ばし距離を詰め、唇を合わせる。わたくしの口付けを得て紅潮し始めた頬に口角が上がり、細められた目で「約束する」と誓いを受ける。
そうして討伐に招集されたロディの帰りを、今回ばかりは実家で待つことにした。子どもたちが産まれてからの、初めての帰郷だった。
――子どもたち。
わたくしの可愛い五歳の息子と四歳の娘。性格はロディにそっくりのマイペースさんたちだけれど、見目は幼い頃のわたくしにそっくり。そんな子どもたちを前にした双子は、誰に似てしまったのか姪と甥を一目で溺愛相手に昇格させ、十代前半の思春期真っ只中とは思えないほどの構いっぷりでふたりのお気に入りに納まった。
どうしてどうして? あれなあに? 子どもたちは双子の膝の上で絶え間なく質問を矢継ぎ早に口にして、双子はせっせと質問に答えお兄さんのように振る舞う。うんと年上の姉しかいなかった弟たちの夢にまでみた弟妹なのかもしれない。同様に、子どもたちにとっても兄ができたようなもの。彼らが仲睦まじく遊んでいる微笑ましい光景を堪能していると、「お姉さま」電話越しではない甘やかな声に導かれ、振り向く。そこで美しい淑女の姿をした女神の、キラキラと目を潤ませながらの笑みに目と心を奪われ、ぎゅっと抱擁を受ける。
「驚いたわ。少し見なかっただけで、あなたったらさらに美しくなったわね」
「お姉さまの方が美しいですぅ……! とってもとっても会いたかったんですよ! もうここに永住してください! 帰んないでぇ……!」
「永住は難しいけれど、来たばかりだもの、暫くお世話になるわね」
切実そのもののハグを受けながらジーンの背中を撫であやす。何年経とうが、わたくしの可愛い妹。彼女の体温を胸に手に実感しながら頬を緩ませていると、双子の手を引き子どもたちが足元にやってくる。
「ママ、このひと、だれ?」
「きれー……」
「僕らの姉さん」
「きみたちのママの妹だよ」
「ママのかぞくなら、ぼくのおねえちゃん……?」
キラキラの瞳の数が増え、年上たちで顔を見合わせ吹き出すように笑う。こうしてわたくしの子どもたちは見事に弟妹に籠絡されてしまった。
――つまり、こうなるのね……。
「やだ! かえんなーい!」
「パパこっちにかえってこさせて!」
「姉さんこっちに住めば? 僕らあまり父さんに構わないから、父さん寂しがってるよ」
「お姉さまも知っての通り本邸の部屋は有り余ってますし、治安だって首都よりこっちの方がずっといいですよ」
「公務のこととか姉さんに教えてもらいたいし」
「あなたたちねぇ……」
結託が、強固だわ。
二ヶ月にも及ぶ、べたべたに甘やかしてくれる双子の兄とこの世で一番美しい姉もとい叔父と叔母との生活。わたくしがべたべたに彼らを甘やかし尽くしたように、当たり前に彼らも子どもたちを溺愛し、子どもたちもすっかり彼らの虜になってしまっていた。
「……じゃあ、ママだけ帰るわ。パパが寂しがっちゃうもの」
「なんで?!」
「パパがこっちにくればいいじゃん!」
「だーめ。ママが恋しくなったらジーンちゃんにお家まで送ってもらうのよ」
「えっ!?」
「ジーン、お願いできるかしら? ……長くても二週間で連れ帰ってほしいわ」
「っ……! ……も、ち、ろん、ですぅ……!」
「姉さんよっわ」
「むしろ昔から変わらなさすぎ」
姉さんはずーっと姉さんに弱い。双子たちの揶揄に仕方ないじゃないと膨れながらわたくしに腕を絡め肌を重ねる妹を前に、子どもたちもこの中ではママが一番発言力を持っていると、なんとなくも察してくれる。
「ママの大事な子どもたち。ママの大事な妹と弟たちをあんまり困らせないようにね?」
「はーい」
「わかったぁ」
「あとママも寂しくなるから適度なところで帰ってらっしゃい」
「かんがえてみるー」
「るー」
ジーンもいるし、寂しくなったらすぐに帰って来れるように手配もした。マイペースな子たちだから、それほど心配はしていない。
二ヶ月丸々滞在してしまい、すでにロディは帰っているかしらと数日かけて首都の邸宅に帰宅する。久々のふたりきりの時間を過ごせると浮き足立つ心でいたけれど、任務期間の延長に戻れないと手紙が届いていた。
少数の使用人は常駐しているものの、子どもも夫も居ない家は静けさに包まれている。寂しさをまぎらわせるために、夜は早めに就寝。昼間は雑踏に耳を傾けゆっくり過ごそうと外に出る。
「相席いいかな?」
「あら、空席は十分ありますわ。他を使ってくださいませ」
「そう言わずに。ウェイター、コーヒーを頼む」
つばの広い帽子をかぶり、瞼にかかる日差しから逃れる。実家から持ち帰った数少ない私物の中のたった一冊。十年も前に流行ったハードカバーの小説をカフェテラスの隅席にて開き、文字を追う。主人公は今まさにドラゴンの首を落とそうと満身創痍にあっても剣を振り下ろす瞬間で、物語の一番の見せ場に声をかけてくる殿方とは呼吸のタイミングが合わないと適当にあしらった。けれど、彼は愉快気に柔らかな吐息で笑い、隣の空席から椅子を拝借、わたくしの向かい側へと腰を下ろす。いったいなんの用かしら。ウェイターに目配せに遠ざけていただこうと顔を上げたところで、彼の顔を確認し、首をかしげ頬に手を添える。
「わたくし、幽霊のたぐいは見えなかったはずなのだけれど……」
馴れ馴れしくも許可なく相席をしてきたのは眼鏡をかけた長身の男性。困惑に眉をひそめるわたくしに、死刑が執行されたはずの……ランドール先生はくつくつ喉を鳴らし笑い、わたくしの手からそっと本を取り上げテーブルの上に閉じ置く。
「その反応なら自己紹介から始めなくてもいいね。僕を覚えていてくれて嬉しいよ、エディット」
青かびのような、藍色、青、紫の光が彼の周りにふわりと漂う。
――ああ、本人だわ。
忘れられる光の色ならこんなにも頭痛はしなかった。心を落ち着かせるための紅茶を口に含むも、今はもうその香りすら朧気なほど集中を欠き、むっと顔をしかめ呟く。
「やっぱり、我が領地で手を下すべきだったんだわ」
「僕もそう思うよ」
「おかしいと思ったのよ。いくら重罪人だからといって、国が介入するなんて」
「飼い殺しにする方が得だと判断されてね。ランドール・ハミルトンは偽名だったんだが、きみに呼ばれる名前は気に入っていたから今はランドール・ソローと名乗ってる」
「っ」
絶句に腕を持ち上げ片手でさすり、その肌を眼前に見せつける。
「鳥肌が立ったわ」
「細く滑らかな肌だ。美しい」
「わたくし二児の母親ですのよ。口説かないでいただきたいわ」
「息子くんと娘ちゃんだったね。おめでとう。花を贈ったんだけれど、気に入ってもらえたみたいでよかった」
「ソローの名で届いた花束、あなただったのね。ドライフラワーにして飾るくらいには気に入っていたけれど、お家に帰ったら処分しようかしら」
「手厳しいなぁ」
片や不敵な笑みを浮かべ、片や迷惑が勝った訝しげな表情を浮かべている。後者が女性なら、男性のウェイターは迷わずわたくしに助けが必要か耳打ちにくるのだけれど……。
「あのォ、そろそろいいですか……?」
「いいわよ」
「よくないよ」
ランドール先生の背後に控えていた線の細い男性の従者が、今にも泣きそうなほどに表情を歪める。この第三者の存在によりおかしな客たちだとウェイターはそそくさと先生の前にコーヒーを置きわたくしたちから距離を取る。
ため息は人に見せるものではないけれど、これ見よがしに息を吐き、自身で対処を始める。
「わたくしに構わずご用を済ませては?」
「それなんだが、きみが協力してくれない限り今後の労働は辞めようと思っているんだ」
「エッ!」
「親しくもない方々の板挟みにされても心はまったく痛みませんよ」
従者の縋る視線に動じることはない。だって、先生をお手伝いだなんてわたくしにはなんのメリットもない。
お話は聞かないわ。すました態度で頑なな意思を示し、紅茶を飲み干し席を立とうとするも、先生もわたくしのお話は聞いてくれないみたい。
「もちろん誠心誠意のお願いなんてする気はないよ」
彼の声色は明るく穏やかで、なのにあの日、わたくしを迷路の落とし穴に落とした時のように口角を上げ、挑発の態度でわたくしを見つめる。とても腹立たしくって、踊らされていると自覚してはいるけれど、背筋を伸ばし毅然と向き合う。
「わたくしを脅すのね。お花はありがとうございました。けれど、どうしてわたくしの住所と子どもたちの出産日を知っていたの?」
「聡いきみの想像の通りかな」
もう一度深くため息を吐く。この再会は偶然ですらない。それどころか、ロディの実地訓練自体も不自然だわ。
「悪人が権力を持つと、ろくなことにならないわね」
「僕の使い方はまだ可愛い方だよ」
そうかしら。疑うように視線を向けたとしても、張り付けられた笑顔は崩れることがない。
「……このままやりあってもわたくしの負けね。いつから仕込んでいたのかしら」
「さあ。もう何年も前から見守っていたから」
「ものは言いようね。いいわ、手伝ってさしあげる。さしあたっては、あなたが大怪我を負おうと、わたくしを夫と子どもの元へ無事に帰すこと。どうせ、たった一回お仕事を手伝って終わり、にはならないのでしょう?」
「もちろんその通りだ。僕の力の限り、きみに怪我はないと誓おう」
「夫に嘘を吐きたくないわ。わたくしに守秘義務を求めないで」
「もちろん」
「えぇ……困るんですけどォ……」
「口を挟むな」
「決定権がないのなら少し口を閉じていていただけるかしら? 家族の安全面は最重要よね。他、メリットを提示してくださる?」
「きみたち家族の防空壕になってあげよう。どんな建物より頑丈な要塞だし、食料の蓄えもある。薄暗い景色の記憶しかないだろうが、天候も変えられるし街並みを丸ごと模倣できる。全ての鍵は君に渡しておくよ。それに、僕は教師だった頃もあるからどの思想にも中立的立場で勉強を教えられるね。見せるのは品行方正な姿で、きみへの恋慕は隠し通そう。ああ、でもきみはこの恋心を利用してくれて構わない」
「代わりにあなたはわたくしを脅し、何食わぬ顔で生活に関わってくるのね」
「理解が早くて助かる。手綱は互いに握り合おうじゃないか」
差し出された契約提携の手を一瞥する。人のいい笑みを浮かべられようと、言葉を挟もうとした従者への態度は冷たく、わたくしにこの件の決定権はないと言っても差し支えない。
――だって、これは脅しだもの。
言葉通りの言葉遊びを楽しまれている。とっても癪で、気を緩めると表情が無様に強張りそうで、だから醜態をさらす前に、にこりと微笑みその手を握る。
「最後のあたりも初耳だわ。ごめんなさい、わたくし生涯夫に一途なの。死がふたりを別っても愛は変わらないわ」
たった一度の握手をして、すぐさま手をほどこうと力を緩める。その手を、先生は離さない。
「構わないよ。それこそ別の愛がふたりの間にあろうとも、というやつだ。そも、人に好かれるのは慣れているだろう?」
「嫌われることにも慣れておりますから、嫌っていただいても構いません」
「きみと話すのは本当に楽しいよ」
ようやく離された自身の手を撫でる。僅かばかりに震えているけれど、深呼吸をひとつすれば心の落ち着きと共に震えも止まる。
「……それで、どこに向かえばいいのかしら。夫以外の殿方といつまでも和気あいあいとお話に興じる気はありませんの。新天地で築いた外聞にまた不名誉な内容が追加されてしまうわ」
「僕との仲を揶揄したあれか。愉快だったな」
「わたくしにも我慢の限界がありますのよ」
「限界前にちゃんと口にしてくれるから本当にありがたいよ。ウィリー、会計は頼んだ。エディット、おいで」
従者を店に残し、エスコートされるまま自動車の後部座席へと乗り込み帽子を膝の上に置く。先生が運転してくださるのかと思えばわたくしの隣に陣取り、わたくしの分まで会計を終わらせた従者が急ぎ足で運転席へと乗り込みエンジンを掛ける。目的地は、訊ねても教えてくださらなかった。
人気の少ない郊外へと向かう車窓の風景を眺める。景色は次第に薄暗く寂れていき、ようやくの停車に車外へ降り立つと死体の遺棄にでも使用されていそうな半壊した住宅街――人すら居ないスラムの一角が眼前に広がっている。
少し生臭く、ハンカチで口元を覆う。
「わたくしのサポートなど不要でしょう? あなた、指先を鳴らせば簡単に人を閉じ込めたり、殺めることができるもの。なにを手伝わせるつもりなのかしら」
「酷いなぁ。僕が人を殺せるような人間だとでも?」
どの口が言うのかしら。呆れた目で彼を見るも、先生は吹っ切れているようでわたくしの視線をものともしない。それどころか、罪悪感など微塵も持ち合わせていない滑らかな所作でわたくしの背後に立ち肩を抱き、耳元で導くように口を開く。
「エディット、なにが見える?」
近い距離に、身がすくむ。
「……おあいにくさま、わたくし幽霊のたぐいは見えませんの。お役に立てず申し訳ございません」
「いじわるしないでくれ」
「いやですわ。ずうっといじわるしてさしあげます」
けれどそうは言えど、恐怖心を喉の奥へとなんとか嚥下し強がっているだけの可愛いいじわるも楽しまれてしまうのなら、従順に求められるままをこなす方がいいのかもしれない。
――……ジル。
自らの手で殺めた弟の名を口内に、痛む胸に手を当てる。死刑になるはずだったのに、彼は今ものうのうと生きている。それだけではなく、外を歩きコーヒーを嗜めるほどに自由を得ている。魔法の制限もきっとない。取引に司法が繋がっていればまだいい方だけれど、恐らくはそんなものもなかった。
――先生ほど魔法に執着し、詳しい人はそういない。
つまり、彼の価値は、亡くなった方々の尊厳よりも重視されたということ。
――……不快だわ。
とても、とても不愉快。
「むくれた顔も可愛いね」
「わたくしですもの」
やはり恐怖に身を緊張させようと、強がることしかしたくない。彼の手にかかれば、わたくしの人生は一瞬で終わってしまう。それでも、引きたくない相手がいるとしたら、それはわたくしにとって彼以外にはいない。
これからの方向性を考えながら、辺りを見渡す。スラムと言うよりはゴーストストリートと言った方がいいのかもしれない。錆び付き古びた看板は倒れ放置され、道端には買い物カートが転がっている。あちこちに捨て置かれたゴミを大きな野ネズミがひとつずつ匂いを嗅いでは通り過ぎ、食べられるものなら踏みつけられたガムですら齧ろうとしている。
……我が領地は衛生面ですら群を抜いていたのだと実感する。
「ちなみに拐われた子がいる。十七歳の女の子。被害者は皆うら若き少女たちだ。少しばかり親近感が湧くね」
「それを先に言うべきでしょう! どうして見つけてほしいの一言が言えないの!」
使えば使うほど魔法はその力を増す。大人になっても消えなかった魔法なら、それだけで脅威に値する。わたくしの魔法もあの頃よりは遠くを、そして壁すら関係なく見通せるようになっていた。
深呼吸に瞼を閉じ、世界を見ることだけに集中、ゆっくりと開く。人通りが極端に少ない場所でよかったと心から思う。不審な動きをする残光はワンブロック先でもはっきりと見えるのだもの。
車に乗り込み指先で場所を指示、廃墟と化した一軒家に先生の後ろについて足を踏み入れる。
「地下室があります。壁と壁の間に狭い通路。そこから行くのかしら」
食器棚をスライドさせると隠し通路が現れる。わたくしの目、諜報活動が天職なのかしら。いやだわ。
暗闇の細道を前に先生に手を差し出す。彼に恐怖している時間すら惜しい。
「エスコートしてくださる?」
「喜んで。そのまま盾になろう」
先を歩いてもらいながら、「段差がある。気を付けて」気遣いの言葉通りに苦なく道を行く。自然と先頭は先生、次にわたくし、その後ろに彼の従者の列となる。
「突き当りに扉があるようです。誰か……ふたり、いますね」
「ひとりは犯人だとありがたいな」
怖いものなんてなにもないみたいに、なんの躊躇もなく先生は扉を開く。「誰だ」と男性の声がして、女の子の「助けて」という震えた声も先生の後ろからしっかりと聞こえた。けれど先生は彼らと会話をする気すらなく、「粗末な檻だなぁ」とひとりごちる。わたくしに気を注ぎながら興味のない人に対しては誰より血も涙もなく冷たくなれる人。それが先生の本質。喉の乾きは怯えから。けれど、怯えている暇なんてない。
「あなたの用意する檻と比べたなら大抵のものが粗末になってしまうわ。先生、先ずは女の子をこちらに保護していただけるかしら」
「もちろん。ちなみにエディット、彼を見てどう思う?」
「どうって……っ!」
盾として壁になってくれていた先生が身を引き、目の前が開ける。大型の動物を入れる檻の中に少女、その隣にひとりの男性。……男性?
光に潰されそうな目をなんとか薄目に開き、観察する。彼は……様々な色が、禍々しく混ざっていた。
「つぎはぎ、に、思います……」
そう、つぎはぎ。けれど縫い目はない。肌の色にムラもない。整った面持ちは若い女性のもので、声……声だけが、異質で。なのに、わたくしからは、彼はつぎはぎに見えている。極彩色と言えばマシに聞こえてしまうけれど、色と色は混じり合わず、協調性のない光はいっそ暴力的ですらある。
「見つかっている少女の遺体がおかしかったんだ。遺族曰く、顔は娘だが肌の色が違う。目の色が違う。こんな髪ではなかった」
先生は生き生きと語り出し、男に向かう。
「きみ、自分と少女の身体を交換しているね。それも交換し続けている。喉仏はそのままのようだけど、男性器はついたままかい? でも骨格は弄っているね。興味深いなぁ、血液型とか関係ないのかな? 副作用とかなかったのかい?」
「アンタら、三人だけか」
胸もある。体格は華奢で、彼と称するには言い淀んでしまうほどにシルエットだけは女性的。けれど、声や今まで身に付けた立ち振舞いは、間違えようもなく男性のもの。
「その顔、結構いいな。この顔もそろそろ劣化し始めてきたんだ。アンタぁ少し年齢がいってるが、年齢のわりには美しい」
「年齢のわりには? 目医者にかかった方がよろしいのではなくて?」
「頭の方だろう」
「夫人はもう二十年三十年後も飛び抜けて美しいと思いますよぅ……」
かなり失礼なことを言われ反発的に口を開く。わたくし側の殿方から追撃をいただくも、男はわたくしたちに構わず口元に手を当て思案後、にたりと笑む。他人の顔を奪い交換し続け、手入れの努力も知らない彼の微笑みは、とても醜く歪んで見えた。
「一旦貰うとするかな」
男が腕をわたくしに伸ばす。数多の光がわたくしへと向かい、後退りに従者に背をぶつけそのまま床に崩れるように倒れる。逃げられない。反射的に両腕で顔を隠すも、肉を、骨を通り過ぎ頬に触れようと距離を詰める魔法の光にぞっと背筋が凍り、冷や汗がこめかみに滲む。
ぎゅっと目をつむる。従者がわたくしを抱え込むよう腕を伸ばすけれどそれすら遅く、おぞましい気配に身の毛がよだつ。身体を硬直させた、その時。
パチン、と、音が響いた。
「危なかったね」
飄々とした声に、瞼を開く。男の姿はどこにも見えず、行き場を失った光が主人を探し壁や天井、そして先生の周りを浮遊している。……これには、身に覚えがある。
「落とした、の……?」
足元がふいに崩れる、容赦のない浮遊と落下。迷路の魔法と呼ぶには落とし穴の才もある、彼の魔法。
「大丈夫かい? 怖かっただろう」
庇ってくれた従者にお礼を述べ、差し出された手を掴み立ち上がる。
「……大丈夫ですわ。あなた以上に怖いひとなんて、おりませんもの」
「それは……ははっ、自業自得だけど心にくるね。きみは今日、ずっと僕を怖がっていたし。もう少しうまくやるはずだったんだが、すまなかった」
僕も素早さがあるタイプではないからと、ようやく本心からの言葉が苦笑混じりに向けられる。
「ソローさん、あの、彼女の檻の鍵がなくてぇ……」
「ちゃんとよく探しなよ」
「あの不気味なヤツの胸ポケットとかにあるかもじゃないですかぁ……!」
従者がデスクや棚を漁るも鍵はない。女の子は不安の中に閉じ込められながら安堵しきれない現状にさめざめと涙を落とし、その嗚咽が胸にとても痛く突き刺さる。
「……先生」
「ん、なんだい?」
にっこり微笑む彼は、わたくしの望みを知っている。それでも声に出すよう促している。上手にお願いしろと。それこそ彼の……、彼の恋心を、利用させようとしている。
「……お願いいたします、ランドール先生。あの子、助けてさしあげて。可哀想な女の子の姿は見たくないし、見られたくないはずだから……」
「それがきみの願いなら」
先生がもう一度指を鳴らすと、檻の中の少女が暗闇に落ちる。と、同時に従者の上に少女が現れ落ちる。従者は先ほどわたくしの下敷きになったように潰れ、少女はなにがなんだかわからず目をぱちくりとまばたきさせる。
「出口直通の迷路。僕の魔法は便利だろう? きみなら使い放題だ」
「やり方を考えなさい!」
先生は笑いながらジャケットを脱ぎわたくしに差し出し、それを受け取り少女に駆け寄る。従者に身体を支えられながらなんとか立つ肩に羽織らせ、細く痩せた身体をそっと抱きしめる。「もう大丈夫よ……」慰めるよう背を撫で野外へと連れ出す。そこにはすでに、ここまで乗ってきたものとは別の高級車が数台停まり、先生を待ち構えていた。
「残念。迎えが来てしまった」
女の子は白衣を着た女性に託し、そうして先生はわたくしの眼前に立ち「また会おう、エディット」挨拶にしては感情の含みのある吐息で空気を揺らし、唇を近付ける。けれど、当然のこととしてその胸を押しやり牽制する。
「わたくし、人妻で母親ですのよ。浮気などしない良妻を自負しておりますの」
「知ってる。都合のいい時に息子くんと娘ちゃんに会いたいな」
止めたにも関わらず頬にキスを受け、その上満足げに微笑まれたのだから、少女のようにこの不服に唇を尖らせる。
やり逃げに背を向け一台の車に乗り込もうとしたところを引き留める。
「ランドール先生」
振り向きはゆったりと。余裕綽々の彼は、今日のようなことを何度も経験しているはず。
――つまり、やはり彼の仕事に、わたくしは不要でしかない。
「手を下す相手が悪人だとしても、あなたがまた人を殺めるのであれば二度とお会いしたくありません」
「……ははっ」
先生はおかしそうに笑い、そうして心外だなと呟く表情が抜け落ちる。
「もう一度言おう。君に嫌われるのだけは嫌だと思っている今の僕が、人を殺せるような人間だと思うかい?」
「…………」
――きっと、できるわ。自分の手では、しないだけで……。
周りすべてを静寂に包む彼の冷たい声色に、吐息のひとつさえ返すことがままならない。彼は「また声を掛けるよ」と微笑みを浮かべ車に乗り込む。ややあってエンジンが軋み、窓越しに手を振り先生はどこか、わたくしの知らない場所へと消えていく。……けれど。
――わたくしの知らない場所で、わたくしの目に届かない場所で……わたくしを、見ているのね、あなた……。
目の前に居ても安心はできない。なのに、目の前に居ないことで安堵もできない。緊張だって解けることはない。
――怪物に好かれる経験はないのだもの、どうしようもない。
ほう、と息を吐き、わたくしの動向をいつまでも気にしている彼の従者に向き合う。
「あなた、置いていかれてしまったけれど平気なの?」
「平気じゃないですぅ……。泣きたい……。でも多分、いや、絶対夫人をお送りするために残された気がするのでお送りしますねぇ」
「あら、ありがとう。そう言えばあなたのお名前、聞いていなかったわね。失礼をしてごめんなさいね、先ほども助けようとしてくださったのに。彼の前だと必死になってしまって、だめね」
「必死だったんです? まあ、あの人、正直キッッッツイですもんねぇ」
溜めに溜めた言葉は本心そのもので、つい気が緩みくすくす笑う。送り届ける以上の働きを任され、それを見事果たしていることに、彼はまるで気付いていないみたい。
「ウィリアムズです。ソローさんからはウィリーと呼ばれてますね。もォ毎日パシられてます。いじめですよいじめ」
「ならわたくしもあなたの仲間入りね。わたくしはエディット・ソーンというの。結婚前はエディット・ソロー。ね、酷いと思わない?」
「えっ、マジですか? キツさ増し増しで鳥肌立っちゃいました。あ、カフェで鳥肌って言ってたのこれですかぁ!」
少しお話をして、握手をして、自宅までの道中を楽しむ。気にしても仕方のないことをいつまでも憂うのは、それこそ我慢ならないのですもの。
数日後、先生からの招待状を持ったウィリーが運転手として屋敷の戸を叩いた。わざわざいじめられに行くなんてどうかしているけれど、顔見知り、ひいてはいじめられ仲間のウィリーをひとりで帰すわけにもいかず、もう一度気の重たいドライブを許容はしたのだけれど……。
「RaE探偵事務所……」
新築の建物のガラス扉に彫刻された社名を呟く。このEはわたくしのことか訊ねるのは、さすがに自意識過剰になるのかしら。ちらとウィリーの様子を伺えば、自白の代わりにそっと顔をそらされ頬に手を添え息を吐く。
訊ねるのは止めておきましょう。聞いてはだめなこともこの世には存在するわ。そう決めたばかりなのに、いつの間にか――出口直通の迷路を使ったわね――背後に立っていた先生は「君の事だよ」と聞いてもいないのに教えてくださる。本当に、呆れたひと。
「ランドール&エディット探偵事務所? 安直すぎますし、職業婦人になりたい願望はございません」
「僕も探偵業なんて名目でうろつきたくはないんだが、王命でね。おざなりな立憲君主制を恨むといい。ちなみに内容は魔法使いの保護だよ」
探偵業と銘打っているものの、実際は……この言葉もいかがかしらと思うけれど、絶滅危惧種である魔法使いの保護活動業。保護対象は成人以上の魔法使いの中で犯罪歴のある者。国営。つまり先生の魔法とは、場所を必要としない刑務所で、先生はその大家ということになる。
「魔法が見えさえすれば密室だろうが犯人がわかるんだろう? きみにぴったりの現場だ」
いつかの言葉を蒸し返され閉口する。
口を閉ざしたわたくしだろうと、先生は微笑みを崩さない。
「エディット」
けれど、口は許せても、瞼だけは許してくれないみたい。
「しっかり僕を見張っていてくれ。その目で。その目に僕を映して。でないと……」
続く言葉はなく、穏やかな無言の笑みを向けられる。無言も言葉のひとつ。声にならなかったそれは、魔法の言葉。貫かれることはなかったけれど、確かに今が、そして未来が、彼のものと縫い繋ぎとめられた。
――……癪に障るわ。
ふっくり頬を膨らませ、事務所に入る。新築の香りが心地好く、立地としては我が家と普段ロディが職場にしている軍の駐屯地の丁度中間。わたくしと偶然の再会を果たす前からこうなることを想定し、ロディがわたくしを送り迎えしやすいようにわざわざ選び建ててくれたのね。
――やっぱり、癪だわ。
「今朝、ロディから手紙が届きました。きっとわたくしよりも先に、それも詳細に知っていらっしゃるでしょうけれど、大きな怪我もなく無事ですって」
「それはよかった」
否定しないところがいやらしい。
「先生に伝言があるんです。帰ったら直接言うとも書いてありました」
「ん、なにかな」
「挨拶でもキスはなしだ、ですって」
「それはまあ仕方ないね。気を付けるよ」
「わたくしからも付け加えます」
「聞こう」
一拍を置き、お望み通り、彼を目に映す。穏やかに笑い、澄ました顔で人畜無害を装う怪物を、どう対処すればいいのか。それは、すでに彼自身がわたくしに教えてくださっている。
「……挨拶であっても、ハグはなしよ」
「ふっ、はははっ!」
大きな声で笑う彼に、わたくしの赤面は耳の先まで広がっていく。
――よく膨れっ面をして、よく怒り、振り回されて赤面まで!
本当に、彼の前では感情を抑えることがとても難しくって、ただの女の子にされてしまうことがこんなにも腹立たしい。
――恋心を利用する、ということは、好かれていることを、自覚しなければならない。
それがどれほど自意識を過剰にさせ、自惚れを助長し、自身を滑稽に見せるものであるか、先生ほどの人が理解していないわけないというのに。
――……辱しめられているんだわ。
そう唇を曲げているわたくしに対し、満足するまで笑い終わった先生は笑い涙の粒を指で掬うと、あろうことか頷くべきところを首を横に振り口角を上げる。
「手厳しいね。この件は追々話し合おう」
「いたしません」
「せっかくきみの目が僕に届く場所を用意したんだ、活用するといい。取りあえず、きみの家族がこの街に戻ってくるまでの数日間は、特にね」
ウインクをして先生はデスクや備品、事務所の間取りの諸々の説明を始める。揃いのマグカップに鳥肌を立たせ、先生の軽口に感情を揺さぶられ、遊ばれている意識を持ってわたくしは彼の玩具ではないと言葉と態度で示す。こんな日々が続くのかしら。そう思えば憂鬱が肩にのしかかり、早く家族を抱きしめたいと窓辺に立ち風を受ける。この時、ガラス窓からこちらを覗く殿方に気付く。
「先生、依頼者の方がいらっしゃいましたわ」
「記念すべき第一号だね。話を聞いておいてくれ。僕はコーヒーを淹れよう。ウィリーは飲まないし三人分でいいね」
「なんでそんな息を吸うように仲間外れにするんですかぁ……」
「わたくしコーヒーは……」
「心配せずともきみの分はうんと甘くするよ」
ウィリーがいじめだとしょげてみせる一方で、この先生の一言に過去の記憶が刺激され、はっと気付く。
あの日、わたくしが彼の迷路に落とされる、直前のこと。そのコーヒーの、苦いこと。
「あなた、あの日はわざと苦くしたのね……!」
「おっと……。そう言えばそんなこともあったね。自己紹介で甘いものが好きと聞いていたから、可愛い出来心さ」
「酷いひと!」
「ははは」
あの人酷いわ、とウィリーの隣に立ちふたりで彼を責める。わたくしたちの言葉を気にすることなく先生はお湯を沸かし始め、その内にようやっと、ドアベルが鳴る。
「出て、エディット」
その声は柔らかでいて楽しげで。手中にあるのはわたくしの方なのだと腹立たしさはあるけれど、頬を一度むにりと揉み、笑みを作る。
「ようこそいらっしゃいました。ランドール&エディット探偵事務所へ。どうぞこちらへお掛けになって」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます