第7話
屋敷の男手たちが庭先の雪を掻き、邪魔にならない近場で指先を赤く、小さなスノーマンを作る。そんなわたくしの横で雪掻きの手伝いをしてくれているロディに、至極真面目に問い掛ける。
「ねえ、あなたとデートしたいのだけれど、どこか行きたいところはあるかしら?」
「なら三つ隣の街だな」
「どの方向に向かっての隣かしら。街の名前は?」
「……咄嗟には出てこないが、デートは絶対にしたい」
コートにマフラーとニット帽。手袋こそ雪遊びにポケットの中に仕舞ったけれど完全防備のわたくしに対し、ロディは一時間以上の雪掻きに火照った上半身を裸に湯気を立たせている。
見ていてこちらが寒くなる彼の白い吐息を意訳すると、こうなる。
「わたくしの顔を隠さず共にあれるならどこでもいいってことね。いいわ。次のお休みの日もうちでゆっくり過ごしましょう」
「また雪掻きの手伝いだな」
「でも楽しんでるでしょう?」
「エドがいるからな」
「もう。あなたが外に出なければお家の中でゆっくり過ごしてるのに、近くに居たいからこんな寒空でもあなたの隣に居るのよ。自分でも可愛らしいことをしてるって自覚してるわ」
先生との一件で地元の新聞にわたくしの顔が載ってしまってから、街に降りることはしなくなった。学校も残念ながら辞め、屋敷と敷地内での暮らしに逆戻り。
「最近はずっと部屋に籠ってるだろ? 外に出た方がいい。どこでもいいが遠出は本当にしたかったんだ」
「今はどこも雪道だもの。遠出と事故死はワンセットじゃない」
「それでも今までは適度に外交してなかったか?」
「税金を使った移動はそれなりに安全だけれど、私用でそれは使わないわ。それに、わたくしの公務自体まだお休みなの。殺人鬼を匿った女としてまた評判が下がってしまったから、裏でお手伝いすることも禁止されてしまって」
「……それはそれとして、おかげで二人で過ごせる時間が取れていい」
「本音は?」
「学校で毎日会えるってのは得難い日々だったと実感してる。エドが全然足りない。今までの俺はよく耐えられていたな……」
「わたくしも同じだけ耐えていたのよ」
雪掻きスコップをさっくり雪山に差し、自由になった両手を広げての汗ばんだハグを受けとめる。
「……ごめんなさいね。わたくしが継いで、婿養子に来てもらうはずでしたのに。弟と交代の路線で本格的にお話が進んでしまったの」
「気にするな。夫婦になることに変わりないんだ。俺にとってはそこが最重要で、他はおまけみたいなものだからな。エドがいればいい」
瞼に頬に、そして唇に軽いキスを受け、くすぐったさに微笑み首の後ろへ手を回す。
「けれど、反対されたでしょう?」
一拍間を置きそっぽを向く。排雪という重労働に鼻先を赤く、けれど全身を使うこの運動に肌から湯気を立たせる姿が相まってしまうとあまりに少年的で、表情が明け透けにみえてしまって、つい笑みがこぼれる。
「それでもわたくしを選んでくださるのね」
「当たり前だ。一瞬でも手を離せばかっさらわれるから迷ったことは一度もない」
ここで「誰に」とは言わないところが好きと、じわりあたたかに胸の奥に火が灯る。
屋敷に軟禁生活は詰まらないからデートがしたい、と言ったわけではなく、今まで迷惑をかけた謝罪を込めて、ロディが喜ぶことイコールデートの誘いだった。だから、わたくしの恋人のように表現するなら、重要なことはただひとつ。
「それで、ねえ。来週もわたくしに、会いに来てくださる?」
見つめあったまま目を細める。背腰に回された腕がさらにわたくしをぎゅっと抱きしめ近付く吐息に瞼を閉じる。
「こらー! そこの半裸! お姉さまといちゃいちゃするなら服を着てから屋内で私に隠れてしなさーいっ! お姉さまが! 風邪を引いたあなたの看病に向かった先で風邪移されちゃうでしょー!」
唇が触れ合う前にぱっちり瞼を開き、寸止めのキスにくすりと微笑む。ばつの悪い顔をしたロディが屋敷の窓から大声を出したジーンに降参だと身をすくめるよう手で合図し、抱擁を離れ他の雪掻き要員に先に上がることを伝える。汗で濡れ冷気で冷えきった上着を片手に持つも、着直すことはなく、半裸のままわたくしの肩を抱き屋敷へと歩を進める。
「本当は泊まりたいくらいだ」
「そうね。一日中一緒に居られたらとっても幸せでしょうね。……ねえ、ロディ」
「うん?」
彼を見上げ、ひとつ、重要なことを教えて差し上げる。
「わたくし、後継から外されたのよ」
「……そんなに後継ぎになりたかったのか……?」
「そうじゃなくて。……わたくしがこのお家に居る必要は、もうないってこと」
「それは……」
「三つ隣の街より遠い場所なら、誰もわたくしの悪名は知らないし……。プロポーズ、首都に向かうタイミングでもいいと思わない?」
「っ!」
立ち止まったロディががばりとわたくしを抱きしめ、そのまま横抱きに屋敷のわたくしの部屋へと駆けていく。彼のうなじに腕を回し、力強い歩幅の振動を感じながらくすくす笑みを溢しぎゅっと抱き付く。
――お姫様にでもなった気分だわ。
けれどわたくし、本当は、王子様になりたかった。
背筋を伸ばし、流し目の視線を床に、唇を閉じる。それだけでわたくしをよく知らずにいる方々は可愛らしくも肩を抱いてくださる。儚げなお姫様。そんな自身の見せ方を心得ながら、ふふ、と緩く折り曲げた指先で口元を隠し、いたずらっ子のように微笑むのはロディや家族友人の前でだけ。
そうよ、わたくし、心根がちっともお姫様には向いていないの。
子どもの頃のひとり遊びは静々と巻抜けした本を読んだ。お話に集中しきれないまま顔を上げ、ほんの少し顔を傾けた先には姿見があって、寂し気な女の子と目が合う。彼女に王子様は来ない。王子様候補はいたけれど……軍人になるから王子にはならないよ、ですって。
鏡の中の彼女に手を伸ばせるのはわたくしだけ。手を繋ぐことはできなかったけれど、重ねることはできてしまえた。憐れな慰みに縋る彼女の涙をわたくしは真正面に見た。だから、そう。この時に。可愛らしいことに、王子様になろうと決めてしまった。
本の中の王子様は勇敢で、聡明で、慈悲深い。
ドラゴンは倒せなくてもいいわ。それは騎士様の仕事だもの。目指すなら、心根の方。お姫様にはなれそうもないけれど、王子様なら目指してみようと思えてしまった。だから母の死後突然現れた異母と……わたくしがそうありたかったと、理想を詰めた見目の異母妹に優しくあろうと努めたし、今では他意なく彼女たちが好き。意地悪をしたくなる日もあったけれど、心が疲れてしまうから一呼吸のうちに我慢した。それこそ我慢をしたと自覚があるほどにね。
でも、我慢した日は遥かに少ないわ。
彼女がこの本邸に、このお屋敷に来た初めての夜を思い出す。あの子ったら、夜泣きにベッドに入ってきて、一番好きと言ってくれた。何度も、何度も。あまりに何度も言ってくれるから、聞き間違いや勘違いになんて到底できない。
そうやって、世界に光が溢れ出した。火にかけたフライパンの上でバターがパチパチ弾けるような愛らしい音が小さく耳元で鳴り始め、瞳の中に星がまたたく。
『おねえちゃんが……っ、すきだよぅ……』
胸が熱くて苦しいほどに、ともすれば泣いてしまいそうなほど、とっても嬉しかった。わたくし、あの子を抱きしめるうちに、王子様より先にお姉ちゃんになってしまったわ。
そうやって、わたくしはわたくしに成った。
言動の善し悪しは可能な限り世間一般の感性を尊重したものを選択してさしあげたいけれど、あんまりにも我慢しすぎるとわたくしに生まれた意味がなくなってしまうからここはほどほどにいきましょう。適度に言葉を崩し、適度にいたずらをして、ちゃんと息抜きをしてね。そして愛する妹と弟に優しくあり、時に諌め献身し、慈しむ。これならいつまでも立っていられる。大丈夫。近寄りもしない他人になら疎まれていてもいい。耳に届かない悪口なんてないのと同じ。だから大丈夫。大丈夫。大丈夫……。
「エディット、大丈夫か?」
優しくベッドへと降ろしてくれたロディが、わたくしの顔を覗き込み、頬を撫でる。
「……ん。大丈夫……。……少し、ね、思いわずらってしまっただけだから……」
「……マリッジブルーか」
「ふふっ。似たようなものね」
ニット帽にマフラー。コート。一枚一枚脱がせてもらいながら、ぽつりと呟く。
「あの子がわたくしに向けてくれる熱量、あなたより多かったでしょう?」
「そんなわけないだろう」
ムッとしながら即答し、けれどおへそを曲げた声色でも丁寧に靴下を脱がせてくれる。
「どうかしら。ふたり分もくれていたから」
「ふたり?」
「そうよ。でもわたくし、あの子を選べなかった」
わかる? 僅かに首を傾けると、ロディはピンときたのか得意気に口角を上げてみせる。
「俺に恋してたからか」
勝手に納得する。けれど正解だから、わたくしのブラウスのボタンを全て外し終えた手の甲をつねる。
「あなたの子どもっぽくて無神経なところ、ジーンに見せてはだめよ」
「俺はいつでも俺でしかいられん」
「もう……。恋する女の子は、可愛いでしょう? そんな可愛い子が目の前にいるの。クラクラするってこのことを言うのね。実感したわ」
「それならわかる。エドはいつだって可愛いが、俺を前にしたエドになると世界一可愛くなるから」
「応えられない心苦しさはわかるかしら」
「それはわからないな」
「わたくしに感謝なさいね。あそこまで一途なら、心変わりして当然でしたのよ」
「感謝はしているが、そもそも俺との結婚の約束の方が先だった」
わたくしの手を取り口元へ、指の背にちゅ、と口付ける。それは初対面の約束の再現。
時代遅れになりつつある、婚約者候補を集め行われる子どもが主役のパーティー。その一番に、わたくしの前に立ち、手を差し出してきた少年。
浮気するな。心変わりするな。俺を一番好きになれ。
――……俺は、そうするから。
祈るように差し出された手のひらに指先を重ねた。引き寄せられて、今のように口付けを受けた。
一目惚れではなかったけれど、たったそれだけの言葉と交わした約束で、恋をした。
世界を照らす光はなかったけれど。
眩しさに眩暈することもなかったけれど。それでも。
――……わたくし、あの日から、恋してる。
「……ええ、そうよ。わたくしはあなたを選んでいるわ。なのにとてもとても好いてくれるから、嬉しくて、心苦しくて。けれどとっても愛しくて。あなたにはあげないものを、ひとつくらい差し上げたかったの。お姉ちゃんのわたくしを、あの子に」
子どもの言葉遊びと笑われてもいい。おばあさんになっても、手を引いて、口をつく言葉なら恥ずかしくない。
「世界で一番可愛いわたくしの
わたくしにはロディが。あの子にはお姉ちゃんが。結局お姫様にも王子様にもなれなかったけれど、わたくしはわたくしとして今も背筋を伸ばし立つことができている。
今の自分が好きと言える。自ら命を絶ったお母様はきっとそう思えなかった。わたくしのことも、きっと……。
だからこそ、この幸福は得難いものであると身に沁みて思う。思えるの。実感するの。
瞳に涙の膜が張り、重力に落ちて、目尻を濡らす。
「ロディ。本当に、ありがとう。わたくしの手を引いてくれて。本当は大丈夫じゃなかったの。悪口は嫌い。視線だけだってとても……とても怖かった。痛くて、つらくて、ひとりでは到底歩けなかった。あなたが居て、支えてくれたから頑張れたの。あなたが隣に、そばに居てくれたから、わたくしはわたくしであれたのよ」
両手を広げると眉尻の下がった優しい顔で涙ごと抱きしめられる。背に腕を回し、頬をすり寄らせ、とくとくと駆ける心音を耳に、吐息の距離に目を合わせる。涙に潤んだままの瞳は、きっとわたくしの見ている世界と同じように、またたいている。
「ねえ、ロディ。わたくしと結婚してくださるかしら?」
「もちろん。……来週は俺からプロポーズするからな。春先にもする。レグルスとリアーニァを呼んで小さなパーティーでも開こう」
「とってもいいわね。ジーンと一緒にケーキを焼くわ。双子も居ていいわよね?」
「仰せのままに」
「その言い方。あなたったら、わたくしのお尻に敷かれていていいのかしら」
大きくまばたきをして一秒後、それこそもちろん、と柔らかな微笑みの唇が近付く。わたくしはそれを、瞼を閉じ受け入れる。柔らかな感触が何度も唇をついばみ、ゆっくりと離れ、もう一度、近付く。
「エディット・ソローには、敵わないからな」
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