第145話 最初の破界者

■東京都新宿区市ヶ谷 防衛省庁舎


 防衛省庁舎地下37.5メートル。

 太平洋戦争中に秘密裏に作られたという地下塹壕でイッセンは目覚めた。

 脇に転がっていたカメラドローンを起動し、視覚をリンク。地球人風アバターの外見を確認する。


 短く切りそろえたショートヘア。

 複数の人気女優をモデルとし、調整した外観。

 パンツスーツにはひとつの皺も埃もついていない。

 非人間的なまでの美貌を備えたそれは、地球の芸能界でデビューすれば瞬く間に人気を博すだろう。


 チェックを終えたイッセンがエレベーターに乗り込む。

 独特の浮遊感をおぼえながら、端正な顔を歪めて深いため息をつく。


「うう……胃が痛い……。消化器官なんて作るんじゃなかった……」


 極秘エレベーターの中で、体をくの字に曲げる。

 みぞおちのあたりを押さえながら、「うげっ、うげっ」と短くえづく。

 階数を示すランプが数字を増やすたび、胃痛と吐き気が高まる。


 いっそこのままエレベーターが故障でもしてくれないか。

 この密室に一生閉じこもっていたい……そんな気持ちがわいてくる。


 ――チーン


 しかし、現実は無慈悲だ。

 ランプは20階を示している。

 19階建ての防衛省庁舎には本来存在しないはずの20階。

 ダンジョン技術を応用して作り出された幻の最上階がそこだ。

 たった一人の男の要望に応えるためだけに生まれた専用のダンジョン、という言い方もできるだろう。


 エレベーターを降り、長い廊下を歩く。

 奥に進むにつれ、ピアノの音が薄っすらと聞こえてくる。

 交響曲第五番「運命」。

 ベートーベンの名曲が、徐々に音量を上げていく。

 イッセンには、これが自分の運命の行く末を暗示しているようにしか思えない。


 いや、待て、私よ。

 私は先進宇宙から来た一流のエンジニアなのだ。

 こんな後進宇宙の原生生物をなぜ怖れているのだ。

 その気になれば、カメラドローンを自爆させてこの惑星ごと粉微塵に吹き飛ばすことだってできるのだ。


 ……それをすると、23の並行宇宙が丸ごと崩壊するからできないが。


 なんとか勇気を取り戻したイッセンは、分厚い木製のドアを開ける。

 待っていたのは、しなやかな指でグランドピアノを奏でる男。


 フォーマルスーツの肩に真っ赤なタオルをかけた奇妙なファッション。

 細く尖った顎の異相。意志の強さを表すかのような黒々と吊り上がった眉。

 正確な来歴は<運営>の調査をもってしてもなお不明。

 公式プロフィールによれば70歳を超えているはずなのだが、その見た目はいくら上に見積もっても50歳に届かない。


「マイマスター、お客さんですよ」


 部屋の隅から、また別の男が現れた。

 手にした盆に、湯気の立つコーヒーカップを3つ載せている。

 シルクハットにタキシード、口元に口髭をたくわえた紳士然とした痩身の男。


 ――イリュージョニスト島崎。


 超日三羽ガラスの一人と呼ばれた男だ。

 可視光どころかあらゆる不可視光、ニュートリノや重力線まで見通すカメラドローンにも姿が映っていなかった気がする。


 何なんだよもう、化け物ばかりかこの惑星は!

 イッセンは、吐き出しかかった言葉をかろうじて飲み込む。


「おおっと、これは失礼した。ザキちゃん、お茶をありがとう」

「その前にお客さんにご挨拶でしょう」

「ハハハ! すまんすまん、ザキちゃんにはいつも叱られてばかりだな。さあ、どうぞこちらにかけてくれ」

「ははは、お気になさらず」


 乾いた笑いで返事をし、応接セットのソファに腰を掛ける。

 ふわふわで柔らかい。もう何ヶ月も味わっていないお布団の懐かしい感触がする。ああ、やばい、気が遠くなる。三徹の疲れがここに来て一気に……


「イッセン君、おひさしぶり。忙しいのにわざわざ来てもらって申し訳なかったね」

「びゃいっ! やっ、いえっ、そんなことは決して滅相もないですます!」


 眠りに落ちかけたイッセンの背筋がピンと伸びる。

 猪之崎の一言で、押し寄せてきた眠気が一気に引いた。


「昨日の件でね。なかなか困ったことになっていて」

「大変申し訳ございませんでしたっ! 弊社の管理不足監督不行き届きリスク管理の甘さの至りでございますっ!!」


 イッセンは、両手と額をローテーブルにびたーんと貼り付けた。ほとんど土下座の格好である。


「いやいや、頭を上げてくれたまえ。別に君たちの不手際を責めようってわけじゃないんだ」

「えっ!?」


 詰められるとばかり思っていたイッセンは言葉に詰まった。

 しかし、それでは逆に要件が読めない。警戒心がさらに高まる。


「君たちが、イッセン君ががんばっていることは私だってよく知っているよ」

「ぼ、ぼんど本当でずがぁ!?」


 温かい言葉とともに肩をポンポンと叩かれ、イッセンの涙腺が崩壊する。鼻水もだらだらと流している。

 この数ヶ月、優しい言葉をかけられたことなど……いや、人間らしい会話をしたことすら一度もないのだ。その上、仮眠すらない完全な徹夜が三連続。この醜態も致し方がないことだろう。


「もちろん嘘なんかつかないよ。これで顔を拭きたまえ、レディ」

「あびばぼうございまずぅ……!」


 猪之崎は方にかけていた赤いタオルを差し出す。

 イッセンはそれで顔を拭き、ずびずばばーと思いっきり鼻をかんだ。

 そして悲惨なことぐちゃぐちゃになったタオルを返した。


「失礼。取り乱しました。それでご要件とは?」

「今回がんばった子たちにご褒美がほしいってだけのことさ」


 猪之崎は指先でタオルを受け取ると、肩にかけずテーブルの端へそっと置いた。


「まずはゲストからだ。例のサムライレディ、愛刀が壊れてしまったようだ」


 猪之崎の目配せを受けた島崎がテーブルに何かを置く。

 それは酸でぼろぼろになった日本刀――ツナが打ち捨てていったものだ。

 昨晩仙台で失われたものが、なぜいま東京の猪之崎たちの手元にあるのか。

 仮にそれを尋ねたとしても、きっと島崎は軽く肩をすくめるだけだろう。


「天下五剣にも並ぶ名刀<髭切>。いくら使えなくなったとはいえ、未練なく捨てられるとはまったく剛毅なものです」

「私なら意地でも抱えていくがねえ」

「マスターは欲張りすぎるんですよ」

「ハハハ! 欲しいものは何が何でも勝ち取る。それが男の生き様じゃないか」

「付き合わされる身にもなって欲しいものですが……」


 本気で嫌な顔をする島崎に、猪之崎は唇を尖らせておどける。


「それで、これをどうしろと?」

「修理してほしいんだよ。君なら簡単だろう?」

「はあ。まあ、それくらいは……」


 電磁パルス生命体であるイッセンに、物品への愛着という感情はよくわからない。迷宮のドロップアイテムや、DPと引き換えに購入できる各種の品々も、AIの分析で高評価だったものを並べているだけだ。彼女自身はそれらに価値を感じていない。


 イッセンが<髭切>を指差すと、傍らを浮遊していたカメラドローンが近づく。

 真っ黒な筐体にぴしりとヒビが入り、中から金属製の触腕が何本も飛び出した。

 そして、それらが火花を散らしながら<髭切>の刀身を撫でていく。


「地球時間で24時間前の状態に復元しました。これでよいですか?」

「おお、相変わらずすごいな、君たちの技術は!」


 猪之崎は、妖しい輝きを取り戻した<髭切>を照明に透かし、色々な角度から目を細めて堪能する。


「ザキちゃん、見てくれよこの波紋の美しさ!」

「はあ、あいにくと僕には刀剣の趣味はありませんで」

「これがわからないかなあ。ザキちゃんも案外無粋だねえ」

「お気に入りでしたらコピーしましょうか?」

「いやいや、こういうものはね。作り手の魂が籠もっているからこそ美しいのさ! 直すのはともかく、レプリカを作ってしまうのは無粋ってものさ!」


 イッセンが提案するが、猪之崎は首を横に振る。

 自己複製能力のない工業生産物に魂などあるわけもあるまいとイッセンは思うが、多次元的量子魂魄理論はいまでも新しい学説が登場する分野だ。専門家でもないイッセンに、魂の話題など手に余る。


「返すのはこちらでやっておくよ。サムライレディにも挨拶したいしね。それから<童子切安綱>だ。あれもちゃんと返してやってくれ。自衛隊が回収して行ったろう?」

「それは猪之崎氏から伝えた方が早いのでは」

「ハハハ! バカを言っちゃいけない。私如きが防衛大臣に命令するなんておこがましいじゃないか」


 そう笑う猪之崎の尻の下に、防衛大臣室があるのだからまったく説得力がない。

 真意は分からないが、積極的に表に出る意志はないということなのだろうとイッセンは理解する。


 さらに猪之崎は細々としたことを要望していく。

 今回のダンジョン災害では京都、東京、仙台の事件がばかりがクローズアップされているが、他の地域でも小規模な被害が発生していたのだ。北海道のジンギス・カーン、秋田のナマハゲ・ザ・ジャイアント、九州のサツマハヤトといった地方レスラーの名前が次々に並ぶ。いずれも、ダンジョン災害に立ち向かったプロレスラーたちである。


「これで最後の要望だ。ザキちゃん、アレを」

「はい、マスター」


 島崎がタキシードの懐から紙筒を取り出す。

<髭切>もそうだったが、明らかにそんなところに収まる大きさではない。

 しかし、猪之崎はそんなことには意も介さず、受け取った紙筒の蓋をキュポンと開け、中から大きな紙を取り出してテーブルに広げた。


「一番の功労者にはね、これをプレゼントしたいと思うんだ」

「個人所有ということですか?」

「いやいや、そうじゃない。これを作ってくれるだけでいい。レンタル料金も相場通りでいいだろう。みんなで使えた方が彼も喜ぶだろうしね」

「はあ、わかりました」


 イッセンはカメラドローンに紙に書かれた内容を記録させ、部屋を出た。

 そしてやや早足でエレベーターへと入り、ドアが閉まってからべたりと床にへたり込む。


「うあー! 大したことじゃなくてよかった! 何なんだよアイツもう、そんな要件ならメールで済ませろよぉ!」


 イッセンの脳裏には、猪之崎との出会いがよぎっていた。

 それは忘れもしないダンジョンの実装日、見切り発車のそれは不具合の塊だった。

 日暮里ダンジョンの最深部1024層で現地調査をしていたイッセンに、「やあ、君はここの関係者かい?」と散歩中のように気軽に声をかけてきたのが猪之崎だったのだ。

 いや、実際散歩中だったのだろう。足の短いダックスフンドを連れていた。何なんだよアイツ。


 それからまあ、思い出したくもないことが色々あって、イッセンは猪之崎に頭が上がらない。というか、猪之崎が超次元航行手段を手に入れたら、逆らえるものは全宇宙に存在しないのではないかとまで思えてくる。


 ダンジョンの中でも、弱小モンスターが異常な成長を見せるケースが発生しており、気の休まる暇などない。

 そこまで考えて、イッセンは改めて頭を左右にぶんぶんと振る。


「いや、ダメだ。気は休めないとダメだ。交渉はとても長引いたんだ。すごくすごく長引いた。それから会食に誘われた。断れるわけもない。だから私が酔っ払って帰社しても仕方がないんだ……」


 イッセンは、アバターの神経意識をインターネットに接続すると、昼間から飲める居酒屋を検索した。


 * * *


 イッセンが立ち去った部屋。

 アトラス猪之崎とイリュージョニスト島崎が何かを話している。


「それじゃ、ザキちゃん、この件よろしく頼むよ」

「承知しました。しかし、本当にあの二人でよろしいので?」

「君が出たいのかい? それならそれでかまわないよ」


 猪之崎の問いに、島崎は「とんでもない」と首を横に振る。


「いやいや、僕が出張ったら完全に戦争の構図アングルじゃないですか。そうじゃなくて、本当はマスターがやりたいんじゃないんですかって聞いてるんですよ」

「ハハハ! それこそ戦争になっちゃうじゃないか」


 猪之崎は大声で笑うと、島崎にそっと耳打ちする。


「それに、これは秘密なんだがね。じつは、プロレスはるより見る方が好きなんだよ」


 猪之崎はウインクをして、部屋を出ていった。

 最後に残された島崎は、ふうと短いため息をつく。


「まったく冗談ばかり……。最近、トレーニングの強度をまた強めたことなんて知ってるんですからね」


 彼らがさらに成長したとき、猪之崎は万全に仕上げて立ちふさがるつもりなのだろう。その試合は、「最強」という名のベルトを賭けるのにふさわしい内容になるはずだ。


「さてさて残りは一週間。僕のガラじゃありませんが、スパルタで仕上げますかね」


 部屋の灯りが消える。

 島崎の姿も、闇に溶け込むようにふっと消えた。

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