第127話 日暮里ダンジョン氾濫
■東京都荒川区 日暮里
日暮里。
江戸城の鬼門の方角に当たるこの地には、江戸初期に慈眼大師天海によって開かれた寛永寺がある。徳川家康の腹心であった天海は、密教、陰陽道に広く通じ、江戸幕府の鎮護を祈願し、呪術的狙いをもってこの寺を創建したとも言われる。胡乱な説ではあるが、その正体を明智光秀と同一視するものもある。
鬼門とは北東を指し、風水においては邪気の流れ込む方角とされる。
8年前に発生した日暮里ダンジョンは、まさしくその寛永寺の境内に入り口があった。
鳥居から溢れ出すのは百鬼夜行。
毛のない皺だらけの緑の猿、ぐちゃぐちゃと真っ黒な粘体生物、ぼろぼろと鱗の剥がれた二足歩行の蜥蜴人、きらきらと毒の鱗粉を撒きながら笑い狂う羽つきの小人。そういった異形どもが、津波の如く押し寄せ、一帯を蹂躙したのだ。
被害は深刻で、魔素によって汚染された土地は常人が住める環境ではなくなった。
木々や花々はねじくれ奇声を上げ、蝶は口吻を人に刺して血をすすり、あちこちに瘴気の吹き出す毒沼が湧き出した。
閑静な住宅街であった日暮里は、一夜にして地上の地獄と化したのだ。
元からの住民はそのほとんどが避難し、地価は実質ゼロになった。
日暮里の土地を買いたい者など、誰もいなくなったのだ。
しかし、年月が経るとそこに住まう者たちが現れる。
最初はホームレス。無人となった家々に、我が物顔でいつきはじめた。
次は脛に傷を持つもの。
前科者や指名手配を受けたもの、一般社会に馴染めない者たちが集まった。
半グレやヤクザ、蛇頭やマフィアといった犯罪組織も流れ込む。
そして、配信者。
なにしろ日本で最初のダンジョンだ。
撮れ高のある鉄板のコンテンツであり、難易度にふさわしい希少品のドロップもある。
長期のアタックを続ける配信者がキャンプを張る。
人が集まる。バザールめいた市が立つ。
配信による収益は<運営>から支払われるため、銀行口座すら作れないヤクザ者でも稼げると知られる。
低層であれば危険は少ない。
運が良ければ大金を得られる可能性もある。
それに惹かれて、ホームレスたちもダンジョンに挑みはじめる。
そうやって出来上がったのが、現在の日暮里の街だ。
寛永寺を中心に、ダンボール、トタン、プレハブ、材木、プラスチックに帆布に廃材……そういったもので作られた、テントとも住宅ともつかない何かが不規則に密集する。
その日暮里が、8年の時を経て再び地獄の様相を呈していた。
地上ではありえない異形のモンスターが溢れ出し、でたらめに作られた街をでたらめに破壊していく。
それに向かって、有象無象の配信者たちがでたらめな奇声とともにでたらめに殴りかかる。
血しぶきが、肉片が、悲鳴が叫喚が喚声が咆哮が断末魔が満ちる空間で、ナイフを片手に走り回る少年がいる。
この物語において、この少年は重要ではない。
2023年8月15日、折しも終戦記念日に起きた事件の目撃者として最適なだけだ。
少年の名は――Nとしよう。
Nは家出少年だ。16歳。高校1年生だった。学校に馴染めず、半年で退学した。両親は何も言わない。どちらも不倫しており、恋人に夢中で、家の中での会話は一切ない。そんな両親を嫌って、家を飛び出した。最初は新宿に流れ着いた。歌舞伎町のTOHOビルの横に、似たような境遇の子どもたちが集まっていたからだ。
しかし、そこにも馴染めなかった。
そこにはそこで、独特のルールがあり、上下関係があり、マナーがある。
そういうものがとにかく嫌だったのだ。再び逃げ出した。
たどり着いたのが日暮里だ。
電車賃もない。23区を東西に横切って夜通し歩いた。
日暮里はNの望んだ混沌だった。ここで物を言うのは、
Nは生まれて初めて、馴染める場所を見つけた。
否、馴染まなくても良い場所を見つけたのだ。
ルールを押し付けるやつは、ナイフを押し付け返せばいい。
利用しようと近づくやつは、逆に利用し返してやればいい。
何もかも嫌になったなら、ダンジョンに潜って死ねばいい。
ここが俺の居場所だ。
Nがそう信じた場所が。いま地獄と化している。
狂乱するモンスターの津波と、狂乱する配信者たちの津波が激突している。
馬鹿だ。
馬鹿だ。
馬鹿だ。
馬鹿しかいない。
逃げ惑いながら、Nは思う。
どうしてこの世界は俺の居場所を奪うんだ。
逃げ込んだ路地裏。
ブロック塀に挟まれた住宅街。
狂騒がほんの少し遠のく。
ひび割れ歪んだアスファルトにへたり込んで、荒く息をつく。
ここならしばらくは安全だろう。
少し休んで、また走ろう。
そう思ったときだった。
「ひゃっひゃっひゃっ! こういう場所に逃げ込むやつがいると思ったんだよなア」
「さすがは大将。おいらたちとは頭の出来が違うヤ」
「ししししし、や、柔らかそうな人間なんだナ」
取り囲まれていた。
生臭く、据えた臭い。
皺だらけの猿のような醜い顔に、でっぷりと太った人の体の怪物たちが、Nを囲んでいた。
石や骨を削り出して作ったのだろう、不格好な武器を手にしている。
「正面から人間とやり合うなんて阿呆の仕業ヨ。賢いやつはおいしいところからつまみ食いするもんダ」
ホブゴブリン――そう呼ばれるモンスターだと、Nは理解する。
体重は百キロを超える巨軀。それに見合った怪力と、見た目にそぐわぬ奸智によって配信者を襲う厄介な魔物だ。駆け出しの配信者が無惨に虐殺される動画を、Nは何度も見たことがあった。
「心臓の肉は俺がもらうゼ」
「脳みそはおいらにくれヨ」
「い、い、生きたまま、お尻の穴から食べてみたいんだナ」
十数匹のホブゴブリンの群れが、包囲の輪を縮める。
Nはちっぽけなナイフを振り回して威嚇するが、ホブゴブリンたちは薄汚く嘲笑うばかりでたじろぎもしない。
覚悟を決めて、群れのリーダーらしいものに斬りかかる。
しかし、決死の一撃は刃を掴まれて受け止められる。
「こんななまくらじゃ、皮一枚切れねえんだヨ」
手首を掴まれ、引き寄せられる。
頬を生臭い舌が舐める。
「よく見りゃかわいい顔してんじゃねえカ。腹ごしらえは遊んでからにしようゼ」
下卑た笑いがNを包む。
逃げようとするが、万力のような力で掴まれた腕が振りほどけない。
「それじゃあよう、まずは歯を全部へし折っテ――」
Nの口に太い指がねじ込まれたときだった。
「んぎゅウ? 力が入んねエ? あべっ?
もっと太い指が、ホブゴブリンの頭をドアノブのように回していた。
そして、ホブゴブリンの身体が小枝のようにぶん投げられ、ブロック塀を砕いて動かなくなる。
Nの目に映ったのは、白い男。
灰色がかった縮れた長髪を後ろにまとめ、白いスーツをまとった男。
冬のヒマラヤ山脈を思わせるような、圧倒的な巨軀。
その巨人が、巨岩のような巨拳を握り、無造作に振るう。
一度、二度、三度。
振るうたびに、ホブゴブリンが吹き飛んでいく。
「ちょっとアニキー! 独り占めはずるいんだからね!」
頭上から女の声。
アシンメトリーのウルフカット。
ピアスまみれのパンクファッション。
そんな少女が空から舞い降り、くるりと回し蹴りをする。
「もギゃっ!?」「ほベっ!?」「うギっ!?」
間の抜けた断末魔。
3体のホブゴブリンの首が、胴体はそのままに真後ろを向いている。
残りは7体。
謎の闖入者に仲間を瞬く間に殺され、怒るべきか、恐れるべきか、それすらも理解できず呆然と立ちすくむ。
「バン君、ショコラ君、遠足だからってはしゃいではいけないよ。僕たちレスラーは、どんなときでも魅せる闘いを心がけなくっちゃ」
そのホブゴブリンの背後から現れる一人の男。
シルクハットを被り、タキシードを着て、紳士然とした口ひげをたくわえた男。
白い男と同じくらいの長身だが、体重は半分あるかも怪しい細身だ。
その男が、ステッキをかつかつと突きながらゆっくりと歩いてくる。
「こ、こっちから逃げるゾ! この痩せっぽちをぶっ殺セ!」
我に返ったホブゴブリンの1匹が、シルクハットの男に向けて突進する。
残る6匹もあとに続く。
巨人も、少女も、到底手に負える相手ではない。
この痩せっぽちの人間なら、殴り倒して逃げられる。
「はあ、君たちもエンターテイメント精神というものがないのかね?」
シルクハットの男は、呆れたようにため息をつく。
殺到するホブゴブリンたちに左手を伸ばし、指をぱちんと鳴らす。
「ぬぐっ!?」
先頭を走るホブゴブリンの視界から、シルクハットの男が消えていた。
そして、重力も消える。
足裏から伝わる地面の感触がなくなる。
正面、地面、背後、夜空、正面、地面。
世界がぐるりと縦回転し、顔面からアスファルトに叩きつけられ、「ふゴっ!?」と間抜けな声が出る。
「な、何ガ……!?」
混乱しながら立ち上がる。
最初に感じるのは、口内に満ちた血の味。
次に
涼し気に髭をしごく、シルクハットの男。
「はあ、マイマスターなら君たちのような無粋を相手でもきちんとプロレスができたのかもしれないな。まったく、僕はまだまだ練習不足だ」
「な、何を言っテ……」
「そうだ。リングアナウンスがないのを忘れていたよ。僕は
シルクハットの男――幻想使いが再び指を鳴らす。
ぱちんと乾いた音とともに、またしても男の姿が消える。
「どコっ!? どこダっ!?」
唯一生き残ったホブゴブリンは、必死で左右を見渡した。
白い男、黒い女、弱々しい少年。
それらの視線が、自分の頭の上に集まっていることにようやく気がつく。
目を剥いて真上を見ると、己の頭上に載る革靴が一揃い。
「軽功って言うんだけど、キミ、武侠ものとか知ってる?」
己の頭に立った、羽毛のように軽い男が素早く両足を開いた。
左右に分かれる革靴の裏が、ホブゴブリンの見た最期の光景だった。
「ねえ、それってどうやってんの?」
夜空から舞い降りた少女が、シルクハットの男に尋ねる。
「ショコラ君、何度も教えているじゃないか。僕のこれは峨眉少林拳に由来があって――」
「だーかーらー、そういう難しいのパス。コツだけ教えてよ」
「はあ、そんな簡単にできるものじゃないって言いたいんだけどなあ」
わーぎゃーと騒ぎはじめる二人をよそに、白い男が無愛想につぶやく。
「子供、一人で逃げられるか?」
聞いたこともない呼ばれ方に、Nは一瞬反応が遅れる。
「あっちに逃げろ」
白い男が指差す先に、Nは必死に駆けて行った。
それを見たシルクハットが、髭をしごきながら口を出す。
「バン君、きみはもうちょっと愛想ってものをだねえ」
「そんなものはわからん」
「男は愛想、女はドジョウってやつだっけ?」
「ショコラ君、女がドジョウってどういうことだい?」
シルクハットの男――かつて超日三羽ガラスの一人と呼ばれたイリュージョニスト島崎は、厄介な弟子を押し付けられたものだと嘆息をつく。
「とはいえ、マイマスターは京都に行っちゃったからねえ。こっちは僕たちでどうにかするしかないか」
政府の特記戦力として指定されている超日レスラーたちは、日暮里の各地に散らばって氾濫したモンスターと戦っている。唯一の例外は社長のアトラス猪之崎だ。「ザキちゃん、東京は任せたよ!」などと言って自家用ジェットヘリで飛んでいってしまった。
超日プロレスリング副社長である島崎は、東京の指揮を
「僕も
島崎は、北東の夜空に向けて遠い目をした。
そういえば、仙台でもダンジョンが氾濫しているそうだ。
援軍を送れるならそうするべきなのだが、そちらにまで割ける戦力はない。
「ま、あっちにはクロやんもいるし、タカやんの娘さんもいるし、どうとでもなるか。そういえば、マスクド・ササカマだっけ? 彼もいい選手だよなあ。教えるならああいうタイプがいいや」
そんな独り言をつぶやいていると、
「ドジョウはドジョウよ! 田んぼにいるニュルッと細長いやつ、知らないの?」
「煮ると美味いな」
「ああ、うん。君らはそれでいいや。それじゃ、ぼちぼち次行くよー。ああ、浅草にドジョウ鍋の名店があるからさ、がんばったらそこでごちそうしてあげる」
「うちは鰻がいい」
「鰻も美味いな」
「あのね、そこは『ごちそうになります!』って喜ぶところなのよ?」
中学に上がったばかりのうちの娘の方がよっぽど大人だなあ、などと思いつつ、島崎は臥藤兄妹を引き連れて日暮里の狂騒へと足を進めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます