第115話 仙台藩 比良坂宿場 

 時は文政6年(西暦1823年)。

 イギリス、アメリカ、ロシアなど諸外国の商船がしきりに日本列島に接近し、この2年後には異国船打払うちはらい令が発せられる頃である。

 ほどなく訪れる幕末の騒乱を知らぬ奥州街道を、一人の若侍が旅していた。


 背はすらりと高く、線は細い。

 月代を剃っておらず、総髪を後ろでひとつに縛っているだけだ。


 土埃にまみれた脚絆からは長い旅路を想像させるが、そのかんばせに疲れの色はない。文月ふづきの強烈な日差しに焼かれてきただろうに、どういう手妻てづま李朝白磁りちょうはくじの名品のごとく抜けるような肌をしている。


 若侍と行き逢った者は、男も女も老いも若きも問わず、ぽっと頬を染めて見とれてしまう。

 足を止めるだけならまだましだ。もと来た道を戻ってふらふらとその艶やかな後ろ姿を追おうとする者も珍しくない。老人ともなれば思わず手を合わせて拝み始める者までいる。

 歌舞伎の女形おやまにでもなったなら、大層な人気を博しただろう。


「お武家様、お茶などいかがでございましょう」


 茶屋の女中が勇気を振り絞り、若侍に声をかける。

 女は女で近在の宿場町では一番の器量良しと評判の看板娘であったが、若侍の美貌の前には霞んでしまっていた。


「すまぬな、拙者は先を急ぐゆえ」


 凛と涼やかな返答。

 声色までがつややかだ。

 女はへなへなと腰が砕けそうになりつつも、「どちらまで」と行く先を尋ねる。


「今日中に比良坂宿じゅくまで行きたくてな」

「なんと、比良坂まで」


 この茶屋から比良坂の宿場町までは、早馬でも丸一日かかる。

 それを徒歩で往こうとは無茶が過ぎると止めようとした。


 しかし、女の前から若侍の姿はすでに消えている。

 遠く道の先にかの若侍の後ろ姿があった。


 ゆったり歩いているようにしか見えぬのに、飛脚が走るよりも速い。

 若侍の背中はみるみる点になり、やがて峠の向こうへ消えた。


 女はあやかしにでも化かされたのかと、ほっとため息をついて目を擦った。




■比良坂宿(文政6年同日)


 日ノ本の国にそれ・・が生まれたのは約200年前、元和元年(西暦1615年)まで遡る。


 のちに大坂冬の陣と呼ばれる合戦を終え、豊臣氏が滅亡し、神君家康公を頂点とする江戸幕府が盤石となった最初の年だった。元和への改暦もそれを祝い、新たな世が始まることを天下に知らしめるためのものである。


 最初の異変は江戸の郊外。

 江戸城の鬼門の方角に当たる、日暮里の地で起こった。

 寝物語にしか聞かぬような妖怪変化が大量に出没し、人々を襲ったのだ。

 幕府はすぐさま直参じきさんの兵を束ね、これを鎮圧。

 原因が一軒の古寺に生じた洞穴であることを突き止める。


 洞穴には明らかに人の手が入っていた。

 方形に切り揃えられた石畳で舗装され、壁も天井も同様の素材でできている。

 中は迷路のように入り組んでおり、宮廷(天皇の住居)よりもなお広いと噂され、やがて自然と迷宮・・と呼ばれるようになった。


 この日を境に迷宮は日ノ本の各所に出現し、各藩は対応に追われた。

 幕府が取り仕切って援軍を出すこともあり、外様支配の強化、旗本制の整備などに影響を及ぼしたと言われる。実際、外敵の存在しなくなった日ノ本において、未だ戦国の気風を強く残した武士たちは、新たな敵の出現に歓喜したとも伝えられる。


 だが、歓喜した理由はただそれだけではない。

 迷宮からは様々な産物――食料、金銀、香木、珊瑚。翡翠に琥珀に真珠に瑪瑙めのう。お伽噺に出るような不思議な力を備えた道具などなど。まさしくお宝としか言いようのない財物が採れたのだ。


 金山、銀山以上に藩の権勢に影響を与えるものである。

 中央集権を目指す幕府はこれを取り締まるかと思いきや、まるで反対の方向へ政策の舵を切った。


 俗に言う、迷宮解禁令である。

 幕府の直轄にするどころか、広く庶民にも開放しなければならぬとしたのだ。

 それにより、迷宮には武家や浪人のみならず、腕におぼえのある町人や喧嘩自慢の百姓までもが流入し、活況を呈した。迷宮の生み出す財物に限りはなく、現在に至るまで枯れることはない。


 物が溢れて価値を失えば、また別の産物が自然と現れる。

 迷宮の中で命を落とすものも珍しくなかったが、その危険と天秤にかけてもあまりに迷宮は人間にとって都合が良すぎた。江戸二百年余の太平も、ダンジョンによる好景気が続いたためだと分析する歴史学者は多い。


 これら一連の動きに<運営>が関わっていることも半ば公然の秘密であった。

 幕府には迷宮奉行なる役職が設置され、それは老中の下に就く通常の奉行職とは異なり、将軍の直属とされた。迷宮奉行の職掌は多岐にわたり、最も広く知られているものと言えば「写し絵巻」の普及が挙げられるだろう。


 それは手のひらに収まるものから、壁一面に広げられるものまで大小様々で、写し絵巻同士で撮った映像を離れた土地から共有したり、所感を書き込むことさえできる画期的な絡繰からくりであった。


 これを使い、迷宮探索の様子を広く見せることを「迷宮のまことを配る如く」として、「配信」と呼ぶようになった。


 配信が人気を博すと、<運営>から「迷宮点銭」なるものが支給される。

 しばしば改鋳を行う幕府発行の銭や小判と異なり、迷宮点銭は恣意的な価値の変動がなく、非常に扱いやすいもので、市井でも金銭の代わりとして広く使われるようになった。迷宮点銭のやり取りも、写し絵巻があれば簡単に行えるのだ。


 これは日ノ本のみならず、諸外国でも同様であり、迷宮点銭を利用した抜け荷の対処に頭を悩ませていたと当時の役人の記録にも残っている。


 閑話休題。


 話を若侍に戻そう。

 異様な歩法で韋駄天ぶりを発揮した若侍は、昼過ぎには比良坂宿に着いていた。

 比良坂宿は、早くから迷宮が生まれたことで、それに挑む配信者たちによって発展した宿場町である。


 若侍もご多分に洩れず迷宮に直行するかと思いきや、迷宮を所管する代官所に立ち寄った。

 浪人などは入れぬはずの迷宮代官所であるが、若侍が何がしかの手形を見せると門番は「へへえ」とかしこまり、代官所の奥座敷まで案内した。


「お、お代官様。改方あらためがたのお見えでございます」

「なっ、改方あらためがたが!? わ、我らに何も後ろ暗いところなどないぞ!?」


 うろたえるのは白髪まじりの老人だ。

 この代官所の代官である。

 ごくささやかな規模ではあるが、迷宮産品の横流しや、便宜を図った配信者から賄賂まいないを受け取っていることなどが露見したのかと、顔色が蒼白になった。


「迷宮奉行支配迷宮改方あらためがた渡辺綱わたなべのつなである。邪魔をする」

「と、当代の渡辺様でございますか! こ、これ、早く茶を、いや、一等上等の酒を持て!」

「いや、かまうな。拙者はすぐに迷宮へ潜る。その前に、この地で変わったことがあったと耳にしてな。それについて聞きたくて参ったのだ」

「さ、左様でございましたか……!」


 蒼白だった老人に顔色が戻る。

 渡辺綱わたなべのつなを名乗った若侍には、この老人の不正などお見通しであったが、役人の小さな汚職など珍しくもない。よほど派手にやらない限りは役得として目こぼししている。


 勘違いをされがちなことだが、迷宮改方あらためがたの本分は代官の不正を暴くなどという些末なことではない。かつて日暮里で起きたような惨事を繰り返さぬため、迷宮を日々探索し、わずかな異変も見逃さぬことがその本来の職務なのだ。


「して、さっそく本題だが、この地の迷宮にて異国風の服装をした人型が目撃されているとは本当か」

「ええ、はい。ご存知かと思いますが、配信の記録にも残っておりますれば……」


 老人が差し出した写し絵巻には、たしかに異国風の服装をした男女が映っている。

 それも一組や二組ではない。目撃例は徐々に増えている。


「誰かの狂言ではないのか?」


 若侍――ツナの疑いはもっともだった。

 配信で人気を得るため、偽物の映像を作るものは珍しくない。


「に、人別帳とも照らし合わせておりますが、このような者たちは記録になく……」

「迷宮の出入りは万全か? 関所を通らず入る者はおらぬのか?」

「も、もちろん万全にございます!」


 再び蒼白になってきた表情に、ツナはこの老人の言葉に嘘はないと判断する。

 この小役人はちっぽけな不正を働く程度の知恵は働いても、堂々と役目の手を抜くような真似はできないだろう。


「ならば、本格的に調べねばならぬな。資料を見せてくれ。いや、面倒だ。資料庫に案内あないしてくれ」

「はっ! 承りましてございます!」


 老人に案内された資料庫で、ツナは凄まじい速度で冊子をめくる。

 速読により一通りの情報を頭に叩き込むと、「ご苦労だった。では、これより迷宮へ向かう」と資料庫を出た。

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